翌日。
なにを隠そう、この日が決戦当日である。今日この日、ネロ・ベオリオント・カッツェンタがモスクワを訪れる。数日間は滞在するだろうが、いつ用事を終え、また姿を眩ますとも解らない。それでも紳士が合流することができたなら、ぎりぎりまでそれを待つ気もあったが、いまとなってはそれも望み薄だ。
ゆえに、早い方がいい。いや、どちらにしても早い方がいいに決まっている。それでも、数々の準備に時間を食った。
だが、だからこそ、細工は流々。あとは仕上げを、見られる結果にするだけだ。
*
のだが。
「つーん」
ホテルのレストランで朝食中、幼女はずっと不機嫌だった。
「おおい、ラグナ。そろそろ――」
「パン。ブルーベリージャム、ちょっとね」
「…………」
膝に乗せた幼女へ、その口元へ、その言葉通りのものを、男は向けた。男の側からは見えないが、それに齧りつくとき、彼女は少しだけ満足気に笑って。
「むーん……」
それを見て、向かいに座るメイドは、ずっと不機嫌だった。
「ハク様、ラグナを甘やかし過ぎでは?」
ジト目で男を見る。いや、幼女の後ろに隠れて見えない、のだが。
そんなメイドと目が合うから、幼女はもっと不機嫌になる。
「ハク、スープ!」
「はいはい……」
呆れながらも、男は言葉通りにスプーンを向けた。そのスプーンごとをも食べそうに、幼女は勢いよく食らいつく。
だから、男はスプーンを手放して、幼女の口に預けた。
「俺もそんな気がしてきたよ、メイ」
男は嘆息する。そんな男を諌めるように、幼女は、思い切り男へ寄りかかった。
*
先日、遅めの昼食を終えたのち、深夜まで爆睡してしまった幼女は、半日を無駄にしたことを悔やみ、それらをすべて、男のせいにした。それゆえに朝から不機嫌だった幼女を、男はなんとかたしなめて、やけに時間のかかった朝食を終える。
「なんとも緊張感がねえな……」
とはいえ、それくらいでいいのかもしれない。少なくとも幼女に危険な役割は回さないし、男自身、普段通りにしてもらった方が、変に気負わずに済む。おそらくメイドはきっちり心構えをしているだろうし。
「うふふ……うふふ……」
彼女は本日もニッコニコで男の腕に抱き付いている。……うん。ちゃんと心構えはできているはずだ。きっと。たぶん。おそらく。……だといいな。
*
かの狂人が現れるのは、おそらく夕刻以降だ。そこまでピンポイントな情報はむしろ信憑性に欠けるが、それを言ってしまえば、そもそもこの地のどこを訪れるかも、情報こそあれど確定的とまでは言い難い。本当に出会えるかどうかも、言ってしまえば結局、運任せだ。少しくらい気が抜けている方がいいのかもしれない。
ということで、モスクワ観光のハイライト、クレムリンへ男たちは訪れた。赤の広場に隣接した敷地だが、赤の広場からは入れない。西側へまわり、トロイツカヤ塔から入場する。
まず眼前にそびえるは、国立クレムリン宮殿。この場所の名を冠するこの宮殿はソ連時代には党会議や国際会議の会場ともなった、6000人をも収容できる巨大な議事堂だ。現在ではボリショイ劇場の第二ステージとして、バレエやオペラの公演に用いられている。
ロシア帝国、歴代皇帝の御所、各祝典や、公式行事、レセプション会場として用いられ、あるいは現代にて政治の中枢、大統領官邸、大統領府として使われる宮殿たちを眺め、進む。
武器庫。と呼ばれる、戦利品や宝物を収めた実質の美術館へ。その物々しい名称とは裏腹に、武器はほとんど収められておらず、本当に美術館としての側面が強い。かの有名な『インペリアル・イースター・エッグ』。世界に50個しかないこの世紀の至宝が、この武器庫には10個も収められている。
「「はああぁ……」」
かの伝説的金細工師、ファベルジェにより制作され、ロシア皇帝へ送られたという至宝を前に、女子ふたりは完全に見惚れていた。数多の宝石を惜しみなくちりばめた絢爛豪華な造り。だがそれだけではなく、それらひとつひとつに個別の、精緻にして独創的な『面白い仕掛け』が施された逸品に、どれだけ魅入っても飽きることなどない様子で、メイドと幼女は時間を忘れ立ち尽くしている。
それもそのはず。かの至宝はロシア皇帝より製作者ファベルジェへ『絢爛豪華な造りと独創的なサプライズ』を含めることを約束に、制作を一任したという逸品なのだ。ロシア皇帝の、妃や皇女へ贈るために込めた果て無き愛情と巨万の富、それを満足させるために天才金細工師が知恵と技術を凝らして制作した、世界でも最高峰の『宝』と呼んで差支えない傑作なのである。
「……おい、そろそろ行くぞ」
男が言う。聞こえているのかいないのか、女子たちはやや間を空け、から返事のみをおざなりに呟く。
「……メイ?」
心ここにあらずなメイドの肩を軽く叩くと、「ひゃい!」と、声を上げて彼女は背筋を伸ばした。
「……そろそろ――」
「あ! はい! ですよね! あははは……」
そうは答えても、まだ名残惜しそうにガラスケースに手を触れる。
「……ラグナ、そろそろ行こう」
次いで、幼女にも触れる。こちらもピクリ、と身を震わせ、いまこの世界へ魂が戻ってきたかのように驚いた表情を振り向かせる。
「……ハク。……私、あれがいい」
幼女は言うと、ある一点を指さした。
「うん?」
男は怪訝に、指す先を見る。彼女が指差したのは、インペリアル・イースター・エッグのひとつ、『百合の花束の時計』と呼ばれる作品だった。
ゴールドの卵を、ダイヤモンドが散りばめられたストライプで縁取り、『時計』の名の通り、1~12のローマ数字が白い文字盤にセットされている。
そして、もっとも目につくのが、その卵を花瓶のように見立て、上から飛び出し咲いた百合の花。オニキスから彫られたマドンナユリ。その雄蕊にはローズダイヤモンド、葉や茎は金に染められた豪奢な花束だ。
「あれがいい! あれ欲しい! あれ買って!」
幼女が鼻息荒く男へ詰め寄った。
国の至宝とも言える『インペリアル・イースター・エッグ』だ。いくらそこそこの財産を『先生』から相続している男とはいえ、手が出る代物ではない。いくつかが所在不明のインペリアル・イースター・エッグ。そのうちのひとつが2014年に偶然見つかったのだが、その取引金額は日本円にして30億円を超えたという、それほどの逸品なのだ。
というより、そもそも当然、非売品である。
「……行くぞ!」
困ったように、それでもできる限りに優しく笑んで、男はやや強引に、幼女の手を引いた。
「やだー! 欲しいー! 買ってー!」
じたばたと暴れながら、幼女はなおも食い下がる。猫のように首根っこを掴まれ、引きずられようとも。
「ハク様」
そんな男に、メイドが優雅に寄り添った。
「私は、あれがいいです」
メイドは強く男の空いた片手を引き留め、一点を指さした。そこにはまた別の、『インペリアル・イースター・エッグ』が――。
「行くぞ!!」
男は、なんとかふたりの女子を引きずり、その場を去った。
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