2027年、二月。フランス、パリ。
少女たちの滞在する、マンションの一室。
「それでは、一足先に現地入りしておきます。ノラ様。ヤフユ様」
それは前もって、少女とメイドで示し合わせ、他の者にも周知させておいた予定通りだった。正確には、ふと予定外にこの地を訪れた紳士だけは、そのことを聞いていなかったのだけれど、それは、少女が話しているだろう。メイドはそう思っていた。睡眠もとっただろうが、だいぶ長いこと、ふたりでその部屋に閉じこもっていたのだから。
「はい……? ああ、妹たちを、よろしくお願いします……?」
紳士は、探り探りに言葉を紡いだ。その様子から、どうやら完全には理解していないと、メイドは読み解く。リンゴを咀嚼しているから、それで言葉が途切れ途切れになってはいるが、それだけでは、疑問符がついたような語尾のイントネーションが説明できない。
「まさか……ぜんぶ食べたのですか?」
おそらく少女からなにも聞かされていないのだろう。というより、もしかしたら少女はずっと眠っていたのではないだろうか? そう、メイドはいぶかしむけれど、別の疑問を先に差し向けた。会話を展開させるためのつなぎだ。
「まあ、おおかた。……いけませんでしたか?」
「いえ――」
むしろ、無意味にリンゴを剥きすぎてしまったのだ。少女との会話をもたせるためとはいえ、無駄なことをしたと、メイドは若干後悔していた。それが正しく消費されるなら喜ぶべきことだが、それにしても、食べ過ぎである。
「ああ、そうか。ノラの分がなくなったな」
紳士は間違った解釈を、納得したふうに呟いた。立ち居振る舞い。聡い言葉遣いや、美しい声から、どこか超越的で、達観した紳士だけれど、彼はときおりズレた思考回路を発揮する。
「ヤフユ様――」
メイドは、彼の名を呼ぶ。彼は素直に、思案に俯けていた顔を上げ、メイドと目を、合わせた。
年相応、なのだろう。まだまだ若いが、それでも、二十歳は過ぎた大人である。あるていどの艱難辛苦くらいは理解していて、いくらかの理不尽くらいは諦めている。そういう、一般的な影くらいは差している。でも、まっすぐ相手を射すくめる、純粋さを残した、瞳だった。
だからか、メイドは瞬間、委縮する。あ、あ。無意味に二度、口を開いて、声は出さないままに、閉じる。触れた上唇と下唇を、それから、少しだけ強く、互いに押し潰した。
自分は、どの立場から、彼らになにを、言うつもりだったのだろう。ふと、メイドは解らなくなる。いい歳に成長した彼ら夫婦に。『家族』となれた自分とはいえ、過保護な心配は、不要ではないか。たとえそれが、彼らの――自分たちの未来までもを、左右するとしても。
いや、だからか。きっとこの人生においてもっとも大切なことだからこそ、当事者同士が、決断すべきなのだ。彼らの片方は、そんな重大な局面であるという意識など、微塵も持っていないとしても。
「――先に、現地に赴いております。妹様方のことはお任せを。早まった真似は決してさせません」
本当は、妹ふたりはともかく、弟様は勝手に、もうすでにどこかへ行ってしまいましたが。そのような些事は、言わないでおいた。まあ、あの丁年なら、大丈夫だろう。ただ集団行動に慣れないだけだ。そう、理解しているから。
「ええ、よろしくお願いします」
たぶんまだ、すべては理解していない。それでも、もう疑問形も、妙な間も抜きにして、しっかとした返答を紡いだ。自分よりも、相手をおもねる、笑みを浮かべて。
「それでは、……よろしくお願いいたします」
メイドはそれだけを言って、部屋を後にした。
きっと彼は、戸締りかなにかを頼まれたのだと、そうとしか、思わなかっただろう。
*
だいぶ高度の落ちたリンゴタワーに手を伸ばすと、音もなくむくりと、少女は起き上がった。その彼女と、目が合う。長く美しい銀髪に、少しだけ寝癖をつけた、不機嫌そうに目を細めた、そんな姿だった。
「やっと行ったわね」
ふだんよりもだいぶ低い声だった。寝起きだからだろうと、紳士はあまり気に留めない。
「おはよう、ノラ」
紳士の言葉に、少女は不機嫌そうな目をそのままに、彼に向けた。
「なにやってるの」
「リンゴを食べてたけど」
「ん」
少女は唸る声と、視線だけで、彼に訂正を求めた。視線の先では、紳士と少女の手が、繋がれている。
「君が繋いでてくれと言った」
「言ったけど、いつまで繋いでるの」
「いけなかった?」
多少慌てて、紳士はその手を離そうとする。
「いけなくない」
だが、少女の方から強く、握られ、その手は、離れることがなかった。抜いた力を、紳士は、もう一度、込める。それを確認してから、少女は、起こした上体をもう一度、ベッドへ沈めた。ベッドのスプリングで、小さな少女の体が、数回、跳ねる。
「……ああ、そうだ。リンゴ――」
「言いそびれていたわ、ごめんなさい」
たぶん他愛のないことを言おうとした紳士を、少女は遮って、言った。
「メイちゃんには、カナタたちを連れて、先に行くように言ってあったの。一日二日遅れて、わたしは合流するって」
「シロとクロのことかい?」
「それもある」
次の蒐集へ向かうまえに、ローマに寄る。彼女らの娘である女の子を預けっぱなしにしていたのだ。いまいるマンションが手狭であったからだが、さすがにもう、預けっぱなしは申し訳ない。それと、少女に内緒で勝手に男に着いて行ったらしい男の子も連れ戻し、このマンションに滞在させるつもりがあるのである。
「それと、ちょっといろいろ整理したくて」
「整理……。清掃、という意味では、なさそうだね」
「…………」
少女は答えないまま、瞬間、拒絶するように、繋いだ手の力を抜いた。かと思えば、角度を変えて握り直し――それは、いわゆる恋人繋ぎの形に、落ち着いた。
「ヤ――」
「ノラ」
紳士は、鈍感な方だ。少なくとも、まっとうな人間と、まっとうに付き合ってきた経験は、一般の人間と比べて乏しいだろう。であれば、やはり、ノンバーバルコミュニケーションにおいて、行間を読むような聡明さは、低い。
だがこのとき、彼は直感的に、なにかを悟った。それはとても言語化できないが、なぜだか特別に、確信を持てる天啓だった。だからあの少女よりも、鋭く次の言葉を紡ぎ、彼女のセリフを、遮ったのだ。
「いったい君は、どこに行ってしまうんだ?」
困ったような笑みで、少女をまっすぐ見て、言う。急に年老いたように、険しく目尻を落とし、泣きそうに、極めて優しい、問い。それはふと、彼の胸に去来した、暗い恐怖。
「どこって――」
言いかけて、少女は、口を噤んだ。きっと、他の誰を相手取っても、言い訳はできただろう。そう、理解する。
でも、眼前の紳士に対しては、はぐらかす言葉を選べなかった。理由は――なんだろう? それはきっと、理性的に思考するにあたって、きっと生涯、誰にあっても到達できない難問であると、少女は理解した。理解してしまった。苦笑いとともに。
「どこにも、行かないわ」
だから、自分でも苦しいと判断する言葉を、選んで語る。誤魔化そうとしたのではない。ただ、時間を稼いだだけだ。
絶対に出ない答えを、言わずに済む、時間を。
「だったら、そうかもしれない」
そのように、紳士は引き下がるような言葉を吐いた。この件について、これ以上は言及しないと、暗に言っているような、一言を。
「なら、君はわたしと、ともにいてくれるのか? この物語を終えたら――『異本』をすべて蒐集し終えたら、ノラ、君はもう、どこにも行かずに、わたしのそばに、いてくれるのか?」
凶器のような、一言だった。それは少女の心を、ずしりと締め付ける。痛みはない。だけれど、いつか窒息してしまうような、重い言葉だった。
人を死に至らしめる。それだけの質量を持った、強い、問いだった。
「ヤフユ――」
それからの会話の展開を、少女は幾億通りも、シミュレートした。だが、それらどれを経ても、少女の理想には到達しない。ゆえに、諦めて、少女は言葉を、選んだ。
「わたしは、あなたを愛しているわ」
決して、はぐらかそうとして言ったのではない。ただ、これを逃せば、もうこの、感情を伝える機会が、ないと思えた。
「好き。大好き。愛してる。――こんなわたしでなければ、あるいは、こんな世界でなければ、わたしは、あなたのそばにいるだけで、他のなにもいらないと言えるような、そんな――ひとりの少女に、なれた」
それはきっと、到達できない物語を編むような、一言だった。そんな未来は、どんなルートを模索しても、見つけられない。そう、宣言するのと、同義だった。
なにを言うかは決まっている。それを回避するすべはないのだと。それも、解っている。
でも、それでもどうして。涙が、止まらないのだろう。少女は、思った。
決して、バッドエンドではない。それは、物語の登場人物たち、すべてを総合して、ハッピーエンドになるはずの結末だ。そしてそれを、少女も願う。あるいはそれを、少女は望む。
つまりこれは、少女が目指す、最高にして、最上の、結末であるはずだった。
なのにどうして――。少女は、思う。
悲しくないはずなのに、どうして――涙が、出るんだろう。――と。
ぎゅ――っと、手を握る。たくましくはないのに、男の子だと、そうしっかりと伝わる、ごつごつした、手を。
「ノラ――」
彼は、少女の名を、呼ぶ。
「もっと――」
少女は、涙を止められないままに、哀願した。
「もっと、わたしの名を、呼んで。わたしをわたしだと、教えて」
紳士は、不思議な引力に抗えぬように、少女を、抱き締めていた。「ノラ――ノラ――ノラ――」。彼女の名を、呼ぶ。呼び続ける。消えてしまわないように。
少女は、深く息を吸った。間近に感じる、彼の体温を、味わうように。
これが最後だと、知っていたから。
「ヤフユ――」
問いかける。しかし、返答はない。
その間に、少女は心安らいだ。なんでもない――ただ、互いの体温を、匂いを、感じていられる、その時間を。
ひとつ、洟をすすって。彼の肩で、涙を拭う。
「世界で一番、あなたを愛しているわ」
その、なんらの根拠のない、ありきたりで、平凡な、間違いだらけの真実を、少女は、口にしていた。
だけれどそれはきっと、感情のおもむく、極致の言葉だった。
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一時間か、そこら。
それだけの時間だけ、彼らは眠った。
それ以上の言葉もないままに。
ただ互いを感じたまま、視界を、閉じる――――。
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