箱庭物語

776冊の『異本』を集める旅路
晴羽照尊
晴羽照尊

暗中模索

公開日時: 2023年4月28日(金) 18:00
文字数:3,487

 

 1994年。台湾、台北。WBO本部ビル。

 完成に三年はかかると言われたそれは、若男の要請と、それに係る多額の出資により、二年弱で完成した。その間に彼らがやっていたことは、主に『異本』の研究だ。少年が偶然にも手にした『異本』、『Logログ Enigmaエニグマ』。あるいはそれを手にする前後で少年が受けた感覚。差し当たっては、そのふたつの事物についての研究だった。

 

「感覚的なものだとしか、言いようがありません」

 

 すでに完成された、大人びた言葉遣いで、少年は言った。その声こそは、第二次性徴の始まりにも届かないほどに、まだ高いままだったけれども、立ち居姿は、若男を手本にして、すでに洗練されていた。

 

「引き寄せられるように――あるいは、取り憑かれたように書斎を漁りました。当時の私は、リュウに認めてもらうために必死だったという要因もあります。しかし、やはりどこか、我を忘れてこの『異本』、『Log Enigma』を見付け出すことに取り憑かれていた。そういう感覚でした」

 

 WBO本部ビルが完成して、初めての会議である。その場で少年は、自身が体感したことに対する論述を行っていた。なぜなら、現状で『異本』を、それに触れるだけで『異本』だと認識できる者が、彼しかいなかったから。つまるところ、若男も子女も、その時点で言葉こそなかったものの、『異本』に対する『親和性』が低かったからである。

 

「ゆえにこう、推測します。『異本』は、その正当な持ち主を、引き寄せる性質を持っているのではないかと」

 

 その言葉に、若男は眉を動かした。あの石板。シリアで発掘された、『始まりの異本』とも言うべきあの石板は、彼女を待っていた。そう、理解してしまうから。たしかにあのとき、若女も取り憑かれたように、あの石板に触れた。そのうえ、その行動について本人も、無意識的だったという。

 だが、だとしたら――。

 

「ソナエ、肉体に――いや、精神に異常はないか?」

 

「……突飛な発言でしたか?」

 

「いや――」

 

 そういう意味じゃない。若男は思って、わずかに間が開いた。

 

「『異本』に出会い、それにより、心身に異常をきたさなかったか、という意味だ」

 

「異常……ですか」

 

 問われ、少年は自らの身体をにわかに眺めた。

 

「……ないと思いますけど」

 

「それならいい。続けてくれ」

 

 少年を気遣う気持ちは本物だ。しかし、ここは深く追求しない。ともすれば今後、自覚できる症状が顕れてくるかもしれない。それはそれで、貴重なサンプルだ。そうも思うから。

 

「以前リュウが言ってましたね。『異本』とは、知的生命体なのだと」

 

 すべてではないが、若男は、あの未知との遭遇について少年に語っていた。イシちゃんと彼女が呼んだ、人外の意思について。あの存在は、まさしく一個の個性だった。人類とはまるきり違うが、やはり知的生命体と評するべき存在だ。

 

「ゆえにその意思が、我々を引き寄せるのです。もしかしたら、聞こえないような声で呼びかけられているのかもしれないし、見えない手で掴まれているのかもしれない。……まあ、これ以上の空想は暇なときにでも続けるとして、その先を語りましょう」

 

 ちなみに、少なくともあの石板に関してだけで言えば、特別な音波などは発したことがない。それはかつて、石板の研究をしていたから知っていた。だが、やはり科学的な手法での研究は、今後も続けた方がいいだろう。そう若男は思う。

 おそらく、無駄骨でしかないだろうが。とも、思うけれど。

 

「『異本』に触れると、それがどのような異能を持つ『異本』だか、ふと理解できました。この『Log Enigma』であれば、『死者蘇生』。……すでにお話ししている通り、この『異本』は死人を蘇らせることができます。ただ――」

 

 そこで少年は、若男の顔を窺い、言葉を止めた。

 

「気にするな。繰り返しにはなるが、聞こう」

 

 若男は答える。気持ちは複雑に、堪えていたけれど。

 

「『Enigma』で蘇らせることができるのは、精神のみ。身体を蘇らせるわけではありません。肉体から離れていく魂を引き戻すイメージですね。ゆえに、肉体がなくなっていたり、死後、長時間を経過して、魂が離れすぎた場合などは、蘇生できない」

 

 申し訳なさそうに、少年は言った。若女を蘇らせられないことについての、懺悔だった。

 だが、若男としてはそもそも、完全な形で若女を蘇らせることができたとしても、そうしないつもりだった。彼女がそれを、望まないだろうから。それにやはり、一度死んだ命なのだ。完全な形で蘇生できたとしても、それは、生前のころと同じとは言えないのではないか。そう、思うから。

 

「続けろ。ソナエ」

 

 少年の申し訳なさを拭うべく、若男はそう、促した。

 

「はい。……これら『異本』の性能というべきものは、あくまで印象としてしか理解できません。感覚的、とも言えますか。ゆえに、もしかしたら実際に使ってみたら、認識とは異なる事態が起きる可能性も否定できない。ただ、少なくとも私は、この『異本』が死者を蘇らせることができると確信しています」

 

「『異本』に適性のある者にのみ理解できる部分だな、それは」

 

「そうなのだと思います」

 

 何度目になるか解らない、申し訳なさの表情を、少年は浮かべた。

 

「気を遣うな、ソナエ。それは『異本』だ。私にはおまえと同じように、その書籍からなにかを感じることはできないが、『異本』であるとは確信している。そうでなければ困るからだ。だからまずは――」

 

「この書籍を、徹底的に調査する」

 

 少年の先取りに、若男はわずかに、口元を緩めた。その仕草が、少年の心をも、和ませる。

 

「結果、それが『異本』でないなら、それでもいい。どうせ『異本』へのとっかかりは他にないのだ。どちらにしても我々には、それを調べていくしか、道がない」

 

「先が思いやられるねえ」

 

 ずっと聞き役に徹していた子女が、呆れたように口を挟んだ。

 

「まったくだな。だからこそ、やることが多すぎる。おまえにも手伝ってもらうぞ、リオ」

 

「解ってますよ、社長。……まあ、就職活動も面倒だし。世界中巡って、現地でうまいもんも食えるしね。最高の職場やん」

 

「おまえの見識と知識に、期待している」

 

「うわお。リュウがうちを褒めるなんて、雪でも降るんじゃないの?」

 

「では以上で会議を終了とする」

 

 子女の冗談を脇目に、若男は宣言した。そうしてそそくさと、会議室を後にする。やるべきことが、山積しているのだ。

 

 本部ビルの竣工に伴い、受付や事務員、清掃員などの下働き者は募集し、採用した。しかし、実質の活動員は、まだ三人でしかない。大切な『異本』を扱うからこそ、若男は、信頼できる人員のみで、その蒐集や調査にあたりたかったのだ。

 

 だが現状、ともに歩んでくれる仲間は増えていなかった。外部員として、一時的に力を貸すくらいは手伝ってくれる、という者もいたが、WBOに所属し、常に手を貸せるほど、誰も暇でなかったし、あるいは若男を、許してもいなかった。

 

 だから、本当にやることは膨大だ。世界中で発見された、なんらかのいわくつきの書物。話題のある書物。それらを検索し、片っ端から蒐集する。表向きのWBOは、世界中の書籍を集め、研究する組織だ。その顔を使い、本当の目的として、『異本』を蒐集する。

 

 直接、『異本』集めに現地に赴くのは、子女と少年の役割だった。子女には社交性、そして少年には、『異本』を見付け出せるかもしれない、という、親和性があったから。

 それゆえに、若男ひとりに、書物の『うわさ集め』の役割は集中している。『うわさ集め』程度の事務であれば、人を雇ってもよかったのだろうが、若男はあまり、協調性のある人物ではない。そのうえ彼は、人並み以上には自信が強いタイプだった。慣れない人付き合いや、人や仕事の管理をこなすくらいなら、全部自分でやったほうが楽だ。そう思っていたのである。

 

 ともあれそういうことで、若男は多忙を極めていた。そしてそれはある種、彼なりの現実逃避でもあったのだろう。人生をかけてでも完遂できないかもしれない。それほどの仕事に自分を没頭させて、忙殺しようとしている。このまますべてを、忙しさの中に忘れて、やがて死んでいこうと、そう思っているのだ。

 このまま、ごく限られた人付き合いをして。これ以上、大切な『家族』など、作らぬように――。

 

「言い忘れていた」

 

 一度、会議室を出た若男が、ひょっこりと戻ってきた。そして、ひとこと。

 

「これからよろしく頼む。リオ、ソナエ」

 

 それだけを言って、やはり忙しそうに、彼は出て行った。

 

 WBOの、『異本』の礎を積み重ねる活動が、ここでこうして、本格的に始まったのである。

 

 


 

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