見回してみると、いつのまにか少年はいなくなっていた。本当に幽霊のようだ。いきなり現れたり、いなくなったり。
少女は本棚の間を順に見回る。もしかしたらまた、なにも言わずに帰ってしまったのかもしれない。
「わっ……ちょ、ヤフユ!?」
気を抜いていた。だから余計に声が出た。
そこには、全身が煤けたような灰色の少年が、書庫の埃にまみれて倒れていた。
「どうしたの!? どこか具合が悪いの!?」
「なんでもない。少し、……書庫の鼓動を聞いているだけだ」
少年は平然と言う。彼がその独特な声で言うと、なにもかもを信じたくなる。
くうぅうん。と、腹部が切ない悲鳴を上げなければ、少女も疑問など挟む余地なく信じたに違いない。
「ヤフユ。……お腹空いてるの?」
「いや。そ――」
くうぅぅぅううん。と、少年の肉体は精神を遮った。
「……空いてるのね。ちょっと待ってて、食べ物を持ってくるわ」
少女の荷物は書庫のそばの空き部屋に放り込んである。少女は言うが早いか、その部屋まで食べ物を取りに走り出した。
「ちょっと、……ま――」
今度は腹の音に遮られたりはしなかったが、それでも届かないであろう声を、少年は仕方なく飲み込んだ。自身の肉体を恨み、また、修行が足りないと後悔する。
やがて戻ってきた少女の両手を見て、その後悔はより、深くなった。
「ほら、食べなさい! メイちゃん特製! 羊とウサギの燻製よ!」
満面の笑顔で少女は言う。ということは、冗談ではないのだろう。少年は冷静に分析した。そうするしかなかった。
そのワイルドな骨付き肉が、攻撃的な速度で自身の顔に近付けられては。
「ちょっと、待って。……せめて、もっと消化のいいものを……」
腹の音と同様の、切ない声が漏れた。
「? ヤフユ、知らないの?」
「……なにを?」
純朴な疑問符に、恐々とした疑問符で応える。
悪い予感しかしない。
「おいしいお肉を食べると、胃液がいっぱい出て、消化がよくなるのよ」
少年は、その言葉を最後に、気を失った。
*
風が強い。こういうときは、いろんな匂いが入り混じって、独特の香りになる。
くんくん。と、鼻を鳴らす。
「やはりあそこで、間違いないようです」
町からはやや離れているが、その立地の高さ、建物を覆う塀の高さから、十分にその場所は確認できた。聞いていた情報とも合致する。まず、間違いないだろう。
町を歩きながら確認する。めぼしい店を見つけては、背負った大きなリュックサックに、必要物資を調達していく。
町には活気が少ない。だが、町民の目は死んでいない。だから、いい町なのだと感じた。あの者たちが育った町。そう思うと、なるほど、そんな気もしてくる。
町のはずれに立って、振り返る。
「さて、長丁場にならなければよいのですが」
風上から、目的の匂いが降りてくる。だからそちらに向き直った。
くんくん。もう一度、鼻を鳴らす。間違いない。
「いま参ります。ノラ様」
その町に似つかわしくない正統派の姿に身を包んだメイドが、やや口角を上げて、呟いた。
*
「『オヤジ』、また、なんか来たんだけど」
「なんか?」
怪訝そうに若者は振り返った。少女のときとは違って、それは予定にない。
「なんつーか、メイド? 本で読んだだけの知識だけど、そんな格好の女」
「メイド……」
心当たりはあった。だが、そんなやつの来訪は望んじゃいない。
「適当に追い返してくれるかい。いちおう三人で行った方がいいね。……ハルカとカナタは?」
「いま肉食ってる」
「肉?」
若者は怪訝な表情を深くする。そんなものがこの屋敷にあったか? それはメイドの来訪以上に不思議な単語だった。
「あのシロってやつが持ってた。俺も一口いただいた」
「……まあいい。早めの対処を頼むよ。……リミッター解除は、三人で一回、一つ目までだ」
人死にはごめんだからね。若者はなんでもない風に言った。
言われた幼年は嘆息する。眉間の皺が、さらに濃くなる。
*
「感激感激! 美味しすぎ! いまから『姉様』と呼ばせてもらうのだわ!」
羊肉の燻製に噛みつきながら、女児が言う。食べ進めているというのによだれがまだまだ垂れてくる。
「感涙感涙! 泣けてくる! いまから『姉上』と呼ばせていただきます!」
ウサギ肉の燻製を頬張りながら、もう一人の女児が言う。言葉通り、本当に泣きながら。
「あなたたち、どれだけ空腹なのよ……」
もはや呆れるしかない少女だった。せっかくメイドが持たせてくれた肉で、大事に食べようと思っていたが、女児らの顔を見たらそんな気も失せた。自身でも一つ、肉を口に入れた。
一口食べたら観念したのか、少年は羊肉とウサギ肉を一気にたいらげ、眠ってしまった。そのまま寝かせておくと風邪をひくかもしれないと思い、少女はリュックサックを放り込んだ部屋にまで少年を運んだのだ。『遺言』の力も失った非力な少女だったが、その少年はあっさりと持ち上げることができた。本当に長いこと、まともな食事を採っていなかったのだろう。
幸いにも、毛布があった。ベッドやクッションなどはなく、コンクリート造りの床に直接寝かせたが、風邪をひかせることはないだろう。
そうして寝かせ終わって、一息ついたころ、夢見心地な様子でふらふらと、急に二人の女児が、その部屋にやってきたのだ。
「美味しそうな匂いはー」「この部屋から漂ってー」「「くるみたいなのー」」
少女は体を震わせた。急に現れたこともそうだが、彼女たちの顔が、生気を失ったように虚ろだったからだ。
そしてうなだれ、膝をつく。そのままゾンビのように少女のもとへ這い寄ってきた。
「ご」「は」「「ん~~~」」
女児はシンクロして、少女に手を伸ばす。怖かった、というのもある。だが、純粋に可愛そうに思えてならなかったのだ。だから、少女は反射的に、肉を差し出した。
すると、冒頭の顛末になる。
「……あなたもどうぞ。あなただけお腹が膨れているなんてことは、ないんでしょう?」
「…………」
部屋の扉のそばに立っていた幼年にも、少女は肉をひとつ差し出した。すると幼年は頬を掻き、やがて近付いてきた。おぼつかない指先で、肉を受け取る。
「まあ、……ありがとう」
照れくさそうに礼を言った。
「いいえ、どういたしまして」
笑顔で少女は応える。
幼年はさらに照れくさそうにして、そそくさと部屋を出て行った。
*
大人が通るには狭すぎる門をなんとか通って、メイドは敷地内に足を踏み入れた。
くんくん。と、鼻を鳴らす。
「ノラ様の匂いが一気に濃くなりましたね。やはり、間違いない」
ここまでくればもう疑う余地はないだろう。メイドは主人の存在については確信し、思考を別のことへ向けた。
もう一人の主人の言によれば、ここにはその主人の兄弟が、いまだに住んでいるという。悪い男ではないが、とても偏屈だという。それは偏屈と言うほかなく、主人にもその本性を掴みきれないのだとか。
それなのに「悪いやつじゃない」と断定するところ、やはり主人は、なんだかんだと甘い人間だ。
まあ、そんな人間でなければ、以前の主人に無理を言ってまで、男と少女に着いて行こうなどと思いもしなかったのだろうけれど。
男のことや、その人生、その人間関係については、以前の主人からいろいろ聞かされていた。だからこそ、興味をそそられた。あれだけ壮絶な人生を歩んできた人間が、あのとき、他人を気遣った。
ローマでのこと。男の義姉である女との戦い。その中で、あの少女を気遣い、救い、守ろうとした。
あとから聞けば、その少女自身が男の大切な『異本』であったという要素は確かにあった。それを聞いたときは少々の落胆もしたが、メイドはすぐに気付いた。
男はただ『異本』を蒐集するためだけなら、少女を連れて歩く必要などなかったのだ。それこそ幼女――パララのように、住居を見繕い、安全なところで生活させる方が、危険は少ない。常にそばで監視できないことは痛手だが、危険な『異本』集めに同行させるよりかはよほどいいだろう。
「ハクはそうしたかったみたいね。でも、わたしが無理を言って、着いて行ってるの」
いつか、少女はメイドに言った。
「それをよく、ハク様が了承なさいましたね」
「簡単よ。一緒にいてくれなきゃ、舌を噛み切ってやるって言ってやったわ」
あっけらかんと少女は言った。
その言葉に驚いたのは、いたいけな少女がそこまで言ったことについてもそうだが、結局はそれだけのことで、男がその言を了承したという事実だった。
そんな言葉など無視して、一人で生活させてみてもいい。少女を死ねないように監禁してもいい。財産は多く持っていたのだ。あらゆる手は尽くせばいい。だが、男はそうしなかった。
だから、メイドは男が甘いのだと再確認する。辛い生い立ちから、少女を自分と重ねた部分もあるのだろう。
だとしても――だからこそ。
そんな人生を引っさげて、よく他人を気遣えるように成長なさいました。
メイドは使用人としてより、親のような心境で、男をいたわった。
「そんな甘い主人ですから、私はその分、厳しく、強くなければなりません」
背後。そして、正面。それぞれに向かって言う。臨戦態勢のため、背負っていたリュックを降ろした。
「驚愕驚愕。ばれちゃった」
まるで鏡合わせのような二人の女児。だが、油断はしない。
「剣呑剣呑。気を付けよう」
なぜなら二人の女児は、揃って服の下から、無造作にそれを取り出したのだから。
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