その、自身の口から漏れた言葉に、少女は遅れて、理解を追いつかせた。
「ち、ち、ち、違う! 違うの、ヤフユ! 『いや』ってのは、拒絶の意味じゃなくて――」
照れ隠しと焦りで、少女は紳士を突き飛ばしていた。ただの人間である紳士は、それによろめき、尻もちをつく。
「あ、あわあわ……」
少女の言語能力はぶっ壊れていた。不可抗力とはいえ紳士を突き飛ばし、転倒させたことへの申し訳なさが、とうに壊れかけていた少女の心を、またひとつ折ったのだ。
「大丈夫だから、落ち着いて、ノラ」
「――――っ!!」
笑顔で起き上がり、少女を落ち着かせようと、その両肩を掴んだ。片腕はすでに義手だが、もう片方は本物だ。血の通う、肉体だ。その熱が、少女の頬を、茹で上がらせる。
「お、おおおお、落ち着きなさい!」
「うん。きみがね」
「ええぇぇ? へええぇぇ……?」
身体をくねらせ、紳士の視線から、逃れようとする。だが、少女の肉体は、すでに、力を失っていた。紳士の拘束すら、振りほどけない。さきほど彼を突き飛ばしたのが一番の問題だ。そのせいで少女は、必要以上に力を、無意識にセーブしているのだ。
「それで、『いや』が拒絶じゃないなら、それは、『いい』ってことなんだよね」
「い、いいいい、いい?」
少しずつ落ち着こうとがんばってはいたが、そのせいでなおのこと、発言に対する集中力を欠いていた。少女は現在、ひとつのセリフでひとつの文字しか羅列できないようである。
「きみは、わたしの、そばにいてくれる。ずっと、離れない。どこにも、行かない」
おそらく、話す能力だけじゃなく、聞く能力も劣化しているだろう。そう思い、紳士は、一言一言を、短く区切って、丁寧に伝えた。
「ずずずず、ずずずず、ずずず……?」
……だめだ。この子。もはや頭が回っていない。紳士は、そう思った。
「ずっとは……無理よ」
だが、少女は戻った。そしてきっと、戻りすぎた。
それは、少女だ。
少女と呼ぶべき、ただの、女の子。きっと、特別な力などなく、人並みに抜けていて、普通な少女。
どこにでもいる、可愛い少女。いまだけは、そんな、それだけの少女で、愛する人へ――いましがた自分に、愛を伝えてくれた男性に、向き合う。
*
「ヤフユ。人生に、『永遠』はないわ」
それまでの失態などなかったかのように、少女はそう、はっきりと言った。肩に置かれた紳士の両手を、自身の手で、掴んで降ろす。
「人間は、いつかいなくなる。わたしは必ず、あなたのそばから、いなくなるの」
「ノラ、違う。わたしが言っているのは――」
「精神性の話。野暮なこと言わせないで。そんなの解ってる」
咎めるような声に、棘はない。諭す言葉でもない。ただ、この時間を台無しにしないように、ついた言葉。
「あなたの気持ちは嬉しい。わたしも同じ気持ち。あなたが好き。大好き。愛してる。ずっと……ずっと、一緒にいたいわ」
そう、ずっと……。その言葉に深く思案するように、少女は、俯いた。そこにある紳士の手を、ぎゅっと握る。そして、お互いの指で遊ぶように、その手をいじった。
「だけど、やっぱり『永遠』なんてない。そして、それでいいの。わたしたちは、ずっと一緒にいられないから、この限りある時間を大切にできる。いまここにいるあなたを、本気で愛せるの」
指いじりをやめて、強く握る。決意を、覚悟を、愛を伝えるように、強く。
「ねえ、信じて、ヤフユ」
それから、同じだけ強い目で、彼を見上げた。
「あなたの――」
その言葉に、その通りの、意味を込める。
「あなたの妻は、あなただけを愛している。あなたを軽んじてなんかいない。間違いを――少なくとも、この関係に背くような間違いを、やろうとしてるわけじゃない。……信じて、くれる?」
期待。不安。それらをない交ぜに。そして、懇願する。
だめなら、だめだわ。そう、少女は思った。
もし彼が、それでも食い下がるなら、もうきっと、自分には抗えない。それはきっと、素敵な生活の継続になるけれど、しかし、永遠の――いや、違うか。息絶えるまでの、あくまでそれまでの、有限の地獄の始まりにもなるだろう。
そう、少女は諦めた。それはきっと、女傑にもメイドにも、男にもできなかった。少女の意思を――聡明な彼女の、なんでも自分で理解して、決断できる彼女のその意思を、初めて完全に委ねられた。――という、それは、白雷夜冬の成し遂げた、一世一代の、偉業だった。
その、少女の思いを、紳士は敏感に、感じ取る。
そしてそれを、汲む。そのうえで、自分の意思をも上乗せして、間違わないように慎重に、正しさを――自分にとっての『正義』を、選び取った。
「…………解った。……信じる。信じている。……ここで、待っているから」
そう言うと、紳士は道を開けた。
名残惜しそうに、少女はもう一度、その手を握り、彼を見つめる。じ、っと、見つめて、瞬間、ちらりと男を見た。
男は、鈍感だった。が、しかし、少女がそっと、紳士に近付いて――その頬を染めて、静かに瞼を降ろして、背伸びをして……ようやく、目を背けた。
その先の一瞬を、男はだから、見ていない。つまるところ、そのとき、彼と彼女がなにをしたのかは、ふたりだけが知っている、秘密だ。
*
『世界樹』は、まさしく『樹』である。普通に樹木である。
それが、いつからそこにそそり立っていたのか、誰も知らない。フランスの、パリ9区。その都会のただなかにそびえた大樹は、それはそれは目立つ存在だったはずだ。しかし、そんなものの記録など、どこにもない。
それは、あの日。かつての若女が、世界を救った、そのとき。きっとそのときに、この世界に定着した。――というのが、壮年の推測だった。
いくつかの、『異本』。特に、『啓筆』序列五位、『幾何金剛』。その存在を隠すために、そこに『因果』を縫い付けられた。そしてその絶対防御の中に、二冊の『異本』を封じるため。
啓筆、序列二位。全世界の空間を管理する、『天振』。
そして、序列一位。かつての若女が――壮年の妻であり、男の母親である彼女が書き上げた、世界への対抗策。
「これが、最後の『異本』……」
『世界樹』の表皮に浮かんだ、階段のようなうねりを登り、三合目あたりから内側――うろの中に入り、また少し、登った。天然の樹木でありながら、人間が往来することを想定したような創りに疑問は覚えたが、ともあれそれを登ってみるに、そこには、あまりに人知を超えた、完全なる球体が鎮座ましましていた。
男の感嘆は、どちらかというとそれに向けられたものだ。道中、完成された『無形異本』や、その他、WBOが管理していた『異本』を回収して、その、最終到達点に至った。つまるところ本当に、本当の本当に、最後の『異本』群であるわけだが、その回収に感極まったというよりは、やはり、眼前の完全なる球体に、気圧されたわけである。
「こんなもん、どうやって――」
回収するのだろう。その答えを男はとうに知っているはずなのだが、そんなことなど忘れてしまうほどの存在感だった。
「普通に、『箱庭図書館』を向ければ回収できるわよ。まったく……」
『幾何金剛』そのものに人間が関与できないとしても、その存在は、そもそもそのものが、『異本』だ。『箱庭図書館』は、近付けることで『異本』を、吸い込むように取り込むことができる。そのことを男は、たとえば、ヤップの深海で『Stone 〝BULK〟』を蒐集したときに経験していたはずなのだ。
まあ、そんなことを頭からぽっかり失わせてしまうのも、解らないでもないけれど。と、少女も内心で同意した。それほどまでに眼前の光景は、常軌を逸していた。
「ともあれ、眺めてても仕方ないわ。ちゃちゃっと蒐集しちゃいましょう」
その光景を前にしておきながら、気軽い物言いをする少女にたじろぐけれど、言うことはもっともだった。いまさらビビっても仕方がない。そう思い。
「お、おう……」
男も腹を、くくった。
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