2027年、三月。台湾、台北。
台湾は中国の一部だろうか? という、政治的な話をするほど怖いもの知らずではないので、当然と、そんな話はしないが、台湾という土地は、あるいはこの島は、だいぶんと複雑な立ち位置を持っているように思う。
世界的認識としては、この島は中華人民共和国の一領土と言えるだろう。しかし、この島は、国家形成に必要な、領土、民、政府というみっつの要素をたしかに持っており、また、住民の多くは自分たちを、中国人だとは認識していない。彼らは、台湾人なのである。
あるいは、日清戦争終結の1895年から、第二次世界大戦終結の1945年までの、五十年間に及ぶ日本統治期間が、彼らのアイデンティティを生み出したのかもしれない。中国から割譲され、日本の植民地となった時期。それから中国へ返還されるまでの間、多くの日本文化を取り入れ、育まれた文化が、彼らを中国とも日本とも違った、独立した人民に仕立てたのかも。
かようにして、台湾は、日本と中国、その双方の文化を持ち合わせ、独自に進化した。
日本発祥のコンビニエンスストアや外食チェーン店が立ち並び、日本発祥の文化であるカラオケは台湾でも大人気だ。台湾人はあまり飲み会というものを行わないが、外食文化は盛んで、しばしば食事の際にもカラオケが用いられるほど。というのも、台湾のカラオケは多くがビュッフェ形式で、食事をとることが前提となっているからだ。
中国茶である青茶――いわゆる烏龍茶――の栽培も盛んである。日清戦争以前は中国の福建省が管轄していた由来で、福建料理も多く伝わっており、今日言う台湾料理とは、この福建料理をベースにしたものが多い。
日本人にも、中国人にもなじみやすい、この、台湾。ここが最後の決戦の地となったのは、必然であろうか。いいや、たしかにそのもの、必然だ。
誰かの、何者かの意思が、物語をここへ終結させた。遠い遠い、空を見上げ、編み上げたのだ。
*
中心都市、台北。その中でもまた、特に栄えた中心街。台湾の象徴ともいえる『台北101』がランドマークとして屹立する、高層ビル群である。
まず紹介したいのは、この、『台北101』。その名は、地上101階層建てという、超高層ビルである、という点に由来する。その高さ、509.2メートル。竣工した2004年から、2007年七月にドバイの建築物に記録を更新されるまで、高さ世界一として認識されていた、超高層建築物だ。
また、他にも。これだけの高層建築だ。エレベーターの速度にも注力しており、こちらも、2004年にギネスに認められた、世界最高速度のものとして記録された。ただこちらも、2016年には上海にできた建築物のエレベーターに記録を上書きされている。
しかし、いまだに世界最大であるのが、『台北101』のイメージキャラクターのモチーフともなった、『TMD』である。これは、大きさの違うバウムクーヘンを重ねて作ったような、銅製の球で、『台北101』の87階から92階の吹き抜けに、強靭なケーブルにより設置されている。この660トンもの重量を誇る巨大なボールは、決して飾りで設置されているのではなく、風による振動を低減するための効果をもたらしてくれるのである。これだけの超高層建築になると、地震よりもよほど、風による振動は看過できない。台風大国でもある台湾だからこそ、この対策は必須であり、また、特段に気を遣った点でもあるのだろう。
全面ガラス張りという近代的でスタイリッシュな建築でありながら、その形状は、台湾の――あるいは中国の、伝統的な、宝塔や竹をイメージされている。毎年大晦日の夜には花火が上がり、また、毎日毎晩には、曜日ごとに異なった色でライトアップされる。台北に住む者なら、きっと誰もが、毎日見上げる、台湾の象徴だ。
その、『台北101』を中心とした、高層ビル群。その中には、この『台北101』の半分を超えるほどの高層ビルも含まれている。世界貿易センターもこのそばにあり、経済の中心としての側面もあるが、もちろん、大型ショッピングセンターなども立ち並ぶ、まさに、中心街だ。
その、台湾、台北、信義区を、男は歩いていた。冬でも、二十度を超える高い気温。それでいて湿度も高く、じめじめとした不快さを恨むように、空を見上げる。その目が追うのは、じめじめと輝く太陽か、あるいは、『台北101』をでも、見上げたのか。
目印のボルサリーノをおさえて、空を仰ぐ。癖のある黒髪は、最近手入れを欠いていたのか、肩にまで迫りそうな長さになっていた。きりっとしたブラックのスーツに袖を通すが、その上から、ぼろぼろになった茶色いコートを羽織っているので、総じて、ややだらしない様相にも見える。なにを思うのか読み取りづらいまなざしは、薄く細められ、その奥には黒い眼光が、わずかに光を反射していた。
「わあぁ――っくしゃ!」
唐突にその男はくしゃみをして、上げていた頭を、大きく振り下ろした。台無しである。
「……なにやっとんねん」
女傑が、呆れたようにそう言う。
男は決して、男性として小さい方ではないのが、そんな男が小さく見えるほどの、高身長だ。厚手ではあれど、肌にピタリと張り付く、全身、革製品でのコーディネートをしている。かように体のラインが浮かび上がるから、その美脚も、その豊満な胸部も、あますところなく周囲に見せつけている。じっとりとした眼差しは、男の粗相に細められただけでなく、どうやら普段からそのようだ。ただぼさぼさと伸ばしっぱなしにしたような、赤茶色の蓬髪が、そんな彼女への近付きづらさを加速させる。しかも、特段に前髪は長く、それで右目を完全に隠している。とはいえ、その頭頂に、ぴょこんと跳ねたアホ毛だけは、チャーミングでもあった。
「なんかよ、まぶしさに視覚が刺激されると、鼻がむずむずしねえ?」
男は鼻の下をこすって、言い訳をした。
「ああ、なんやそんな現象、あるらしいな。そのまま、『光くしゃみ反射』とか言うらしいけど、うちはないなあ。遺伝的に発症する、体質らしいわ」
女傑は言った。己が体を検分するように、空を仰ぐ。くしゃみどころか、鼻奥を刺激されるような違和感もない。男とは体質が違うのだろう。いくらいまでは親子のようでも、決して、血が繋がっているわけもなく、それもまあ、当然だ。
「ここまで来て、風邪とか引くんやないで。ほんま、締まらんからな」
言っておいて、この男はなんだか、そんなことを現実に引き起こそうで、少し、女傑は眉を上げた。やはりじっとりとした目で、男をいぶかしむように、見る。
「解ってるよ。体調管理には気を付けてる。問題な――ぁあっくしょんっ!」
くしゃみは一度出ると、まま連続して出るものだ。それを体現するように、男は鼻をこすりながら、再度、くしゃみをした。
*
くしゃみは止まったが、男はどこか不機嫌そうに、肩を上げて歩いていた。頭を落とし、やや上目に周囲を観察する様子は、チンピラか小悪党のようでもある。
「で、ここまで来たんはええものの、リュウ――リュウ・ヨウユェとは、アポとれとるんか?」
胸部がきつそうなライダースのポケットに両手を突っ込み、女傑は問うた。元WBOである自分をあてにされても困る、という、言外の表明である。
「まあな。あの――」
ここで少し、男は思案した。というのも、『家族』の名を出そうとしたのだが、女傑は彼と面識があっただろうかという危惧があったのだ。だがまあ、仮に知らなくても問題はないだろう。そう、結論する。いま隣にいる女傑は、いまではもはや、世界を達観できるほどに、聡い。
「シュウからふと、連絡があってな。『台北101』周辺――つうか、信義区をぶらついてりゃ、案内人が見つけてくれるそうだ。その案内で、リュウ・ヨウユェとの会談は叶うらしい」
「なんやその、アバウトな待ち合わせ」
とは言うが、それだけで女傑は、今後の展開を把握した。そして、面倒くさい、と、思う。だから女傑は、いったん、男と離れておこうかと画策するのだった。
「案内ゆうても、そのシュウくんも含めて、他のやつらとの合流のあとやろ? やったら――」
といっても、正直、気乗りしない点はある。それは、少女のこと。先月の諍いについては、まだなにも、解決していない。あるいは、あの一撃で、少女がこの最終決戦から退いてくれればと期待していたが、世界の空気を感じる限り、それも望み薄である。
であれば、女傑はもう、最後の瞬間まで見守ることとした。その間に心変わりをしないとも限らない。女傑だって、決して、少女を恨んでいるわけではない。むしろ、それは逆だ。男のことも当然だが、少女を思うからこそ、あんなことを言った。男と、少女自身を、救うために――。
「どこ行く言うんや、パラちゃん」
ふと、女傑の思考を断ち割るように、彼女は女傑の目の前に、いた。
「ちっ……」
あと一歩、男から離れるのが遅かった。そのせいで、結局、彼女たちは再会する。
「フルーア」
女傑は、彼女の名を呼んだ。忌々しげに。右目の奥が、じんわりと痛むのを、女傑は感じる。
「お待たせいたしました、ハク様。リュウ・ヨウユェの秘書を務めます、フルーア・メーウィンでございます。本日はハク様ご一行を、リュウのもとへご案内すべく、はせ参じました」
女傑の呼びかけなど無視するように、そのそばかすを携えたメイドらしき服装の女性は、うやうやしく、男へ向かって一礼した。
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