「ほんほん。そんで?」
老人が神妙に頷いた。訳知り顔に、腕まで組んで。
『グルルル……ガアァ』
ジャガーが唸る。不思議とその挙動は、受け答えのように成立している。
テス――彼女とは友人であり、意思疎通が、他種族ながらもできていると自負している淑女ですら、彼女の本心を完全には推し量れない。少なくとも、ドクター・ドリトルのように、動物の言葉が理解できるわけでは、決してない。
であるのに、眼前の老人は、それを可能としているかのように、会話している。いやまあ、仮にそれが本当に成立しているとして、だからなにやってんだという思いは、淑女の中で、ずっと引っかかってはいるのだが。
「あの……『おじいちゃん』?」
おずおずと、声をかける。まだ、彼が本当に、あのとき自分を救った老人であるかが、まさしくジャガーの言葉のように、百パーセント信じられているわけではない。特に、彼はすでに死んでいるはずだということも、少女たちから聞かされていたから、なおさらだ。
とすれば、どう接していいのかもあやふやだ。そうでなくとも長い間、会えていなかったのだ。人づきあいが得意ではない淑女には、朗らかに話せる状況とは言い難かった。
「大変じゃったのう……。じゃが、息災ならなによりじゃ」
『キュウウゥ――』
切なそうに、ジャガーは鼻を鳴らした。もはやふざけているようにさえ見え出した淑女である。
「『おじいちゃん』ってば!」
「うおぉ! なんじゃ、びっくりするぞ!」
さして驚いた様子もなく、年相応にずっしり構えて、老人は淑女に応対した。
「せめてなにやってるか説明してからやってくれる!? いっつも言ってるよね! 言ってくれなきゃなにも、解らないって!」
「なんじゃ、声を荒げて。元気じゃのう。どうせおまえにゃ、言っても解らん」
「そうやって見限るの、悪い癖! あーしだってもう子どもじゃないの! ちゃんと話してくれれば解るよ!」
まだ淑女は意識していないが、だいぶ当時の雰囲気に戻りつつあった。
つまり――これもまだ当然と意識できていないのだけれど――この老人は、たしかに本物だ、とも理解しかけている。自分の知る、あの老人だと。
「ドラスティックなフィックスのためにプライオリティをどこに置くか、ディシジョンを窺っておったのじゃ。ジャガーとはいえテスはリテラシー高いからの。おまえらにコンセンサスとってオーソライズするのはあとでええじゃろ?」
「…………」
じっくり、淑女は老人の言葉を咀嚼した。……ふむ。……なるほど。そう、何度か頷く。
「……ふ、ふうん?」
悩んだ末、淑女は知ったかぶることにした。できる女風を装い、きわめて毅然とした態度で、また、何度か頷く。
「おまえ解っとらんじゃろ」
はあ。と、老人は嘆息し、もう淑女のことはいいといった雰囲気で、改めてジャガーに向き直っていた。
「わ、解ってるよ! つまりあれでしょ? テスが可愛いからお話ししてたんだよね!」
「そうじゃのう。まあ、それでええじゃろ」
なおざりに老人は流した。
「そもそも儂も自分でなに言っとるか解らんかったし」
そう、付け足す。
だから、淑女は顔を真っ赤にして、白い髪を逆立てた。
「ほんと昔からそうだよね! 『おじいちゃん』っ!!」
荒れる心とは裏腹に、やけに冷静と、淑女はようやく、彼が本当に『おじいちゃん』だと、理解できたのだった。
*
「……お話しをしていた。うむ。たしかにそれは、正しい」
淑女の息が整うのを待って、老人は静かに、そう、切り出した。
「もっと正確には、物語を聞いておった。『テスカトリポカの純潔』。細胞に含まれる遺伝情報。一部の者が言うところの『極玉』に刻まれた、『異本』たりうる、物語を」
淑女は、知っていた。老人が真面目な話をするのは決まって、自分を小馬鹿にあしらった直後だと。だから、気を引き締める。
そうでなくとも、『異本』の言葉が出た。昨夜、麗人も言っていたではないか。『異本』に関する、すごく重要なプロジェクト、だと。
「そして本人は、『それでいい』と言った。儂の提案に、同意した。じゃから、あとは、おまえ次第じゃ」
まっすぐと、淑女を見る。多くの皴が刻まれようと、その瞳は、埋もれていない。しっかりと見開かれた双眸には、焦げ茶色の炎が、いまだメラメラと燃え盛っているようだった。
「ちゃんと話してよ、今度こそ。あーしは、『異本』を知った。テスを知った。……『おじいちゃん』の、娘と、息子たちを知った」
そうだ、さして大きな義理もないが、その件についても聞いておかねばならない。言っておかねばならない。だが、まずは友人のことである。
「トラちゃん――『虎天使R』も、変わっていないようでいて、変わったよね。ほんの少しだけど、あーしには解るの。彼はもう、『異本』じゃなかった」
ほとんど、意識的ではない。しかし、おぼろげながら淑女は、自らに、『異本』を鑑別できる才能――親和性があることを、知っていた。その感覚が、『虎天使R』の、あの短い時間での変貌を理解させた。
ただ、絵が変わったというだけではない。あれは、言ってみれば、データの移行だ。新しく購入したパソコンに、古いパソコンのデータを移すように、『異本』である『虎天使R』の中から、『異本』ではない別の落書きへ、彼の意識のみを移し替えた。そうとしか、淑女には考えられなかった。
もし、その推測が正しければ。
「そうか、やはりのう……」
老人、ほんの少しの間、落胆したようにうつむいた。なにかに、後悔するように。が、すぐ顔を上げる。気を取り直したのだろう。その雰囲気は、さきほどまでと変わらない、神妙に、さりとて好奇心に満ちた、少年のようであった。
「『Pyuthagoras0001』」
老人はおもむろにそう言うと、立ち上がり、部屋の隅へ向かった。そこにある棚から、いくらかの書籍を、抜き出し、続ける。
「『Ardi Ramid』。『日満時天遊船』。『Conquistador Maqanakuy』――」
ひとつひとつ――一冊一冊と、老人は、慎重というか、大切なものを扱うように静かに、淑女の前にそれを並べていった。
それら『異本』らしき数々を、淑女は知らなかった。せいぜい最初に老人が口にした『異本』。『Pyuthagoras0001』を、少女の口から聞いたような気が、しないでもない。その程度である。
「――そして、『Te wai ma』」
最後の一冊を――十冊目の書籍を、置く。並べられたそれらは、外観上、まるで統一性のないもののように見えた。厚さも、形も、装丁の色や表紙絵、タイトル文字のフォントですら、どれもこれも違っている。
であるのに、なぜだかその中に、微細なエッセンスの類似を、淑女は見て取った。どこがどう、とかは解らないが、これら作品には、なんらかの共通点がある。そう、無意識な感覚で、解ったのだ。
それに、最後の一冊に関しては、ちゃんとした記憶がある。それは、少女や紳士にとっての大切な記憶のひとつ。それに関するものだったから。
だが、だとしたらどういうことだ? だって、その『異本』は――。
「これが、かつて――あるいは現在、無形として存在する『異本』の形代じゃ。いくつかはすでに、土地や概念、信仰、思想や、それらを内包する世界そのものから『異本』としての力を、併合しておる」
それが、あえてはぐらかすような物言いではないことを、淑女は理解した。しかして、その言葉の意味を、正しく理解することは、なかなかに困難であった。
「つまり、形なく存在していた十冊の『異本』に、形を与えたのじゃ。これでこれら無形じゃった『異本』も、物理的に扱えるようになった」
それがどういうことなのかは、淑女にも解った。
つまりは『蒐集できるようになった』、ということ。『異本』を蒐集している淑女の家族たちにとっては、それがもっとも、重要な事実だった。
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