こんこん。と、開きっぱなしになっていた玄関扉が叩かれた。
「お熱いところ悪いんだけど、ただいま」
「あいっ!」
見ると、紳士と少女の養子である、男の子と女の子が、そこにいた。そろそろ来るだろうことは、少女は、頭の片隅で理解していたはずなのだけれど、貴人への対処でなおざりにしていた。だから、紳士へ寄せていた体を離し、少女は軽く、体裁を整える。
「……おじさん。あんたも来てたんですね」
男の子が丁年を見付け、言った。言葉にはしないが、その手に持っている拳銃を一瞥し、非難するような目を向ける。
「相変わらず俺にだけ当たり強いのなんなんだよ。お兄さんとは呼んでくれないのな」
見られてしまった以上、隠しても仕方がない。それでも、軽く体の影に忍ばせる程度に拳銃を隠し、丁年は、言った。
「あんたはノラの弟みたいなもんだろ。じゃあおじさんじゃん」
「でもハルカやカナタは姉のように慕ってるだろ」
「おれはマセガキなんだ。年上のお姉さんが好きなのさ」
そうまで開き直られると丁年としてももう、なにも言う気になれなかった。そもそも特段に、慕われたいわけじゃない。
「あ~い!」
そちらとは別に、女の子の方は一目散、母親である少女のもとへ駆け寄った。それを少女は笑顔で迎えつつも、思い切り女の子が、玄関に伏せる貴人を踏みしだいて来たのを見て、わずかに顔を青褪めさせた。
「おかえり、シロ。おかあさんちょっとご用あるから、おてて洗って、奥に行ってなさい」
「むい~」
やや不満げだったが、最後にひとつ、頭を撫でてやるとしぶしぶ、女の子は母親の言に従った。
「クロ。あんたも」
「ふうん?」
だが、年齢以上に幼い女の子とは違い、男の子の方はそう容易くもない。
「なにがあったの? ……というか、なにがあったのか解らない、ってのが、不思議なんだけど」
「いいから、奥に行きなさい」
「おれの疑問を、あんたが勝手に、なかったことにしないでくれるか。なにもよくないんだよ」
ふう。と、少女は息を吐く。どうしてこの子は、こんなに反抗的なのか。そう思う。だけれど、不完全ではあれ、同じ『シェヘラザード』を使える者同士、彼の考えはいまいち、少女にも読めなかった。
「あなたの洞察眼でも、なにも見えない。それだけの非常事態なの。あとで説明してあげるから、とっとと部屋に入りなさい」
「…………」
強い少女の言葉に、男の子もやや、気圧されたのだろう。黙って、少しの間だけ不満を視線に込めていたが、やがて諦めたのか、肩を落とした。ひとつ嘆息して、不承不承と、「解ったよ」と、部屋に入る。まだ状況は理解していないだろうが、彼は、貴人を避けて通って行った。
*
さて。と、少女は仕切り直す。紳士から受け取った二冊の『異本』、それをぎゅっと抱え、歩み寄る。
紳士の暴行に倒れた――彼は徹頭徹尾倒れてはいたのだが――貴人のもとへ。
ほんのわずかな距離だ。数秒の出来事。ゆえに丁年も、彼女の行動に、口を挟み損ねた。
「ちょっと……起きてくださる? ケラ・モアロード・クォーツ侯爵」
気を失っているように見えたが、念のため――念には念を入れ、完璧に絶対領域を守り、スカートの裾を膝の裏、ふくらはぎと太腿に挟んで、しっかりとガードする。そのように、貴人の枕元に少女は、しゃがみこんだ。そうして嫌そうに半分顔を背け、半身を引くように遠巻きから、ちょんちょん彼をつつく。
気持ちの悪い動きも、性格も趣味嗜好も、どれもが少女には相いれなかった。本当の本当に、生理的に受け付けない。という、相手にしてみてはあまりに理不尽な、少女の感情である。
だが、そんな気色の悪い相手であろうと、話はまだ、終わっていないのだ。
「もああぁぁ。大丈夫。気など失っていない」
少女の目から見ては、彼は、気を失っているかのように微動だにしていなかった。だが、それは見間違いだったようだ。輪郭がぼやけるほどに存在感のない彼は、少女とはいえ視認しづらい。というか正直、直視したくもなかった。ともあれ、念には念を入れ、下半身のガードは徹底しておいてよかった。そう、少女は思う。
「これは、完全な裏技よ。それでも、うちの旦那が、あれだけ身を挺したのだから、わたしもこの強奪を受け入れる。つまり、これはもう、わたしのもの」
身体的には一般的な成人男性以下であろう貴人が相手だが、いちおう、『異本』を奪い返されないように注意しながら、少女は言った。
もああああぁぁぁぁ――――。聞いているのかいないのか、貴人は魂でも吐き出しているかのように、呆けていて、返答がない。
「それでも、その怪我くらいは治させてあげる。わたしの力でも治せるけれど、正直あなたに触れたくもないわ。自分で治しなさい」
そう言って、少女は抱えていた二冊の『異本』のうち片方を、彼へ差し出した。やはり嫌そうに、体を後ろへ引いて、可能な限りに距離感を保ちながら。
「ん、んん~~。べつに、気を遣ってもらわなくても、よかったんだけど。まあ、どっちでもいいか」
さしてどうでもよさそうに、彼は結局、少女の言う通りにした。変化を回帰させる『異本』、『嫋嫋縷縷』に軽く触れ、どうやら、傷を治した。傷付いていようが傷が治ろうが、まだ呆けて、なにを考えているか解らない顔をしている。
「それと」
貴人の傷が回復したのを見て、少女はやや語気強めに、次の言葉を紡いだ。差し出した『嫋嫋縷縷』を自らに引き戻し、もう片方を彼へ、向ける。
「ひとつ、お願いがあるの。これはべつに強制じゃないし、わたしにとってもさして、重要な事柄じゃない。だから、このお願いを聞いてもらっても、わたしはあなたになにも提供しないわ。その代わり、べつに断ってくれても構わない」
つまるところ、少女はもう、自身の体を天秤にかける取引には応じない。そういう意図を含めての、言葉だった。
少女を見るでもなく、ましてや少女の足元などを見つめるでもなく、貴人は、どこか空虚へ視線を巡らし、呆けている。相槌すらもないので、話を聞いているのかいないのかもあやふやだ。
だから、この問いすら、無駄になる可能性もある。だけれど、やっておきたい。あのように言ったけれど、この対処は、しておかなければならいないことだ。最悪、紳士の持つ『箱庭百貨店』で用いられなくはないが、『百貨店』で引き出せる性能には限界がある。正当に扱える使用者に任せる方が望む結果は得られやすい。
ゆえに、仕方なく、少女はかがんで、貴人の耳元へ口を寄せた。この依頼は、内密に行わなければならない。部屋の奥に引っ込ませたとはいえ、聞き耳を立てていないとも限らない。
もあ――。どうやら、反応はあった。聞いてはいるらしい、と、少女は理解する。そして、どちらかの返答が、聞こえた――。
*
本当にわけの解らない人間だ。結局は無理矢理に力ずくで『異本』を奪ったにもかかわらず、奪い返そうとも、難癖をつけるでもなく、潔く貴人は、引いた。
「どちらにしたところで『異本』は君にあげるために持ってきたんだ。交渉はついでだよ。僕は『異本』なんぞに、興味がないからな」
しゃべっていなければ、彼は本当に人間なのか、解らなくなる。全身が、微動だに動かないから。語るときだけは、わずかに口が動くから。しかし、このとき彼は、一度だけまばたきをした。瞬間、真っ赤な双眸が隠れて、また、現れる。
「そ。じゃあ、ありがた……うん。まあ、いただいておくわ」
少女は『ありがたく』と言う語彙を、なぜだか飲み込んだ。この気持ちの悪い貴人に、感謝などしたくなかったのかもしれない。
「おまえ、解ってると思うッスけど、もう二度と、ノラの前に現れるんじゃねえぞ」
隣から、丁年が銃口を突き付け、低い声で脅しを入れた。そんな脅しなど、なんらの効果もないだろうことは、彼ももう、なんとなく解っていたけれど、やらないよりはいいだろう。「あいあ~い」と、貴人は軽い口調で承諾した。どことなく楽しそうにも見える。
「つうか出てけよ。あんたいつまでそんなとこ寝っ転がってるつもりッスか?」
呆れ声で、丁年は言った。全体的に気持ち悪かったからあまり気にならなかったけれど、そういえば彼は徹頭徹尾、寝転がっていた。もちろん、元来は少女の下着を覗き込むために転がっていたのだろうが、存在がバレてからも起き上がろうともしない。まあ、かなりものぐさそうな雰囲気は感じるけれど、それだけが理由なのだろうか?
「もああぁぁ。そのうち帰るよ、たぶん。だりいんだ。お構いなく」
「いや、構うわ。つうか邪魔なんッスよ。そこ玄関。俺らいい加減に出掛けるし」
丁年は、そう言いながら貴人の周囲を軽く、行ったり来たりした。足でも引っ張ってか、頭を押し込んでか、どうにかして外に放り出そうとしていた様子だった。だが結局は諦めて、足で蹴り転がし、少しずつ外へ向ける。貴人もされるがままに、転がって出て行った。
「んじゃまあ、みなさんお達者で――」
律儀に別れの挨拶を紡ぐ彼の言葉を、丁年が扉を閉めて、ブツリと切った。
本当に、わけの解らない生物だった。いったいあれは、なんだったのだろう?
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