箱庭物語

776冊の『異本』を集める旅路
晴羽照尊
晴羽照尊

普通じゃない!

公開日時: 2023年1月20日(金) 18:00
文字数:3,000

 過去。――であるらしい映像が、瞬間でフラッシュバックした。それを見て、パリピは、その件につき思考する――ふりをして、その思考するふりを、やめた。

『思考』なんて、もはやこの身体には――精神には、ない。死んだ――一度、死んだ身だ。そこに無理矢理あてはめたこの自我は、この身体の持ち主のものとは、ひどく違っている。


Logログ Enigmaエニグマ』。死者蘇生の『異本』。それは、死んだ生命を蘇らせるのもの。元の人格を、魂を、現世こちらに呼び戻すことはできなかった。

 それを扱った若人が、『異本』が当時、彼の手にあれば、こんな出来損ないにはならなかった。


 本当に、うちは、落ちこぼれだ。そんな益体のないことを、思う。自我などないのに、あるように振る舞う自分に、苦笑する。その苦笑する精神すら、はりぼてでしかないけれど。


「なんもないけど、せめて――」


 八つ当たりだ、そう思う。――思う? 思うって、なんだ?

 自虐して、苦笑する。


「全部忘れるくらい、暴れてやる」


 幸い、蘇生した人体は、暴れるにはうってつけだ。脳のリミッターを外した身体は、痛みを感じない。体力という概念もなく、無限に身体を動かせる。その筋肉は、それ以上の成長こそしないものの、限界まで酷使できる。


 人類を越えた膂力を、発揮できる。


「悪いけど、このもやもやの、捌け口になってもらうよ!」


 加減を外した力いっぱいに、跳躍し、拳を、掲げる。


 なぜ、唐突にこの身体の記憶を思い出したのかは解らない。だが、そんなもの、いまさら想起したとて、意味がない。それを思うべき心が、もうどこにも、ないのだから。

 だから、苛立つ。自分というものすらない、わけの解らない、ゾンビのような存在だけれど、そんな自分にはもはや関係ない、身体の持ち主の記憶が、邪魔でしかない。


 こんなもの見せられても、うっとうしいだけだ。だから、頭をからっぽにして、八つ当たりの拳を、振り下ろすのだ。


        *


 人体を越えた跳躍と拳に、麗人は目を細めた。

 死ぬなあ。と、他人事のように思う。


 あんなの、死ぬなあ、と。


「受けちゃダメ。……普通に受けたら、死んじゃう」


 口の中に留め置くような声で、小さく言い聞かす。

 こういうときは、『普通』、どうする?


「『普通』に――」


 自問する内心へ、その、回答を向ける。

 降りかかるパリピの拳に触れ、力を受け止める――のではなく、その力に逆らわないように――


「受け流す!」


 力の流れに相乗して力を加え、そのまま床へ、叩きつけた。


「……あれ?」


 パリピは、瞬間、首を傾げた。

 痛くはない。痛みなど感じない身体だ。だが、見えている視覚情報は、想定していたものとは、やけに違っていた。


 叩きつけられている。そのまま如才なく、腕を捻られている。肩を押さえつけられ、無理に動かせば、簡単に関節は外されるし、骨も折られるだろう。


 まあ、とはいえ。


「痛くも痒くも、ないんだけど、ねっ!」


 無理矢理動いて、当然と、肩は外され、腕の骨は折れた。

 それでも、痛みはない。普通の人体なら動かせないレベルで損傷しても、まだ筋肉は生きている。その筋力だけで、まだまだ腕は、動く。


 だがそこは、十全と動く逆の腕で、次なる攻撃を仕掛けた。


『普通』でしかない麗人には、あまりに虚を突かれる攻撃だろう。腕を捻り押さえつけた段階で、相手が動くとは――動けるとは思いもしないだろうし、仮に動こうと、『普通』なら痛みで委縮する。そのはずだから。


「大丈夫。まだ、『普通』」


 しかし、パリピの想定とは違う、冷静すぎる表情で、麗人は構えていた。まるでこの程度、容易に想定していたかのように。

 虚を突いたはずの拳は、最小限の動きで躱され、麗人の首の、わずか横を、掠めた。麗人はその腕を掴み、やはりパリピの力そのものを利用して、そのまま背負い投げる。


「かっ――」


 痛くも、苦しくもない。だが、受け身もとれずに叩きつけられた身体から――肺の中から、空気が強制的に、吐き出された。瞬間、意識が、飛びかける。


「少しだけ、たぶん、痛いです」


 わずかに曇った視界に、麗人が映る。その華奢な体の力を、全身を使って思い切り、その掲げた拳に集約させている。


 こいつ、人体の使い方を、知っている――。そう、パリピは思った。


「ちょ……タンマ――」


 こいつは……こいつは――


「大丈夫です。これくらい、『普通』ですから」


 ゴ――、と、頬骨の折れる音を、パリピは聞いた。


 こいつは、『――!


 ――――――――


「護身術?」


 少女が、いぶかしむようにそう、問い質した。


「うん。『普通』の範囲内でいいんだけど」


 麗人は言う。わすかに、後ろめたそうに。


「いいけど……どうしたの、急に」


「電車通勤が怖くて。ほら、痴漢とか」


 時は、麗人がWBOに勤め始めたころ。フランス、パリ。WBO最重要施設、『世界樹』に通い始めたころだ。その通勤には、電車を用いることが『普通』だった。どうやらそれが原因で、痴漢対策に護身術を学びたいらしい。


「痴漢されたの? とっちめてやりましょうか?」


「されてないされてない。というか、されてからじゃ遅いでしょ」


「まあ、そりゃそうね」


 相変わらず、微妙に変ね、この子。そう少女は思うが、そんなことは口にしない。

 だって彼女は、『普通』でいたいみたいだから。


「じゃあまあ、触られたときの簡単な対処とか、いくつか――」


「んー、ていうかね」


 説明を開始しようとした少女の言葉を止めて、麗人はとぼけたように、口元に人差し指を当てた。


「ある程度、本格的にやりたいの。痴漢もそうだけど、それ以外にも、そのもの護身のために、少しは強くないと」


「…………」


 少女は、麗人を見る。あまり『家族』を疑いたくはないけれど、その『力』は、なにか、どこかへ向ける予定でもあるのではないか。そう思って、普段はあんまりしないのだけれど、『家族』の――麗人の心を、少し推し量ってみる。少女の持つ慧眼で。彼女の心を、覗き見る。

 が、どうやら杞憂だった。本当に麗人は、護身術として、そこそこの力をつけたい様子だ。彼女の頭にあるのは、具体的な力の矛先ではなく、ただただ漠然とした、突発的被害への恐怖。


 だが、だからこそ腑に落ちない。『普通』、一般的な日常を送る女性は、そんなことまで気にしない。それほどまでの生活への恐怖を、どうやら麗人は抱えているようだった。極端な話、もしいま隕石でも降ってきたら、どう対処するか。そんな突拍子のないことを彼女は、怖れているのだ。

 それでいて、『普通』でいたい――『普通』になりたいなんて、歪んでいる。そう、少女は思う。しかし、麗人は、しごく真剣だ。ならば、自分が口を出すべきことではない。そう、少女は、言葉を噤む。


「まあ、いいけど。人体構造から、一般的な武術、それから――」


「あ、でも、『普通』の範囲内でね?」


 彼女の『普通』へのこだわりは、異常だ。少女はなかば呆れながら、そう思った。


「はいはい、解ってるわ」


 嘆息して、少女は言った。

 まあどうせ、そもそもが『普通』じゃない麗人だ。麗人に限らず、この世に『普通』などというものは、少なくとも、普遍的概念としては存在しない。であれば、彼女が満足する程度の『普通』を、叩きこんでやろう。

 そのように、少女は思った。


 その結果はといえば――いくらひねくれた者が色眼鏡をかけて見ても、もはや『普通』と呼ぶには、逸脱しすぎてしまった麗人が、できあがってしまっていた。



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