次に手を挙げたのは、意外なことに青年だった。
「身共からも聞きたいことがある。よろしいですか?」
言葉は丁寧だが、その表情はしかつめらしく歪んでいた。まるで敵対するかのように。いや、まあ過去を思えば間違いなく敵対してはいるのだが。
「構わないよ。……どうぞ」
視線を合わせ、若者が言う。気障に立つのみで構えもせず、つまり、もし戦闘になれば隙だらけの格好で。それでも、その気配は慎重に若者を見据えているように……まあ、見えなくもなかった。
「それで、あなたはその『シャンバラ・ダルマ』を扱えるのですか? 身共たちはもとの……地球へ還れると?」
青年にしてみれば弱気な発言だった。だが、その言い方は力強く、特段、不安がっているふうには聞こえない。
「さてね……間違いなく総合性能Aランクの一冊。そう簡単に扱える者がいるとは思えないが……なんならきみが試してみるかい? 織紙四季」
言って、若者は青年へ、その一冊を差し出した。その行動に、男も女もはっとする。男にとっては面と向かうのは初めてだが、それでも、青年の存在くらいは聞いていた。女に関しては言わずもがな。彼らにとって、青年は敵以外のなにものでもないはずなのだ。
「いや、身共に扱えるとは思えない。遠慮しよう」
特段の興味もなさそうに青年は首を振った。男や女の警戒を気にした……からではないだろう。むしろ青年が警戒しているとすれば、若者の方。
「なら、きみならどうだ? メイリオ・フレースベルグ」
そんな警戒など気にもしない素振りで、若者は次に、学者へ向き直った。そして同じように、『シャンバラ・ダルマ』を差し出す。
やはりその無警戒な行動に、男は背筋を冷やしたが、それよりも気になったことが一つあった。メイリオ・フレースベルグ。その名を、彼はどこで知ったのか? しかし、それは男と学者、そしてギャルを交えた三人の会話を、式神などを用いこっそり聞いていたとしても不思議ではない、と、勝手に納得する。
(ふっふっふ。ここで真打の登場ですね! WBO期待の新人『異本』鑑定士。このメイリオ・フレースベルグにお任せを!)
黙ったまま得意げに、学者は手を伸ばした。そしてあっけなく、それは彼の手に収まる。
*
結論から言って、学者に『シャンバラ・ダルマ』は扱えなかった。
(なぜだ! この期待の新人! メイリオ・フレースベルグが! 序列十八位すら扱えないとはああぁぁ!!)
一言も発することなくうなだれる。だから脇に打ち捨てられた『シャンバラ』を、丁寧に若者は拾った。
そして、次にギャル。そして、翁。そうやって順に回して、扱えないことを確認。男と女はそれを手にしたときに一度触っているので、扱えないことは確認済み。『異本』の使用可能性は、触れた瞬間にすぐ解るのだ。
だから最後に、若者は執事へと、その『異本』を向けた。
「…………」
向けられたそれを見て、執事は躊躇う。自身の主が、欲した『異本』。それは主が扱うものであるがゆえに、自身で触れることがあろうとは思いもしなかった、そういう、思い入れがあるアイテムだ。
そう、感じて、執事は笑う。いまなら解る。これが、感情だ。人間としての、あるべき姿。そう、執事は理解した。考えるのではなく、感じたことを、受け入れる。
「拝借します」
うやうやしく両手で受け取り、執事は丁重に、ページを繰った。
*
ページを繰るにしたがって、驚愕――というよりは、困惑を浮かべて、執事は顔をしかめた。
「……これは――」
「どうだい? それはきみに、扱えるものだったかな?」
執事の様子に、若者は問うた。危機感のない、柔らかい声音で。
「いいえ、私などには、扱えるものではないようです」
執事は首を振った。だが、だというのにまだ、その『異本』を見つめ続けている。
「……私も、ひとつ、聞きたいことができました」
執事は俯いたまま、言う。「どうぞ」と、端的に若者は促した。少し肩をすくめた、気障な格好で。
「この『異本』――『シャンバラ・ダルマ』。お嬢様が手にしたときと内容が違いますね。とはいえ、完全に別物とも思えない。……あなたですか?」
そこで執事は言葉を切った。だから間が空く。
「さて……どういう意味だろう?」
若者は沈黙の合間を縫うように、そう言った。確信犯のような、ややにやけた表情で。
「私に――私やお嬢様に幻覚を見せたのは、あなたですか? と、そう問うています」
執事はその手に槍を握り、若者の首へ突き付ける。そうしてまっすぐ見据え、言った。
その危機的状況にも若者は動じず、やや俯けた視線で、執事を見つめ返す。
「その推測は正解ではないね。『彩枝垂れ』は世界に着色をする『異本』だ。外部干渉系と呼ばれる部類だね。きみに幻覚を見せるとするなら、認識操作系の『異本』ということになる。これらはまったくの別物だ」
「そうですか。よく、解りました」
言って、執事は槍を振るう。そうして再度、若者の首を斬り刎ねた。大量の血液に推力を得て、その首は美しく飛んだ……ように見えた。
その場の、誰の目にも。
「おい、ナイト!」
「おかしいとは思っていたのですよ。あなたの首は、私が一度、切り刎ねています。分身の可能性も考えましたが、それにしては、血の匂いがしなかった」
男の叫びを無視して、執事は語った。この程度ではまだ、死んでいないはずの若者に向かって。
「やれやれ、ただ問答をしていただけなのに、いきなり首を刎ねるとは、しつけのなっていない飼い犬だ」
首を斬られた若者は空間に融けて消え、その数歩後ろに、同じ姿を現した。相変わらず気障で、余裕綽々の立居姿で。
その姿に、執事は再度、槍を構える。
「おい、ナイト! やめろ! そいつは――」
「理解しています。この場で唯一、『シャンバラ・ダルマ』を扱えるであろう者だとは。そして『シャンバラ』を使わなければ、地球に戻ることはできないということも」
「だったら――」
「ならば!」
男とのやり取りに、執事は声を荒げ、問答無用と言わんばかりに、叫んだ。
「……ならば、もうひとつだけ、正直に答えてもらいましょう」
矛先を震わせ、執事は言う。その返答いかんでは、仮に地球に還れなくなろうとも、若者を殺す勢いで。
「この私に、お嬢様の幻覚など、見せてはいないでしょうね?」
それは、男にほだされていたときに見た幻覚。いつかの令嬢の姿を、幻想の中に見かけた感覚。もしあれすら偽物であったなら、こうして感情を知った執事には、怒りを抑えることはできなさそうだった。
「……さてね。なんの話か解らないが?」
若者は答えた。執事を抑える言葉を。だが、それが嘘か本当かは本人にしか解らない。
「……本当でしょうね? ……氷守さん?」
念のため執事は男にも向き直った。若者は言った。『彩枝垂れ』は外部干渉系であり認識操作系ではない、と。つまり、もしあの幻覚が『彩枝垂れ』によるものだとしたら、執事以外にも見えていたはずなのだ。
「ああ、俺にも見当つかねえ。少なくとも『彩枝垂れ』によるものではないはずだ」
男もそう言った。やはり執事の気を静めるための嘘という可能性もあるが、それでも、そう否定したのだ。
だから、執事は息を吐き、槍を下ろす。
「……いいでしょう。あなたがそう言うなら――」
一瞬、執事は視線も落とした。だから、その瞬間を、見逃した。
「ぐはっ……!!」
若者が、肩から腹部にかけた袈裟切りで、青年に切り裂かれた、その瞬間を。
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