『ドールズ・フロンティア』。
西暦2000年。20世紀の終焉を飾るこの記念すべき年に、その『異本』は完成した。製作期間、十三年十一か月。これはある芸術家の、終生を飾る、作品だ。
その大きさ、縦約4.3フィート、横約4フィート、厚さ約2フィート、重量約125ポンドもの、仕掛け絵本である。ページを開けば、中からは一体の人形が立ち上がる。ユナと呼ばれるこのドールが、不思議な世界を、100ページ弱ものあいだ旅して廻る。それが、この、仕掛け絵本の内容だ。
一般的な仕掛け絵本のように、ページを繰るごとに動植物や建造物が立ち上がり、物語を前へ進める。だが、もちろんただのでかい仕掛け絵本などではない。1ページごとに、作者である芸術家の、丹精を込めた作品が、所狭しと散りばめられている。それらが、まるで生きているかのように、仕掛けを作動させることで動き出し、物語に彩りを添えるのだ。
物語の中盤からは、ユナ以外のドールも現れる。そして彼らとユナとのかかわりこそが、この物語の主軸となる。
それにしても、たしかに巨大な書籍だが、最長2フィートほどの体長をもつドールたちを複数内包し、かつ、数々の仕掛けも施されているとは、文字通り、中身が詰まっている。その大きさも見せかけではない、ということだ。作者は、必要に迫られて、これだけの巨大な作品を描いたのである。
さて、この『異本』、『ドールズ・フロンティア』。その性能は、『空間作成』と『空間転移』だ。かなり毛色は違うが、男の持つ、『箱庭図書館』に近しい。
その本の内側に、その物語に沿った世界を形成し、その内に入ることができる。中に入った者は、ユナたちが紡ぐ物語を、追体験できることだろうし、あるいは、ストーリーを捻じ曲げ、まったく違う結末へと導くこともできるはずだ。
もしくは、ユナたちドールを外の――人間が生きる世界に持ち出してくることも可能。彼女らは物語の中にいるように、意思を持ち、自我を持ち、人々の紡ぐ物語へ干渉するだろう。これはそういう、『異本』である。
が、まあ、先にネタばらししておくと、今回、この『異本』は用いられることはない。あくまでこの物語は、それを手にするまでの、羽休めなのだから。
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そのカジノには、五十人ほどの参加者が集まっていた。とはいっても、どうやら本来の収容人数は千人以上ほどであろう大ホールだ、人々はまばらで、どのような者たちが集っているかは判別しにくい。
近隣の有名ホテルと比べれば、比較的小ぶりなホテル。悪い言い方をすれば、『その程度の』カジノホールでありながら、どうやらみな着飾っている。もしかしたら一般にイメージされているのではないかと思う、煌びやかで派手に着飾るようなドレスコードは、意外とラスベガスカジノには少ない。どちらかというとこの地域は、世界的にはカジュアルな方である。が、この日、このカジノに集まる者たちは、やけに着飾っていた。
というのも、今回は普段の営業と違い、特別なイベントが催されるからである。それが、膨大な参加料を必要とする、ごく限られたセレブのみが集う、本日のカジノイベントであったからだ。
その参加料、実に、ひとり十万ドル。日本円にして、一千万円以上にもなる、超高金額だ。それゆえに、誰もが着飾っているのだろう。特段のドレスコードの指定こそなかったが、まあ、上流階級のたしなみと呼ぶべきものなのかもしれない。
かくいう男たちも、やはり着飾っていた。まあ男性は、上質な黒のタキシードや燕尾服を着ておけば問題ない。ゆえに、男は、普段通りの黒のスーツ姿だった。だが、それはメイドの手製とはいえ、その素材は一級品であるし、縫製の完成度も申し分なかった。入り口でも引き止められはしなかったし、問題はないようである。もちろん、古ぼけたいつものコートは客室に置いてきた。また、ボルサリーノも当然、着用していない。こちらはドレスコードの問題もさることながら、カジノにおいては、イカサマ防止のために、帽子やマスク、サングラスなどの着用が、基本的に禁じられているからである。
そんな男の隣に並び立つ女傑は、シャンパンゴールドのイブニングドレスだ。全身をタイトに包むワンピースタイプのドレスで、胸元は大きく開いている。いや、たしかに服の構造として胸元は開いているのだが、彼女の場合、それを内側の脂肪が押し広げて、さらに露出度の高い外観に変貌させてしまっていた。身なりになおざりな印象を与えてしまう普段の蓬髪は、さすがにサロンで整えてからやってきた。それでも、どうしてもぴょこんと跳ねるアホ毛は、なくならなかったけれども。
おずおずと、やや影に隠れながら、男の手を握り、着いてくる幼女は、女傑とは対照的に、濃紺の地味な色合いをした、露出の少ないワンピースドレスだった。胸元どころか首回りまで覆うハイネックで、かつ、袖も長く、腕全体も肌を隠している。ワンピースの裾こそ膝を覆う程度だが、やや淡いブルーのストッキングも履いているので、やはり肌色は乏しかった。全体的に青に統一した服装は、彼女のスカイブルーの髪色によく似合っている。
ちなみに、基本的にカジノは、二十一歳未満の入場を禁止しているが、今宵は特別イベントということで、十三歳未満は参加不可、とまで、引き下げられている。これもあくまで『ゲームへの参加不可』であり、子連れでの入場自体は可能だ。この時点で、幼女は十四歳であり正式に参加者だが、この後紹介する男の子は七歳になったばかりであり、男の同伴者という扱いになっている。
その男の子は、年齢的にも幼いし、また、男性でもあるので、特段に特徴のない、普通のタキシード姿である。黒色人種の肌。短く刈り揃えてある黒髪。なにより達観したしかつめらしい顔付きは子どもらしくなく、不遜に立つ姿は、服装も相まって、まるで、あまりに小柄な成人男性のようにも見えた。
こうして、今回は四人パーティーでのイベント参加である。前述の通り、参加料はひとり十万ドル。だが、男の子は同伴であり、お金はかかっていない。また、女傑だけは、個人的なコネクション経由で参加権を譲り受けている。ゆえに、男が負担した金額は、自身の分と、幼女の分で二十万ドル。それは、彼が残していた総資産の、半分以上を占めた。ゆえに、たしかに彼は、もういい加減、『すっからかん』なのである。世界を巡るにも、金が必要だ。さらには『異本』を譲り受けるにも、金は持っているに越したことはない。
だが、たしかにそろそろ『異本』蒐集も佳境である。それさえ達成できるなら、無一文になろうとも頓着しない。それが、男の思考だった。
――そうだ。彼は、未来を視ていなかった。たとえ『異本』をすべて集め、封印できたとしても、まだ人生が続くことを、想定していなかったのである。
*
さて、主催者や協賛各人の挨拶も済み、カジノイベントの始まりだ。このイベントの流れはシンプル。
ひとつ。参加者にはそれぞれ、100枚ずつのチップが配られる。これはこの日準備された、すべてのカジノゲーム共通の掛け金となる。
ふたつ。このイベントには景品が多数用意されており、それをギャンブルで増減したチップと引き換えることができる。
以上だ。実に単純明快。
参加者はそれぞれ、思い思いの景品を目的に、チップを増やすためギャンブルに挑む。なお、余ったチップも、1枚から交換できる景品もあるため、無駄にはならない。また、景品以外に、たとえば現金などに換金はできない。主催者側も参加料をすでに徴収しているので、特段、ゲームにて収益を得ることはできない。ただし、仮に主催者側が勝ち続ければ参加者のチップを減らすことに繋がるので、景品を渡さずに済むという利点はあろう。
また、景品は十分な数の用意があるが、もしなくなってしまってもノークレームとなっている。先んじてこれらイベントのルールや、あるいは用意されたゲームの詳細なルール、景品の目録などは送達されており、参加者はみな、これに同意した者ばかりだ。
そして、男たちの目的とする『異本』、『ドールズ・フロンティア』は、チップ400枚での交換となっていた。目録の中では中くらいの枚数設定である。
つまり、彼らは各々持つチップ100枚を、4倍までにギャンブルで増やさねばならない、ということだった。
「さて、じゃあ、まあ、各人、適当にばらけるか」
男が言った。その言葉に女傑は、「ほな」と、さらっと後ろ手を振って、とっとと行ってしまった。心なしかうきうきしているように、男からは見えた。
「おまえはどうする? クロ」
少しためらいがちに、男は、男の子に問うた。
「おれのことは気にするな。適当に見て回る」
なんかあったら呼んでくれ。と、彼も後ろ手を振って、歩いて行った。スマートフォンの番号は登録済みである。
「パパぁ……」
しかし、幼女は男のもとを離れなかった。スーツの袖を掴み、うつむきがちに上目を向ける。
「なにすればいいか、解んない」
幼女は言った。男は瞬間、なにを言っているのか解らなかった。
「……おまえ、まさかゲームのルール、読んでないのか?」
主催者から送付されたルールブックに目を通すように言っておいたはずなのだが。そう、男はいぶかしむ。
「なんとなくなら解るけど。いざ参加しようと思ったら、細かなルールが覚えきれてない気がして……」
不安げである。まあ、気持ちは解る。そう、男も思った。
正直、男も細かい点は曖昧だ。しかし、その点はディーラーがサポートしてくれるだろう。そう軽く考えていたのだ。それに、男は最初から、自分が参加するゲームを決めていた。多種多様なゲームが用意されているが、その中でもプレイヤー側が勝ちやすいゲームを選択し、一点集中しようと決めていたのだ。
ゆえに、そのゲームに関してはしっかりとルールを読み込んでいる。それでも細かなところはやはり曖昧だが、それなりにプレイできるくらいには自信をつけていた。
男はそれなりに、足りない点は恥をかいてでも確認し、とにかくぶっつけ本番でゲームに興じる覚悟をしてきたが、幼女はその点、失敗を恐れている気持ちがあるのだろう。このようなセレブが集う社交場ではなおのこと、気後れする気持ちも、理解できた。
「なら、簡単なゲームでもやってみるか? ほら、スロットマシンなら、誰に気兼ねすることなく――」
言いつつ、男はスロットマシンの並ぶ区域に、目を向ける。
「うん?」
そこには、なんだか見たことある姿の、何者かが、いた。
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