ところで、この地に男たちは、アメリカ合衆国、ネバダ州、ラスベガスから、直行して来ていた。であるのに、そのときともにいた幼女や男の子は、今回随行していない。それは、男の子の母親である少女の意思により、男の子を帰還させることとなったためである。そして今回、台湾を観光する時間はさほどないのだろうと男が判断したゆえに、幼女を同行させるのも気が引けた。だから、男の子を送る役目も含めて、幼女に依頼し、一緒に帰らせたのである。
だが、結果として、台湾――というより、台北観光は行われた。案内にと現れた、そばかすメイドの先導により。
食事については、台湾に渡航する際の機内食を食べたばかりだった。そのように男が言うと、そばかすメイドは即座に、「では、温泉などいかがでしょう」、と、若干強引に、男たちを誘った。そもそもその準備があったのだろう。流れるような動作で近くのパーキングに移動し、場違いに停めてある、黒塗りの高級車に乗り込んだ。その旅程に対して、女傑が露骨に嫌な顔をしていたが、そばかすメイドは彼女のことなど眼中にないように、勝手に話を進めていく。
「それで、リュウ・ヨウユェとは会えるのか?」
どこぞの温泉に向かっているらしい道すがら、男は、そばかすメイドに問いかける。彼女の強さについては、なんとなく聞き及んでいるが、それでも、ふたつの三つ編みに束ねた栗色の髪と、頬を纏うそばかす、あどけない顔に引っかけられた大きな丸眼鏡という素朴な彼女が、スタイリッシュに力強く高級車を操縦する様は、なんとも違和感が強かった。
メイド服のごとく、黒を基調に、白いエプロンをあしらったようなデザインの、シャツとショートパンツ姿。そこまではまあ、いいとしても、特段に隠しもせずに両腰のホルスターに、それぞれ拳銃を差しているのも気が気ではない。まあその拳銃に関しては、白いプラスチック製でおもちゃのようであり、なかなか咎められる機会もないのだろうが。
「ええ、いつでもお会いになれるよう、スケジュールは最小限にとどめております。とはいえ、そもそもリュウ――最高責任者に限らず、WBOは全体的には、暇な組織ですので」
バックミラー越しに男たちを確認するように視線を向け、そばかすメイドは言った。あくまでそのような仕草をしただけで、実際には視線などは合っていない。ゆえに、彼女がどのような表情で語っているかは掴みづらかった。
「ご同伴されるご家族がお揃いになるのをお待ちと伺っております。ですので、みなさまがお揃いになり、無事にWBO本部ビルご到着まで、責任をもってご案内するのが、私の役目でございます。どうぞ、ご希望があれば、なんなりとお申し付けください」
ハク様。と、彼女は男の名前だけを、呼んだ。それに対して女傑は、音が鳴らない程度に鼻息を強く、吹く。
至れり尽くせりな厚遇に、男は、「ふうん」、と、気のない感想を漏らした。この数年――十数年で、きっと贅沢に慣れてしまったのだろう。と、男は自己分析する。特にメイドと出会ってからだ。身の回りのことも――基本的には自分でやるとはいえ、微細に至るまで気にかけてもらい、手を尽くしてもらう。そういうことに、いつの間にか慣れてしまったのだ。
あるいは、時差ボケかもしれない。男は少々眠かった。
「ところで、今回……」
言いかけて、男は瞬間、問おうとしたことを、どう問えばいいのかを思案した。どうにもなんとも、それをすぐに問うには、頭が追い付かない。眠いからだろうか。などと現実逃避する。
「はい、ハク様。いかがなさいました?」
特段に嫌悪も苛立ちもなく、そばかすメイドは尋ね返した。ここまでの道中、努めて感情を出さずにいたかのように、抑揚の薄い話し方をしていた彼女だが、ここでは男を気遣うためか、やや明るい口調を用いている。
期せずして長時間黙っていたらしい。それに気付いた男は、瞬間、焦るが、彼女の表現した気遣いに安堵し、思考をまとめる。
「あー。……おまえ、シュウと面識あったんだな」
結局、その問いは、さして造形を整えられることもないまま、放り投げられた。問い自体は単純だが、その意味するところを読みづらい一言である。
ここで本来、男が問いたかった言葉は、かの丁年が、目下のそばかすメイドを派遣したらしいが、それはどういう経路で、どんな人間関係を駆使して、行われたものであるか、ということだった。
しかして、もちろん、EBNA出身の優秀なるそばかすメイドは、そんな男の意図を、十二分に汲んでいた。
「はい。彼とは、あの日、EBNAでお会いするより以前から、多少の連絡を取らせていただいておりました」
まず、そばかすメイドはそう言った。ちなみに『あの日』とは、男たちがエディンバラの、EBNA施設へ襲撃を行った日のことである。たしかに、少なくともあの日、そばかすメイドと丁年は、しっかと顔を合わせたかはともかく、同じ施設内にいたはずだ。
と、その程度のことは、男も覚えているだろう。という前提で彼女は、共通の認識としての『あの日』という語彙を用いた。だがもちろん、男としてはそんなこと、言われるまではわずかも、思い出せるはずがなかった。
「そのご縁もあり、今回の件につきましては、私が彼より直接に連絡を受け、リュウの許可と指示のもと、このようにハク様をご案内差し上げている、ということです」
ここでもそばかすメイドは、あえて『ハク様』としか言わなかった。女傑も隣にいるのだから、本来なら、『おふたり』や、このあと合流するだろう家族を含めて、『みなさま』という語句を使うべきであったろうに。
だが、乗り心地の良いシートに揺られ、まどろみがかっている男には、そんな言葉の機微になど気付けるはずもなかった。ただあの丁年は、よく気配りができるし、手回しがうまいな、と、なんとなしに思ったくらいである。
ふと、思う。丁年からWBOへの連絡経路は、解った。だが、丁年はどうやって、この日時を確定したのだろう? 男たちが――丁年自身も含めてのことだが、いずれWBOと交渉を持つために、台北を訪れるということは、『異本』集めが佳境に入ったころには、ほぼ確定事項として話題には出されていた。いちおう彼も、そのことは知っていたはずである。しかし、ラスベガスでのカジノイベントを終えて、さて、いったん少女のもとへと帰ろうかと、そう考え始めた矢先に、丁年から連絡がきた。WBOとはアポを取っておいた。そこから直接台北に向かえば、案内人が迎えに来る。そのようにだ。その連絡のタイミングは、まるで見計らったようだと、いまにして思う。まあおおかた、少女と連絡を取っていて、タイミングについては本当に、見計らった結果なのだろうけれど。
とはいえ、やや、違和感は残る。男だって、丁年に言われたからと、即断即決、馬鹿正直にこの地を訪れたわけではない。ちゃんと少女に一報を入れてあるし、その他、そっちのことは任せた、と、曖昧に適当に、差配を丸投げしている。達観し、その能力もある少女ゆえに、『解ったわ』と淡白に請け負うだけの言葉で通話を終えたのはなにも、おかしなことではないと思っていたけれど、それなら、丁年とやり取りがあったことも教えておいてくれてもよかったはずである。
……まあ、どことなく少女は、ずっと不機嫌そうにしていたので、そのせいかもしれないけれど。それにやはり、彼女にとっては解り切っている程度のことを、わざわざ言う気にもなれなかったのだろう。男はそう、納得する。
納得すると、また、睡魔がやってきた。頭を使ったからなおのこと、直近よりも強い、眠気が――。
「そういえば、その点につき、ハク様にはいちおう、ご許可をいただいておくべきかと常々、思っておりまして」
そんな眠気を、あえて阻害するように、そばかすメイドは男へ語りかける。「んお?」と、男は間の抜けた声で、応答した。
「みなさまにおかれまして、ハク様はもはや親代わり――いえ、親そのそのものでしょう。とはいえ、男女のことでもございますし、ご報告が遅れたこと、誠に申し訳ございません」
うん? と、男は首を捻る。話の流れが見えてこない。その様子を感じ取って、そばかすメイドは察したのだろう。続く言葉は、迂遠を嫌う、きっぱりとした言葉だった。
「私とシュウの、男女交際についてです」
そばかすメイドの言葉は、男の、寝惚けて働かない頭に、するりと染み入った。
「ああ、そうか。うん。まあ、男女のことだしな。べつにそんなこと、俺に許可を……」
取るまでもない。それは、そうだ。男は冷静に、彼女の言葉を噛み締める。
噛み締めて、首を捻る。言葉の意味を、やっと理解する。
「ええええええええぇぇぇぇっ!!」
叫んだ。きっとその叫びは、並みの運転手であれば、即座に交通事故を誘発するほどに、唐突で、絶大だった。
「ちょ……待て! 男女交際って、あの……あれか!? シュウが……シュウが!? あのシュウが! あんたと!?」
男は、今現在かかわりを持った『家族』たちについて、少女やメイド、いま隣にいる女傑と、あるいは幼女――せいぜいそこまでで、それ以外の者は、正直、遠い親戚くらいの気持ちしか持っていなかった。彼ら彼女らは、男の『家族』というより、少女の『家族』だ。
それでも、その遠縁の中では、丁年とは最も、長いかかわりを持っているし、それなりに気心が知れていると思っていた。少なくともそれなりには、言葉を交わしている。だから、彼については、それなりに理解しているつもりだった。
その理解と照らして、ここでふと、投げ落とされた言葉とは嚙み合わない。あの丁年らしくない。いやまあ、本当に男女の仲というものは、はたから見ていては解らないものでもあるのだろう、けれど。
バックミラー越しに、そばかすメイドは男の顔を見た。丸眼鏡の隅を覗くように、視線だけを、そちらへ向けて。
そして、笑う。メイドとして、というよりは、人間として笑う。ふふふ。と、小さく、声も漏らして。
「冗談ですよ、ハク様」
今度は、運転席から後部座席へ、大きく体を乗り出して、笑いかける。男の頭が正常なら、危険運転を注意するところだ。しかし彼は、ぽかんと、メイドらしい笑顔へと回帰していた、彼女の顔を見て、呆けるしかできなかった。
冗談? 冗談ってなんだっけ? 男は混乱する。だが、すぐに冗談を理解した。それは、冗談だったと。
「な、なんだよ。マジで驚いたぞ」
へなへなと、座席にへたり込む。男は意識していないが、どうやら眠気は、吹っ飛んでしまっていた。「申し訳ございません」。楽しそうに、そばかすメイドは謝罪する。
「アホらし……」
小さく、女傑が言った。嘆息交じりに。
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