これ以上は、まずいな。と、ゴリマッチョは思った。もう、時間がねえ。と。
「レベル100。『最大先鋭』っ!!」
渾身の力と、心を込めた一撃だ。『異本』での強化こそ『レベル100』という、佳人が定めた強化値の、最上には程遠い。だが、せめてイメージを。憎き仇を刺し貫く、イメージを持って、振るう。
「…………」
不敵に、ゴリマッチョは諸手を広げた。余裕そうに。そんな程度の槍など、歯牙にもかけない。簡単に受け切ってやる。とでも、言いたげに。
「うわああああぁぁぁぁ――――!!」
怒号――。いや、叫びだ。
どれだけの憎悪を抱こうが、佳人だって、罪の意識を感じていないわけではない。人を殺すのは悪いことだ。そうでなくとも、誰かを殺すのは、気持ち悪い。
その気持ち悪さを吹き飛ばす、叫びを。憎悪も、殺意も、『憤怒』も吹き飛ばす、腹の底からの、叫びを――!
まるで子どものように、目を閉じて。いやな現実から逃れようと、閉じ込めて。ただただ無心に、突き刺す。
「なあ……」
ゴリマッチョが声をかけた。強く、優しく、子どもをなだめるような、声で。
それに促されるように、佳人は、閉じた目を、少しずつ開く。訪れた現実を、おどおどと確認する。その先にある結果が、はたしてどちらであろうとも、もう後には、戻れないのだから。
「やったじゃ、ねえかよ」
にやりと笑う口元から、血が一滴、流れる。それが床に落ち、潰れる音が、やたら大きく、響いた。
だから、その音を合図に、崩れた。膝からくずおれ、懺悔のように、その筋骨隆々な身体を、倒す。彼の鼻に乗っかっていた鼻眼鏡が、反動で、佳人の足元へ、飛ぶ。胸に空いた大穴から、とめどない血がどくどくと、絨毯に染み入った。
WBO本部ビル、地上10階、『特級執行官 ランスロット私室』での殺し合い。
稲荷日春火、復讐達成。
――――――――
「――ハルカっ!」
廊下に出て、少し歩いた。エレベーターのある方へ戻るためだ。そこには先に、麗人が待っていた。三つ子の末っ子、丁年はどうやら、まだ戻ってきていない。いやあるいは、先にどこか、他の場所へ向かったのか。
「大丈夫!? 服、破れてる! お腹から血が――」
「大丈夫だよ、うるさいな。服は『異本』の力で破れた。いつも通りだ。血は――」
改めて佳人は、己が腹部の傷を確認した。けっして深くはない。しっかりと見れば、それくらい解る。だがいまだに、血を見るとぞっとする。
「――かすり傷だろ、これくらい」
それでも、強がる。三つ子の長姉として。この復讐を先導した者として。
「待ってて、いま――」
ふと『異本』を取り出そうとした麗人は、その動きを止める。それからためらい、スーツのポケットに手を入れる。取り出すのは、虹色の羽。いまだ煌々と燃え盛る、癒しの炎。
「たぶん、痛みを和らげるくらいは、できるから」
「……? ヤキトリはどうした? まさか――」
「ううん」
麗人は首を振る。
「だいじょうぶ。なんともない。でも、もう、おわかれは済ませたから」
佳人も、以前から理解はしていた。『異本』の力で生まれた鳥人は、この物語が終われば、還るべき場所へ還ると。子どもが大人になっていくように、もう、夢も、終わりだ。
「そうか……」
患部を温めるむず痒い熱に、佳人は複雑な表情を浮かべた。
「で、シュウは?」
「ここッス」
呼ばれた丁年は、まるで瞬間移動でもしてきたように、不意にそこに、現れた。見るからにぼろぼろな右腕を庇いながら。
「ちょ――シュウ! 大丈夫なのっ!?」
言いながらすでに、麗人は癒しの炎を佳人から、丁年へ向け直していた。どちらがより負傷しているかなど、見るからに明らかだ。
だがそれを、丁年は、左腕で制止する。
「大丈夫ッス。それより、首尾は?」
その言葉に、麗人は目を背けた。
「殺した」
先に返答するのは、佳人。まっすぐに丁年を見て言うその様子は、後悔など微塵もないかのよう。それでも、血を分けた兄弟たちには、わずかに伝わる。
やるしかなかった。そうでなければ、もう、先に進めない。とはいえ、やはり彼女も、普通の人間だった。そう理解できて、丁年も、麗人も、安堵する。
「……私も、殺した」
麗人も佳人の、言葉のあとに続く。後ろめたそうに目を背けるのは、その言葉ゆえにではない。本当にそれを、自らの手で成し遂げようとした。その、罪悪感からだ。
「……じゃあ、全員目的は、達成ッスね」
丁年が最後に、そう言った。軽そうな口調で。そしてその証明とでもいうように、『異本』を差し出した。正方形をした、濃緑色の一冊を。
それに倣い、佳人も、麗人も、蒐集した『異本』を取り出した。三人ともがそれを見て、少しだけ、嘆息した。あくまでついで、だったとはいえ、それは目的のひとつだった。とはいえ、復讐を終え、手元に残ったのはそれだけだ。無味乾燥な、ただの、本。少女や男、あるいは他の、どこかの誰かにとっては大切なものでも、稲荷日三姉妹弟にとっては、さして重要たりえないものでしかない。
「……カナタがまとめて、ノラに渡しておく。ふたりはケガしてるもん。病院に行って」
麗人が、まず、佳人の持っていた『異本』を受け取る。それから丁年にも手を向けた。
「いや、俺が持ってく。……おまえら『異本』を出せ」
「持ってくって……シュウ、そんな大怪我なのに」
「すぐに死んだりしねえよ。それより――」
丁年には、気になっていたことがあった。
男が『異本』を集めるのは――その始まりは、『先生』とやらに捧げるためだったという。死んだ彼の供養のため。しかしそれは、少女との旅路の中で、意味を変えた。少女が、『異本』の力で氷漬けにされたとき、こんなものはこの世界に必要ない。自分の大切な者を、いともたやすく傷付ける、そんな特異な力は、この世に存在してはいけないと。そのように考えを変えた、らしい。
それについては、丁年も同感だ。だが、だとしたら――。
はたして男は、あの『異本』をどうするつもりなのか? 776冊、すべてを封印するなら、そこには一冊の漏れもないはずである。しかし、その一冊に関しては――。
丁年は考えを中断して、首を振る。いま、それを考えても、答えは出ない。だからそれは、男に聞けばいい。
「――いや、とにかく、俺が渡しておく。怪我は問題ない。ヤキトリのおかげか、だいぶよくなった」
たしかに癒しの力は、その羽に備わっていたようだ。しかし、言うほどしっかりと、痛みが消えたわけじゃない。どころか、ものすごく痛い。それでも気丈に、丁年は笑った。
その笑みに、姉たちは気付かないわけもない。丁年が我慢していること。だが、彼がもっと大切な、なにかを知ろうとしていることにも、気付かないはずもない。だから――。
「そ。なら、シュウに任せるね」
麗人はそう言って、名残惜しそうに、『異本』を渡した。
本当の別れを心の中で、鳥人に告げる。
「つーかおまえ、さっきからあたしの方見ないけど、なんなんだよ」
佳人も『異本』を渡す。渡しながら、疑問を突き付けた。
「べつに……」
問われても、まだ視線は逸らしたままだ。ぼろぼろに破れたスーツからあらわになる成長した姉の肌に、向けられる視線など、まだまだ初心な彼にはなかった。
――――――――
――『特級執行官』、ランスロット私室。
「ふう……」
と、巨木のような腕で上体を持ち上げて、ゴリマッチョは息をついた。
「やっといきましたかあ。まったく……」
周囲を見渡し、探す。あったあった。と、飛んでいった鼻眼鏡を持ち上げた。そうしてその、高い鼻に、乗っける。少しだけ、フレームが歪んでいた。
「死んであげたの? 優しいね」
「……うっせえんですよ、『ガウェイン』」
歪んだフレームと、面倒な言葉に、ゴリマッチョは舌打ちする。いきなり無断で、私室に瞬間移動してくる、無作法なロリババアに対しても。
「かくいうてめえも、負けてあげたんでしょう? 大人は大変ですよ」
「いいや、ワタクシは、普通に負けたのさ。まあ、もともと勝つ気なんかなかったってのは、言い訳できるけどね」
はっ! と、ゴリマッチョは、大きく息を吐く。ほんのわずかだが、世界の『憤怒』を忘れた、清々しい気持ちで。
「でえ、『モルドレッド』は?」
「あの人は、たぶん……」
そう言って、ロリババアは俯く。その先は、言うまでもない。ゴリマッチョとしても、聞くまでもない、ことだった。
はあ。と、嘆息して、ゴリマッチョはソファにもたれた。やけに心地よい、上等なソファに。
「気に入ってたんですけどねえ。この生活が」
「ワタクシも」
そう言うと、見た目通りに幼稚に、見た目通りに身軽に、しかして年甲斐もなく、ロリババアはソファへ飛び乗った。ゴリマッチョの巨体を乗せても十分すぎるスペースの余る、その隣へ。
これから、どうする? 互いが互いにかけようとした問いを、その喉でつかえさせている間に、ふと、小さな電子音が、鳴った。
「はい。……ああ? なんだ、誰だって?」
ゴリマッチョは電話口に、久方ぶりの名を、聞いた。
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