2027年、二月。グリーンランド、ヌーク。
草木も凍えるこの地がグリーンを冠するとは、不思議に思ったことがある読者も多いだろう。これは、この地を発見したヴァイキング、『赤毛のエイリーク』が入植者を募るためにあえて、緑が多いことをアピールしたゆえの命名であった、という説がある。もちろん、実際には極北の大地だ。緑が多いなどということはなかっただろうというのが一般的ではある。
が、実のところこの命名は、妥当なものだったという説もある。現在でこそ土地の八割までもが氷に覆われるグリーンランドだが、『赤毛のエイリーク』がこの地を発見した十世紀末ごろでは、少なくともいまより温暖で、夏であれば十分に緑に覆われていた可能性が示唆されている。
まあもちろん、二十一世紀の現在、そこはほとんど、氷の大地なのであるが。
「っつうここすら、一世紀もすりゃあ名前通りの、緑の大地になるかもしれねえってンだから、つくづく業が深えよ。人間ってやつァ」
がたがたの諸手を左右に広げて、狂人は言った。ぼろぼろの布切れを適当に纏っているだけで、ほとんど防寒がされていない。にもかかわらず、微塵も体を震わせずに。むしろ、ぎらぎらと双眸を煌めかせて。
「我が知っている限りでも、たしかにこの地はかようであった。そして、人々の営みもつくづく、貴殿の言う通りであろう」
雪原に紛れるような灰色の肌をした『彼』は、表情をわずかにも揺るがせず、そう答えた。『彼』もまた、特段の厚着などしていないのに、やはり特段に、凍えている様子がない。きりっとしたタキシードを身にまとい、執事のようである。しかし、その正装でありながら、眼前の狂人と同じように、大地に胡坐をかき腰を落ち着け、雑談に興じているのはいささかシュールでもあった。
「しかし、捨てたものでもあるまい。いかなる生物であろうと過ちは犯す。その中でも人間は、他のどの生物より罪深い。だが、それでいて、何者よりも正しくあろうと、改心し続けている」
やはり、感情のこもっていない、無表情での言葉だ。それでも、狂人はその言葉に、熱を感じる。
だからこそ、「はっ」と、狂人はそれらを吐き捨てた。
「後から悔やンでも遅えンだよ。殺してからそいつの、世界への影響力を推し量ってどうする? そいつを殺しゃ、世界はこう変わる。解ってなきゃァ、殺しなンてコスパの悪ぃこと、俺ァやってねえ」
「以前から気付いてはいたが、貴殿はマイナス思考が過ぎるな」
「俺の思考がマイナスなンじゃねえ。人間の存在自体がマイナスなンだよ」
「それは、視点をどこに置くかで変わることだ。人ひとりの命は、地球よりも重い――」
「っつう思想もある。……だろ?」
傷だらけで――しかも相当な大怪我――ところどころ毛髪の途切れた頭を、さらに破壊するように加減なく、ガシガシと掻き乱し、やはり吐き捨てるように狂人は言葉を先取りした。「はあ……」、と、吐血するような荒い息をひとつ、つく。
「俺は俺でたいがいマイナス思考だが、てめえはてめえでたいがい、プラス思考だな」
「ネロ・ベオリオント・カッツェンタ」
狂人の名を呼び、『彼』は、目を細める。わずかであれど、『彼』の表情が動いた、貴重な場面だった。
「ああン?」
と、威圧的に応答する。いまさらだけれど、狂人は常に殺意をぶつけ続けているのだが、どうやら『彼』は意にも介していない風であった。
「我々は人間だ。仮にどうなろうと――こうなろうと、そうなろうと、それは変わらん」
指さすこともせず、視線を向けるでもない。それでも、言葉の響きから、己と、相手を示唆して、語調を変えもしないのに、そう、『彼』は言った。
四百年余を生きる、オニナラタケの細胞――極玉をその身に宿す、己でも。
数多の生命を奪い、身体的にも、精神的にも、極限を超えるまでに酷使し、使い古し、鍛え上げた、狂人であろうと。
それでも我らは、人間だ、と。そう、言ったのである。
「……人間が、人間を拒絶するのは――」
「みなまで言わなくていいンだよ。……解ってっから」
そうは言うが、狂人は、なにも解ってなどいない。ただ、苛立つ。……苛立つ、ということに、顔をしかめる。
他人を憎むなら、それはいいだろう。自分を恥じるでも、それもいい。だが、彼は、あらゆる人間に絶望していたのだ。
たしかに、生きていて、有益な人間もごまんといるだろう。だが、総じて、人間というものは罪深い。業が、深い。愚かで、醜く、世界の足枷にしかなっていない。
だから、すべての人間には、生きる価値などない。それでも、せめて、被害を最小限に。そう、狂人は思って、やってきた。せめて死ぬのは、死ぬことで、世界を好転させうる数人――数十人――数百人程度でいいと。
それらを殺して。最後に、最も害悪な自分が死ねば、世界は、多少良くなる。そう思って、あらゆる所業を行ってきた。自らにできる精いっぱいを、やってきた。
だが、そこには、無意識ながらに人間への信頼も、多少は含まれていたのだ。信頼というよりは、期待か。いや、そこまでポジティブで前向きなものではないだろう。ならば、やはり、諦めきれないだけ、と言うべきか。人間は人間である限り、その可能性を、捨てきれはしないと、そういうことなのだろう。
もし狂人が人間に、本当に絶望していたら、殺す人間を選んだりなどせず、目につくすべてを、殺し尽くしていただろう。その身が滅びるまで、でき得る限りを道連れに――そして、とうに彼は、死んでいただろう。
「……さて、と」
思考の隅で、またもなにか、『彼』が言葉を紡ごうとした。その様子を感じ取ったから、狂人は立ち上がる。
これ以上言葉を交わせば、無抵抗に殺される。そう、狂人は敏感に、感じ取ったから。
「休憩はこンくらいにして、……再開すっか」
ゴキ……ゴキ……。と、首と、腕を回し、鳴らす。はたして、正しいだろうか? そう瞬間、思案するが、答えを得られないままにそっと、捨て置く。
その判断は、過去の自分に委ねた。俺が信じて決めた敵だ。いまの俺は、それをただ、実行すればいい。
それで世界は、必ず変わる。
「いいだろう。ここに貴殿を留め置けるなら、我は幾度とて、その拳を受け止める」
狂人に倣い、立ち上がって、『彼』は構えた。言うほど、余裕はない。
オニナラタケの極玉――世界に伸ばした『菌糸』は、すでに『彼』から切れている。それが繋がっている限り、『彼』は無限に近い、力と知識を吸い上げることができた。だが、もう体内に残ったそれらも、枯渇している。
そのうえ、相手は希代の殺人鬼だ。戦闘技術こそ未熟だが、それを補って余りある、強靭な肉体と、しなやかな体躯、そして、驚異的な学習能力を持ち合わせている。回を増すごとに、徐々に動きは最適化され、自らの域にまで到達しようと迫ってくる。きっと、そう遠くない未来で、自分は負けるだろう。
そう、『彼』は未来を視ていた。
だから、その前に――。
「ここが、世界の極点だ。互いに、もてるすべてでもって、世界を、変えよう」
急げ、時代の寵児たちよ。と、そう、『彼』は、思った。
――――――――
シャァン! と、鈴が鳴った。
突き立てるは、黄金の杖。その上部についている鈴が、煌びやかに、鳴った。
「腹立たしい。腹立たしい。腹立たしい……」
その顔が歪むのは、寒さのせいではない。その寒さすら跳ね除けるほどの、強い、怒りだ。
「世界が。人間が。身共自身が。実に実に、腹立たしい!」
強く強く、杖を突き立て、鈴を鳴らす。逆の手には、漆塗りの扇を持ち、自らの太ももに打ち付ける。耳に障る音も、打ち付ける痛みも、ないと、気がおかしくなりそうだった。
それほどまでに、憤慨していた。
己が不甲斐なさに。弱さに。努力の、足りなさに。
「努力が。努力が。努力が。……足りない!」
凍り付いた雪原を、進む。逸る気持ちを抑え、一歩一歩。踏み躙るように、前進する。
目前で催されている、神威のごとき、闘争へ。
金属のこすれる音がして、黄金の杖は、ふたつの姿に分かれた。刀と、鞘のごとき、威容に。
それらを、ぐっ、と、青年は握る。
灰色の衣を纏い、灰色の髪を振り乱す、全身ぼろぼろな、狂人。
灰色の肌をした、長身の、執事のような服装をした『神』。
彼らに切っ先を向けて、その間に、割り込む。
「努力を、続ける」
氷の大地を踏み割り、同様に、表情をも軋ませ、青年は、進んだ。
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