2027年、一月。インド、コルカタ。
世界屈指のメガシティ、その都市部から南下し、屈指の有名な宗教施設、カーリー寺院へ向かう道すがら。お供え物などを販売する露店の脇をくぐり抜け、裏道を進む。ある建物に入り、地下へと歩を進めると、『本の虫』の最後の砦、『女神さまの踊り場』を含む、拠点へと辿り着く。
ここは、『本の虫』が『本の虫』となる前の、前身である組織――というより、もっと規模の小さい、ただの集団であったころの主要な隠れ家。ここを守る主教、タギー・バクルドがもっとも大切にしている『家』である。
たとえそこがいまでは、唐突に現れた『女神さま』に、半ば強引に支配された場所だとしても。
*
「あっははぁ!! さすがはカイラギ・オールドレーン! ボクの筋肉を圧倒するなど、てめえくらいのもんだっ!!」
楽しそうに、ゴリマッチョは言った。武器である三叉戟は放り捨て、肉体ひとつで。
「童! 貴様では某には勝てん! とっととそこを――」
鼻眼鏡を持ち上げる隙に、大男は大きく振りかぶった。これまで以上に筋肉を肥大化し――
「どけいっ!!」
一気に振り降ろす。その、空間を破壊するような一撃に、空気が震え、土埃が舞った。
「はっ……ははははぁ……」
その影から現れるは、そちらも肥大化させた両腕の筋肉をクロスさせ、超威力の一撃を受け切る金髪のゴリマッチョ。ずれた鼻眼鏡から覗いた瞳で大男を見上げ、頭部から流れた血を、舌を伸ばして舐め取る。
「確、かに、……こりゃまだ、ボクの筋肉にも、荷が重い」
「理解したか? なれば、疾く道を開けよ」
「だから、とっとと『異本』を用意しろよ。こっからは力試しじゃあなく、戦闘だ」
大男の腕を振り払い、ゴリマッチョは転がる。そうして距離を取り、放り捨てておいた三叉戟を拾った。
「宝戟、『傘此岸』。筋肉で受けられる代物じゃあないですよぉ?」
鼻眼鏡を持ち上げ、にやりと笑う。
*
「うわっ……ちょちょ……タンマ……」
その、縦横無尽、人間には真似できない奇抜な動きに、パリピは翻弄されていた。
「いけー、エフー!」
「がんばれー! そこだー!」
複数の刃物、鈍器、銃火器等の凶器を振り回す、その命のやり取りに、まだ幼い二人の子どもは、映画のワンシーンのように熱狂していた。
「三対一とかえぐいって! チルする暇も――」
あれ? と、パリピは首を傾げる。件の敵、四方八方から隈なく隙なく攻撃を繰り出す機械が、ふと急に、動きを止めたのだ。
「……な~る」
と、得心する。パリピが立つ位置、攻撃を躱し逃げて偶然、追い込まれた場所は、その部屋のぎりぎり外。別の部屋へ通じる廊下、そこに一歩、足を踏み出したところだった。つまり、あの敵の攻撃は、部屋の中にしか及ばない可能性が高い。
とはいえ、逃げるわけにもいかない。彼女らが受け継いだ『異本』。母であるエルファ・メロディアが扱った、無限に戦闘力を増やすことができるあの強力な一冊を、奪わなければ。
でないと、パリピにも、未来がない。
「ま、時間あるならこっちも、よいしょさせてもらうけどね~」
そう言って、『異本』を取り出す。やや時間がかかるのが難点だが、それでも、発現させてしまえばこちらのもの。
縹色の『異本』、『Gurangatch Fall』。いや、正確には、それを模したもの。そこから、一頭の精霊を生み出す。
「うわー、ワニだよ! ソラ!」
「ほんとだー! ゆらゆらしてるけど、ワニだね! シド!」
その『ワニ』は、地面に潜るように瞬間、姿を消し、再度部屋の中に現れる。すると、パリピを攻撃していた機械が再起動、即座にそのワニを襲った。
しかし、かのワニはその身を切られても、抉られても、すぐにその肉体を再構築する。まるで、流体で形作られているかのように。
「復活した! ズルだ!」
「おばちゃん、仲間呼ぶなんて、ズルだよ!」
「おまいう……」
パリピは子どもたちの勝手な言い草に、小さくぼやいた。
*
「くっそ……! なんでこう、相性悪いのにあたるの!」
何度『グリモワール・キャレ』に閉じ込めても、即座に抜け出されてしまう。そんな、純白のフリフリな衣装に身を包んだ、いい歳のギャルを見て、ロリババアは歯噛みする。
「にゃはは~、魔法少女に不可能なんてにゃいからねぇ」
言いつつも、ギャルは少し冷や汗を流していた。
敵の空想通りに世界を形作れる強力な『異本』。それも、使用者であるロリババアが認識している場所にならどこへでも、唐突に、それを瞬間に生み出すことができる。いくら抜け出せるとはいえ、瞬間、囚われることを避けるのは難しい。
それでいて、徐々に『空想』が洗練されてきている。いまこうして戦闘している部屋と、まったく同じに近付けた空間に囚われれば、すぐにそうとは気付けない。自らの感覚が及ばない死角から絶命の一撃をお見舞いされたら、躱すのも容易ではない。そのどちらをも、繰り返すごとに上達している。こうなると、いつまでも逃げ続けられるとは限らない。
また、地面に突き立てたまま抜こうともしない大斧も不気味である。
「情熱の赤。『フレア・フリル』。〝苛戒熔尽〟!」
「『グリモワール・キャレ』」
ギャルの足元から広がる炎に、それでも、黒い正方形を生み出し、中へ逃げるロリババア。内側から出られない、完全遮断の空間生成。それは逆に、外から内への侵略も遮断する、ある意味、最強の防御。
これではジリ貧だ。ギャルはそう思う。いつか集中力が切れたら、やられる。
いや、『切れる』のは集中力だけではない。魔法少女の魔法も、無制限ではないのだから。
「まったく……ムカつくにゃあ……」
黒い部屋に姿を隠したロリババアに聞こえないことを理解していたから、ギャルはそう、愚痴をこぼす。
そのときだった。
*
「おやおや、騒がしいと思えば、これはどうしたことかな?」
アリス? そう言いながら、彼女は唐突に現れた。それは、広がった炎が鎮まり、『グリモワール・キャレ』からロリババアが外へ出た、その、互いに次の一手を脳内で巡らしている、わずかなクールタイムだった。
「おっと、誰かと思えば、フェリス・オリヴィエじゃないか。初めましてだね」
互いに視線を逸らさないまま、いまだ苛烈を極める戦いの最中に、その、床にまで美しいブロンドの髪を引きずる手弱女は、無防備に割り込み、ロリババアへ向けて、笑みを零す。
「あなたは……いったい……?」
ロリババアは、なぜだか背筋が凍るような感覚に身を震わせながら、なんとか問うた。
「さて。僕がいったい何者なのか。それは僕にとっても永遠の謎なのだよ。……ま、それはともかくさ。『グリモワール・キャレ』を使うのは、やめてもらえるかな?」
「は……?」
なにかを思うまでもなく、疑問をもぶつける前に、ロリババアはその『異本』を、自ら床に落としてしまう。
「彼女は修復としてしか用いていないみたいだけれど、こういうことも、できるんだよ」
「ちょっと、なに言ってるか、解らない」
にこりと笑い、薄く開いた瞼の奥に、沈むように深く輝く群青の瞳。一糸纏わぬゆえに、まじまじと見るまでもなく解る、華奢な体。つまり当然に、武器も、『異本』なども持っているはずがない。
で、あるのに。まるで超能力のように外部への干渉を達成している。なにをした? なにをされた? なにが起きている?
そう、ロリババアは混乱する。その隙に、女神さまは付け入った。
「まあそう怖がらないでよ。ほらおいで? 慰めてあげよう」
そう言って、女神さまは両腕を広げた。肉体だけでなく、心も開いたような。すべてを赦し、すべてを受け入れるような。そんな気持ちを全身で相手に表明するように、まったくの、無防備に。
そんな彼女の胸に、当然と、飛び込んでなど行けるはずもない。そうでなくとも、敵対組織の一員だろう。攻撃を続行すべきだ。いや仮に、彼女を攻撃しないとしても、ギャルとの戦闘は継続しなければならない。で、あるのに――。
「だ~いじょうぶ。だいじょうぶだよ、フェリス。なんにも怖いことなんてないんだから。僕がずっと、君を愛してあげるから。だから、お帰り? 他のふたりもあとで、安心させておくからね?」
自ら寄り、抱き締める。そうして胸に顔を埋めさせ、女神さまは、ロリババアの頭を撫でた。そうして、言い聞かせるように、耳元で語り聞かせる。
自分より一回りも二回りも幼いはずの見た目をした、女神さまに包まれ、ロリババアはぞっとする。全身が粟立つ。あ、……死ぬ。と、そう思ってしまう。理屈ではなく、『死ぬ』、と。
無条件に、理不尽に、こんなにも愛されることが、これほどまでに怖ろしいとは。いや、もしかしたらそんな、理屈付けて理解するなにかではなく、もっと根柢の、原始的ななにか、なのかもしれないが。
意識が、薄れた。その瞼は閉じ、視界は暗転する。かすかに機能を残す耳が、まだ、彼女の声を聞いていた。
「じゃあ、アリス。フェリスを送ってあげてもらえるかい? 僕はさっさと、ヤフユのところに戻りたいんだ」
拗ねたような口調。まるで人間のような。
え、あれ? だとしたら、彼女は人間では、ないというの? そう、ロリババアは自問する。自身の疑問へ、詰問する。
――きっと、もうどこかへ飛ばされた。だから、気持ちの悪い思考をすべて、忘れてしまいたくて、それを有形の方法で、嘔吐する。
――――――――
女神さまは小一時間ほどでその場を平定し、自らのいるべき場所へ戻る。
白亜の扉。その先、『女神さまの踊り場』。『本の虫』を新興宗教団体と表すとしたら、その、信仰対象とも呼べる存在。崇まれ、奉られ、信心される者。
ニグレド・エーテルエンド・レイ・クロウリー。
その偶像は、そのように名付けられている。だがその真名は、誰も知らない。
「待たせたね、ヤフユ」
「レイ……!」
扉を開け、部屋に入るなり、紳士は跳び上がり、駆け寄った。まだその扉を閉めるより以前に。
そうして自然と、大切そうに抱き寄せる。決して傷付けぬように、それでいて、その感情を伝えるための、必要十分な力強さで。もう、二度と離したくないと、言葉よりも強い方法で伝えるように。
「……よしよし、だいじょうぶだよ、ヤフユ。僕はここにいるからね」
うふふ……。と、笑みを零す。自分より高く、がっしりとした肉体に抱き留められていようと、女神さまは、彼の背と後頭部にその細い腕を伸ばし、あやすように撫で付ける。もはや『子をあやす』という次元ですらない。愛玩動物を愛でるような、遥かなる高みから。
「この地を侵す不届き者がいるのでしたら、今後はわたしが。あなたが――あなたにもしものことがあったら……、わたしはどうすれば……!」
名残惜しそうに体を離し、それでも強く両肩を掴んだままに、紳士はそう言った。いまにも泣きそうに、胸を掻き毟りそうに苦しい表情を浮かべて。
「もう、だいじょうぶだよ、ヤフユ。僕の愛する彼らが、僕に危害を加えるわけないんだから」
「……しかし――」
辛そうな表情を曇らせ、紳士は俯く。なにか、ばつの悪いような。
だから女神さまは見透かして、うふふ、と、嬉しそうな笑みを浮かべる。
「僕と離れるのが辛かったのかい? それに、僕が、他の誰かを愛するのが気に喰わない?」
楽しそうないたずら顔で、指先を彼の頬に這わせながら、女神さまは紳士を見上げ、詰問する。
「……意地悪はやめてくれ」
それだけをかろうじて、吐き出す。それがどんなに自分本位な感情であるのか、そのことを彼は、ちゃんと理解できていたから。
だから、そんな彼を慰めるように、今度は女神さまから、彼を、抱き寄せる。彼に上半身を折らせて、自らの胸に、埋めさせて、安心させて。
「嬉しいよ、ヤフユ。君に愛されて、僕は幸せだ。……そして安心してほしい。僕が世界で一番愛しているのは、君だからね」
よしよし。と、頭を撫でる。その屈んだ頭部を見下して、女神さまは、意地悪く真実を伝えることとした。
まだ半日ほど早いが、その未来は確定した。もうこの段階で言ってしまっても、嘘にはならないだろう。
「そういえば、彼女が氷の檻から解放されたようだ」
「彼女?」
紳士は少し身をよじり、女神さまを見上げた。自身のものとはまた違った色合いの、サファイアのような群青の瞳を、見据える。
「ノラ・ヴィートエントゥーセン」
「ノラ……」
女神さまの言葉を掬い上げる。彼女の美声に揺らされる大気にすら、嫉妬して。
「……誰でしたっけ? それ」
――うふふ。と、女神さまは笑う。
白亜の世界を隔てる扉が、重厚に、閉じた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!