2027年、一月。台湾、台北。
WBO本部。『執行官長室』。
「――ええと、もう一度、確認するね」
その若人は困惑気味に尋ね返す。これでもう確認も、三度目なのであるが。
バリッ。と、いつも通りに煎餅を噛み砕く音も、どこか戸惑いがちに。
「ガウェイン。いったい、なにをされたって?」
「……ぎゅって、ハグ、されました」
恐怖。――というよりも、このロリババアも、ただただ困惑し、事実を述べる。もちろん、最初の報告と、さらに確認を三回されているので、四度目になる、証言を。
「ボクは、頭を撫でられましたよ……」
俯き、頭を抱えるように鼻眼鏡を持ち上げつつ、ゴリマッチョも追随した。代謝の良い筋肉質な体から、蒸気が上がるほど発汗しながら。
「ううん……」
若人は困惑した。困惑しか、することがなかった。
「あのさ、さすがにないだろうけど、ふざけてるんじゃ、ないんだよね? 仮にどんな失態があったとて、君たちが、いくらなんでも、そんなわけの解らない冗談を言うとも思っていないし。私も」
特段の指名があったわけではないが、その視線や声は、三人目に向いていたから、それを感じ取ったパリピが、顔を上げる。
「ガチで、どちゃくそ信じられんかもだけど、これマジ! 自分で言っててじわるけど、たったそれだけだったぽよ!」
眼前のテーブルを叩いて立ち上がり、声高にパリピは言った。ふざけた口調だが、その表情は真剣そのもの。……まあ、その表情が見て取れるのは、彼女がフードをかぶりマスクをも装着している都合上、正面で話を聞いている若人だけだったけれど。
どちらにしても、彼だけに伝われば十二分。
「念のため。モルドレッド。君は、なにをされたって?」
もはや頭痛を慮るように頭を押さえて、若人は言った。
その問いに、パリピは気を鎮めたのか、込めた力を抜き、着席する。
「う、腕を組まれて……頬ずり、され――」
うっ……!! 言いかけて、想起したのか、パリピは口元を押さえてうずくまった。長すぎる袖、フードで頭を隠し、履いている靴まで覆うほどの裾の長いバギーパンツ。ともあれ、肉体の表出をほぼしていないその格好でも、彼女がいまにも、精神錯乱に陥りそうな様子は、見て取れた。少なくとも、若人から見たなら。
「…………」
執行官長用のデスクチェアー。その上質な背もたれにどっしりともたれて、若人は思案する。まったくもって、わけが解らない。
もはや虫の息とまで思われた『本の虫』の最終拠点。そこにいた、こちらの情報にない何者か。それが噂に聞く『女神さま』だということには容易に思い至るけれど、その者の扱った術が解らない。まったくもって、予想もできない。そのうえで、その力の強大さが底知れず、なにより手法が、理解不能だ。
ちらり、と、三人を見下ろす。この状態の彼らに、これ以上、確認もしないけれど、どうやらかの『女神さま』とやらは丸腰だったという。というより、全裸だったとか。つまり、『異本』だとか、『宝創』だとか、そういう類の異能じゃない。強いて言うなら『極玉』の力が考えられるが、EBNAの過去から現在までの、ほぼすべての活動をWBOは把握している。その中に、今回の『女神さま』が用いたものらしき異能は思い付かないし、人物像的にも、思い当たる節がない。
万が一……の話だが、極玉は、ごくまれに自然発生する、らしい。だが、それは万が一どころか億が一、いや、それよりよほど稀有な事例だ。若人が知っている――つまりは、実質WBOが把握している自然極玉の使い手は、この世にたったひとりしか、いない。さすがにそこまで存在可能性が低いものを想定するのは無理がある。
そして、仮に億が一、その想定が正しかったとして、打てる手などないのだ。EBNAの研究結果――発明品のひとつであるCODEを扱えれば、あらゆる極玉を無効化できるらしいが、その技術も知識も、WBOにはないし、仮にそれを手に入れたとて、自然極玉に対抗できるかどうかまでは未知数だ。
億が一のうえに未知数。そんな不確定すぎる要素のために割ける人手は、さすがにない。そもそもEBNAは、ついひと月ほど前に半壊したとはいえ、その戦力は膨大だ。『本の虫』との戦争が終結する前に手を出せる組織だとは、いくらなんでも言えない。
ふう。と、息を吐き、思案を終える。若人は目を、ぎゅっと、力強く瞑り、その力で疲れた頭をいたわった。静かに、ぼんやりと瞼を開ける。
「仕方ないか」
「そうだな。『仕方ない』さ、ソナエ」
気を抜いていたつもりはないが、突然の彼の来訪に、若人は目をひん剥いた。
「リュウさん!」
上司とはいえ、特段に肩肘張るような仲では、実はない。しかし、いちおうは他の構成員もいる手前、若人は弾かれたように起立し、姿勢を正した。
いや、そんなものは言い訳だ。彼らは互いに互いを対等と認識しているが、それでも、若人は彼を、心の底から尊敬しているのである。
「彼らは一時、休ませよう。来月にはひとり、『特別特級執行官』を補充する。彼女に後任を任せるように」
「は? ……はあ」
突如現れたWBO最高責任者、リュウヨウユェ。かの壮年が常に急いて、無駄なことを一切省略する人物であることは当然理解していたが、その場で言われたことについては理解が追いつかなかった。
特級執行官三人を休ませることは、まあ、いい。むしろその点については若人もそのつもりだった。想定外のなにかがあったとはいえ、彼らはまたもしくじったのだ。そのうえ、精神的にもダメージが深そうである。なれば、謹慎処分ということで、ひと月ほど療養させること自体は、若人と、壮年の意見は一致していた。
だが、『特別特級執行官』? 彼女? そして、口ぶりからして、補充人員はひとりのようだ。いったいどこの誰だか知らないが、この状況を鑑みるなら、もっと人手は必要なはず。
そう、『仕方ない』のだ。若人は、もう自らが現地に赴くしか『仕方ない』と考え、意を決したつもりだった。
「詳細は資料に目を通すように。なにか疑問があるなら、一分なら、友のために時間を作ろう。急ぎでないなら電話してくれ」
壮年は若人に、片手では資料の束を、逆の手では『電話』を比喩するようなジェスチャをして、そう語った。その言葉に、若人は急ぎ、とにかくなにかを、問う。
「『虎天使R』は、どうなったんです?」
それは本来、『執行部』の仕事だ。その進捗が気になった。
「無事、蒐集した。ランが『グレアの裁縫』を、タギー・バクルドに奪われたそうだな?」
返答とともに、質問――というより、確認が行われた。ラン――すなわち、少し前までのコードネーム『パーシヴァル』のことを。
「はい。もとより彼は、才能にかまけて素行が悪かったですから。今回の件で『二級執行官』へ降格としましたが、よろしいでしょうか?」
「おまえに一任している範疇だ、ソナエ。私の見解としても、異論はない」
「ついては――」
「後釜だな。欠番だった『パロミデス』とともに、来月、正式に任命となるが――」
続けて、壮年はふたつの名を告げた。まだ正式な任命前だが、新しい『パーシヴァル』は、若人にも聞き慣れた名で、『虎天使R』を蒐集したという実績を挙げたらしく、文句はなかった。しかし、『パロミデス』の方は知らない名だ。そのうえ、彼女こそが『特別特級執行官』となるらしい。
「大抜擢ですね」
「不服なら再考しよう」
「いえいえ、とんでもない」
若人は、ほんのわずかにも『不服』などとは思わなかった。ゆえに、力強く首を振る。
「少なくとも、人を見る目は私より、リュウさんの方が信頼に足ります。実績の少なさだけで、否定する要因とはなりません」
ただ、知らない者なら早めに一度、会っておきたい。そう、若人は思った。
もちろん、友人がそう思うであろうことを、壮年は端から、予想していたのだが。
「これから彼女たちと一杯やるのだが、時間があるなら同行したまえ」
言うと、壮年は腕時計を気にしながら、そそくさと早足で、退出しようと動いた。「君たちも気力が戻ったなら参加するといい。私のおごりだ」。壮年はなんでもないように――淡々と『特級執行官』たちにも、伝達事項を語るだけといったふうに言って、普通にひとりで部屋を出て行く。
瞬間、ぽかん、と、間が空いた。が、すぐに我に返り、若人は動く。
「じゃあ、私は行くけど、君らもそんな感じで! ちょ、リュウさ――おい、リュウ! ちょっと待て! 煎餅持ってくから……相変わらず歩くの速えよっ!」
WBOは今日も平和だった。
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