少年は、走った。
見たくない現実に背を向けて、置いてきた友人に――恩人に懺悔して、しかして、それ以上に彼が感じていたのは、べつのことだった。
それは、自分自身の不幸。自分自身がこの先、どうするか――どうなるか。
子女は、もう死ぬだろう。医者を呼ぼうと当然と間に合わず、致命傷なはずだ。だが、頼まれた以上、少年は医者を呼ぶしかない。
であれば、あの場でなにが起きたかを説明しなければならず、そうなると警察にも拘留されることになるだろう。あの超常現象を説明して、そのうえで、そう簡単に釈放されるとも思えない。
これは、あまりにも面倒くさい。そういうことを、少年はしごく真面目に考えていたのだ。また、うまく釈放されたとして、そのあとはどうする? 遺体の受け取りや、飛行機の搭乗手続き、帰国してから、若男にどう説明する? 非現実から目を背けて、彼はそんなことばかりを憂いていた。そんな自分を薄情だと思うし、本当に、気持ちが悪く感じた。
足を止め、思う。本当に自分は、死をもたらす存在だ。そのような呪いのもと、産み落とされた。そのために生かされた。その現実から逃げ出そうと、その事実は変わらない。
そうだ。自分は逃げ出したはずだ。現実から逃げて、その先で若男に出会い、『異本』という、非現実に向き合っている。
だったら、背を向けるのは、非現実ではなくて現実の方だ。
死が自分に付きまとうなら、非現実でその死を、克服してやる。
彼はそう思い、踵を返した。逃げてきた道を駆け戻り、今度こそ本当に、非現実へと踏み込む。その奥地へ。後戻りのできない、領域まで。
*
「リオっ――!」
子女のもとへ戻り、少年は声をかけた。周囲を警戒するが、あの気配は感じない。いまなら、その気配も鋭敏に感じ取れる。そう少年は確信していた。非現実へ改めて向き合って、気分が高揚している。それゆえの全能感だった。
「リオ……」
すでに動かなくなった彼女の上半身を見て、少年はもう一度、彼女の名を繰り返した。そうして彼女の手に、優しく触れる。
すると、ピクリ、と、その手が震えた。
「ソ……ナエ――」
「……リオ」
まだ、死んでいなかった。少年は、そう思った。その事実に、舌打ちをしそうになる。表情が歪むのは、あえて隠さない。どうせ見えていないだろうから。
「リオ、提案がある」
いまはまだ、大丈夫だ。あの気配が襲ってくる様子はない。決して遠くないところに居はするのだが、まだ、大丈夫。そう、少年は感知する。それでも、時間があるわけではない。それゆえの、単刀直入な、言葉だった。
「それより、紙とペン」
子女が、震えながらもしっかとした声で、少年の言葉を押しとどめた。彼女にも、時間がないのだろう。
「……なんだって?」
「紙とペン、貸せ。リュウに伝言」
「ああ……」
少年としては、子女が『提案』を聞く前に、息絶えてくれる方が都合がいい。だから、彼女の都合を優先した。メモ帳とボールペンを、彼女に渡す。
「時間は……ここにあって……線じゃない……点……空間……いや、球体だ」
独り言をぶつぶつと呟きながら、子女はなにかを、無心に描き始めた。
「…………?」
なにを描いているのだろう。少年には解らなかった。伝言と言っていたが、文字じゃない。なんらかの、図形。
それは、死にかけの震えた指先であったから、なおのこと、子どもの幼稚な落書きにさえ見えた。それでも、確信しているように子女は、ペンを走らせる。
「あんたは、なにも失ってない」
ふと、手を止めることなく、子女は声をあげた。独り言ではなく、言い聞かせるような、声。
「フアたんは――シンファは、ここにいる。いなくなってねえし、あんたはやっぱり、なにも失ってない」
これは、伝言――遺言だ。そう、少年は理解する。子女が死んだあと、若男へ伝えるべき、言葉。少年がいま、なにより集中して、記憶しなければならない言葉だ。
「距離を取ったくらいで、失えるつもりでいるんじゃねえ。断ち切れるつもりになってんじゃねえ。リュウ……おまえ――」
そこで、子女は大きく咳き込んだ。その口から吐き出される血で汚さないように、メモ帳を、大きく遠ざける。その動きで体勢が崩れ、顔面から地面に激突した。もう死にかけているとはいえ、よほど痛かったろう。それほどの、いやな音が響く。
「……リオ?」
あまりに間が長かったので、少年は声をかけた。
だが、もうとうに限界だったのだろう。彼女はすでに、息絶えていた。
――――――――
「……リオ。悪いとは、思っている」
十分な時間をおいて、少年はそう、懺悔した。それから、背負っていたリュックサックを下ろし、その中から、一冊の書籍を取り出す。
それは、薄暗い洞窟内を、ほのかに照らす、光を放っていた。
「だが、私にも、リュウさんにも、まだあなたは必要だ」
そう言い訳して、少年は異能を、彼女へ向けた。
『Log Enigma』。死者蘇生の、『異本』を。
――――――――
「経緯は理解した」
台湾へ帰国し、WBO本部へ直行した。そして、すべてのいきさつを、包み隠さず少年は、報告した。
いや、ひとつだけ言えていない。自分が、彼女を蘇らせるにあたって、どのような感情を抱いていたか。ただの些末な保身でそれをやったなどと、そんなことは言えなかった。だから、無我夢中で、とにかく彼女を助けたいと、そういう気持ちだったと、嘘をつく。
これが、少年の抱いた、人生でもっとも大きな、負い目になった。
「その結果が……これか」
若男は言う。苦い顔をして。
「へっえぇい! キリストがごとき蘇りし、聖女リオちゃんたぁうちのことっ! これまでもこれからも、末永くよろぴこちゃん! ひゅううぅぅ!!」
「少し黙ってろ」
「はぁい」
若男が制止すると、おとなしく彼女は従った。だが、存在そのものがうるさい。彼女のうちに溢れる感情が、その挙動に現れている。
「それで、これが、リオの遺したものか」
そんな彼女をなんとか無視して、若男はメモ帳を見る。子女が遺した、なにか。付き合いの長い若男ですら、その内容を、少なくとも即座には理解できない、落書き。
おそらく伝言――遺言で伝えられた言葉とも関りがあるのだろうが、それを含めても、まったく意味が解らない。
まるで、ブラックホールでも描いたみたいだ。いくつもの線が、曲線を描いて中心へ集まる。中心では、それら線が折り重なり、極小の円を――いや、球体を形作っている。
彼女はうわごとのように『時間』について言及していた。そう少年から報告を受けている。しかしやはり、それとこの図形との関連は、即座に理解できなかった。
「まあこれは、おいおい考えてみよう。それより、ソナエ」
「はい」
ふと、名を呼ばれて少年は、緊張した。というよりずっと、緊張している。叱られるのではないかと。縁を切られるのではないかと。やはり、自己保身ばかりを、考えて。
「これよりおまえは、WBO執行部の長、執行官長を名乗るように」
「……はい? え、……執行部?」
「そうだ。『異本』を蒐集するための部署。部隊。その長、執行官長。そして、『アーサー』のコードネームを、名乗るように」
「『アーサー』。アーサー王伝説の?」
なんだその、中二感あふれる設定は。と、少年は困惑する。
「そしてそいつは――リオは、今後、執行部での上級職、特級執行官の地位に据える。コードネームは、『モルドレッド』」
「『モルドレッド』……あの、裏切り者の?」
アーサー王伝説において、モルドレッドとは、そういう行動を起こした者だった。アーサー王の留守をついて、王位を簒奪した、裏切り者である。
「裏切り者? それは知らなかったな」
若男は、そんなことなどどうでもいい、とでも言わんばかりに、そう言った。だが、長めのまばたきをして、その間だけ、いま少し一考したようだ。
「まあ、なんでもいい」
だが、そのように結論付ける。こうして執行部は誕生した。ここで無理矢理に執行部などというものを作った意味を、少年は長い間、気付かずに生活した。もはや子女であって子女ではない者を、遠ざけたかった。別の名を与えて、別の者として扱いたかった。若男も、目を逸らしていたのだ。少年と同じように。いまある、現実から。
*
一通りの報告を終え、部屋を出る。子女は先に、どこかへ行ってしまった。たしかにあれは、子女であって子女ではない。それは少年にも理解できる。だが、子女でもあるのだ。彼女と同一とはもう、思えない。けれど、彼女の一部を確実に、内包している。
だから、それで十分だ。少年に」とっては、そうだった。
「私だ、ゾーイ」
部屋を出て、気が抜けて、わずかに腰も抜けた。そのままに少年は、扉へ背を預け、座り込んでしまっていた。だから、内部の声が、振動として背中から、伝わる。
『いまさらなんの用? 進捗でも報告してくれるの?』
「まだなにも進んでいない。それと……リオが死んだ」
『はあ!? どういうこと!? りーちゃんが、なんで――』
「すまない。その話は後日、直にさせてくれ」
そう言って、若男はくずおれた。その様子を、扉を隔てたまま、少年も感じ取る。
あの強い若男が、いついつでも毅然と立っていたあの者が、堪えきれずに地に伏した。
だからようやく、少年も事の重大さを理解する。子女は、死んだのだということを、理解する。
「……駄目だ。私だけでは、これ以上、進めない。……頼む、ゾーイ。……助けてくれ」
弱々しく、嗚咽を漏らす。涙が床に落ちる音さえ、少年に聞こえるようだった。
『……とにかく、話、聞きに行くから。明日でいい? 台湾でしょ? シンねえさんの、生まれ故郷――』
「ああ、すまない。……頼む」
そうして、通話は切れたようだった。だが、若男が立ち直った様子はない。まだ地に伏して、うなだれている様子が、容易に少年にも、イメージできた。
それから、同じ様子で『先生』という者、あるいは、ラージャンと呼ぶ相手にも連絡をしたようだった。『先生』とは面会の機会を設けたようだが、ラージャンからは断られた様子である。そして事実、後日、ゾーイという、のちの司書長と、『先生』という、のちの『異本鑑定士』が訪ねてきた。子女の死があったからか解らないが、こうして、かつての落ちこぼれたちはまた、集った。
こうして、いまのWBOの、原形が完成したのだ。『異本』を集める『執行部』。それらを保存し、研究する『管理部』。『異本』を認定する、『異本鑑定士』。
若男の、かつての仲間たちが集まったからだろう。それからのWBOの活動は、飛躍的に進んだ。そして、最初の支部が作られた。オーストラリアに。子女の、墓標のように。
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