若男には、いくらかの資産があった。それは、ボローニャ大学への入学時、彼の父親から贈与されたものである。
とはいえ、入学祝であるとか、ひとり暮らしの生活費として渡されたものではない。それは、手切れ金だった。若男は、資産家である父親と、愛人との間に生まれた子。特段に社会的地位を持っていた父親ではなかったゆえに、世間体を気にしたわけではないらしいが、どうやら息子が邪魔になったようだった。
金があれば、なんでも手に入る。そう思っている父親だった。少なくとも若男の目からはそう見えた。人の心も、金で買える。若い女を侍らせ、邪魔な者らと縁を切る。それでも誰にも恨まれない。怨恨というマイナス感情を十分埋めて、さらにプラスに押し上げるほどの金を渡していたからだ。
それと同様に、実の息子である若男も、体よく追い出された。そんな父親の元で育った彼にとって、たしかに金は、強大な力を持っているように見えた。ボローニャ大学へ入学できたのも、裏金の力である。若男自身にもそれなりの学はあったが、おそらく正規の試験であれば、パスできなかっただろう。
それはともあれ、彼には金があった。父親から譲渡された資産は莫大。そのうえ、若男自身、十二分に頭が良く、あるいは金遣いが荒いわけでもなかった。平均以上にいい生活は送っていたが、それでも一人暮らしの学生の範囲内と言えたし、株取引などで資産を運用してもいた。ゆえに、彼には十分すぎる資産が残っていたのである。
組織を、作る。彼には当時、すでにすべての構想があった。『異本』を集める組織。そのために必要な人員。施設。問題は、当時の彼には『異本』というものが、いまだどのようなものであるか、曖昧にしか理解できていなかったこと。そんな模糊としたものを蒐集していくには、どれだけの時間がかかるか、そこだけはざっくりとしか計算できなかったのだ。
だが、若男は慎重な男だった。ゆえに、十二分に余裕をもって、計画を立てている。多少時間がかかろうとも、きっと完遂できるはずだ。若男には、自信があった。若さゆえの全能感でもある。それに、その短い人生に比して、成功体験が多すぎた。最後の最後に、すべてを帳消しにするほどの失敗こそ犯したが、それでも、まだ自信は過剰だった。なんでもできる、気がした。
――彼女のことを思えば、なおのこと。
「……お、父さん」
思案を巡らせていると、後ろから声を掛けられた。聞いたこともないはずのその言葉を、幻聴したかと思い、虚を突かれる。
「……リオ。おかしなことを吹き込むな」
振り返ると、拾ってきた少年が、うつむきがちにそこにいた。その後ろに、にやにやと、楽しそうに笑う、子女が見える。
「うちをオバタリアン扱いしたお返し。それに、リュウ――」
子女は笑みを消して、若男を睨む。
「うちだって、リュウのやったことを、軽蔑してる。ま、うちはちゃらんぽらんで、キレるのとか無理だし、こうして笑ってるけどさ」
瞬間、子女はまた、なにごともなかったように笑った。だが、なにごともないなんてこと、あるわけがない。それは若男にも、解っていた。
「お父さん」
その殺伐さに居心地が悪かったのか、少年は若男の方へ寄り、彼のスーツの裾を掴んだ。ふわりと石鹼の香りが、若男の鼻に届く。
「お父さんはやめろ、ソナエ。君とはそれほどの年の差はないはずだ」
「ソナエくん、八歳だって」
「八歳?」
ちらりと少年を見て、若男は少しだけ、首を傾げた。
「それにしては、しっかりしている」
「まあ、そうじゃなきゃ、まだ子どもなのに、生まれた村を出てきたりはしないやね」
「そうか、家出してきたのか」
「はあ、知らんかったん?」
肯定の代わりに、若男はただ、子女を見つめた。その目を見て、子女は思い出す。そうだ、若男はいま、まともな心理状態じゃない。薄暗い部屋よりよほど真っ黒な、その瞳が、すべてを物語る。
「ともあれ、二度と私を、父親扱いするな」
その言い方には、子どもを不安にさせる棘が含まれていた。それには若男もさすがに気付いたようで、慌てて取り繕おうと、彼は思考を回した。
「……私たちは対等だ。そうだな……友だ。友人だ。いいか?」
少しだけ怯えた表情をしていた少年は、その言葉にいくらか、安堵したようだった。
「解った、リュウさん」
そう言って、照れ臭かったのか、少年は部屋を出て行ってしまった。
*
「それで、食事はしてきたか?」
「そりゃあもう、いいもんいっぱい食ってきたわ。リュウの金で」
「それは構わん。他にも必要なものは揃えてやれ」
「そう言うと思って、もういろいろ買ってきた」
「……そうか」
別段問題はないが、それは先に一言あるべきだろう。……いやまあ、いいか。と、若男は思った。
「それで、どうすんの。ソナエくん。ずっと面倒見るわけにはいかんよね?」
「本人の意思に任せる。どちらにしても人手は必要だ。WBOで雇ってもいい」
「は? なんそれ? WBO?」
「『異本』を蒐集する組織を作る。あの存在は言っていたな? 自分自身を含めた、776冊の『異本』が世界に、生まれると」
言って、若男は、テーブルに置いていた石板を撫でた。もはやその目的を遂げた、始まりの『異本』を。
「ふうん、蒐集、ね。集めてどうすんの? 復讐のつもり?」
ソファに腰掛け、子女は言う。その声には、ネガティブな感情が含まれていた。
『異本』を集めるという復讐には、別段、賛成も反対もない。やりたければやればいい。だけど、彼には本来、もっと他に、やるべきことがあったはずなのだ。それを放り出してまでやることが、それなのか。という――それはやはり、軽蔑だった。
「復讐、か。そうだな、それもある」
重苦しい雰囲気に息が詰まったのか、子女の言葉から目を背けたかったのか、若男はカーテンを開き、夜空へ目をやった。煌々と月が輝く、空へ。
「だが――おかしな話だが、私は『異本』というものに関しては、さして悪い感情を抱いているわけではないのだ。それどころか、素晴らしいもののようにも思っている。刃物と同じだ。どのような力も、持ち主の使い方次第」
「おかしなこと考えてんじゃないよね? 世界を変えようとか、人類を正しい道へ導こうとか――そんな、だいそれたこと」
いや、そんなことよりもまず、彼が考えそうなことといえば、若女の復活だろう。だが、傷心の彼にそのことを直接に問うのは、まだ子女には気が引けた。だからそれに関しては、飲み込む。そもそもそこまで人知を超えた『異本』があるかどうかも、当時の彼らには把握されていないことだ。
もし自分が死んだなら、生き返るなんて勘弁だ。そのように子女は思った。死にたいわけでも、生きたくないわけでもない。でも、死んだらすべて終わるのだから。人間はそういう存在なのだから。
世界の理から外れるのは、お断りだ。そのように子女は考えていたのだ。まだこのときは、ぼんやりと抽象的に思っただけではあるが。
「いいや。若いころならまだしも、いまの私には、そんな崇高な意思はないさ。だから――」
さきほど例示したことを、『崇高』と思ってしまうあたり、まだ危うい。そう、子女は思った。本当、男の子は、立派な大人に成長しても、子どもだなあ。などと付随して、思う。
「力には、それを必要とする者がいるだろう。同じく『異本』にも、それを扱うべき者がいるはずだ。それを正しく扱える、誰か。私は彼らを探したい。『異本』を集め、そんな彼らに渡したい」
「リュウ、それは――」
世界を変えたり、人類を導くのと、同じような思考だ。自分以外をすべて見下し、適切に管理しようという、あまりに傲慢な思考。
だって、『異本』を必要とし、かつ、正しく扱える者など、いったいどうやって判別するというのだ。それをあんたが決めるのか? そう子女は思い、声を上げたのだ。
そして、それくらいのことは、若男にも解っていた。しかし、それでも――。
「あいつが認めた力だ。そして、あいつに深く関わった存在だ。そんな『異本』が、悪かろうはずはない」
若男はそう言った。それは確信というよりは、願望だ。まだ若い彼の、全能感の拭いきれていない、馬鹿みたいな『狂信』。
子女としても、そのように若女のことを出されると、もう、なにも言えなかった。そしてきっと、若男も、本気でそれを成し遂げたいなどと思っていないのだろう。若女が最後にかかわったアイテム。それに執着しているだけだ。あるいは、他にはなにも、やりたいことが見付からなかったのだろう。
「まあ、やってみればいいよ」
そう、子女は諦めた。それにどうせ、無理だ。そうとも思ったから。
まだ、若男や子女は、『異本』を探すすべを知らない。『異本』とはどのようなものか、その手掛かりすらほとんどない。そんなものを、776冊も。集められるわけが、ないのだから。
――――――――
逃げるように退出した部屋の中へ、少年は耳を澄ましていた。
盗み聞きをしたかったわけじゃない。もう一度、中へ入るタイミングを見計らっていたのだ。若男のその目的を、自分にも手伝わせてほしいと。そう、進言するために。
この段階での少年には、若男へ対するそこまでの『狂信』はなかった。ただ打算的に、彼に養ってもらおうと思っただけである。それで彼のご機嫌を取ろうと、そう思っていたのだ。
だが、部屋へ戻るタイミングを見失った。若男と子女の話は、シリアスなものになっていたし、それが終わったかと思えば、自分が耳を押し付けている扉に、子女のものらしい足音が聞こえた。だから少年は、慌てて別の部屋へ、また逃げたのだった。
そこは、書斎だった。この場所は、若男が借りているアパートだったが、もともと若女とともに住んでいたという場所だったので、部屋数も多い。まだ来たばかりの少年には、ほとんどの部屋が未確認だった。だから狙って、書斎を選んで入室したわけではない。
それでも、少年にはなにか、確信めいた心情があった。逃げて適当な部屋へ隠れただけだ。だが、きっといま、自分がここに来たのには、意味があるはずなのだと。
「『異本』を、集める……」
若男の目的を反芻する。『異本』に関してはまだ、少年はなにも聞かされていない。だが、それはきっと本なのだろう。だから、探してみる。幸い、そこには本が山のようにあった。まだ世界の広さを知らない少年にとっては、十分に可能性を見出せるほどの、本の山が。
一冊一冊、手に取る。そのほとんどが、いまだ日本語しか解さない少年には読めない言語で書かれていたが、それでもパラパラと、ページを繰る。
一冊を眺め、戻す。次のものへ手を伸ばし、見る。それを、繰り返した。
あとにして思えば、それは子どもゆえの、馬鹿みたいな行動だったと解る。世界にたった776冊しかない『異本』を、識別方法すら解っていないそれを、そう都合よく見付けられるはずがないのだ。
だがどうやら、若男や子女にはない才能が、少年にはあった。
「眩しっ――!」
彼の探索が数十冊を数えたころ、その光は、薄暗い書斎を小さく、照らしたのだ。
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