2027年、一月。インド、コルカタ。
現存最後の『本の虫』の施設。
「主教! どういうことだ!」
大男が叫ぶ。本人は確かに、ある程度、声は荒げたが、叫んだという意識はなかったにしても、とてもうるさい。
「どうもこうも、そういうことです」
そのスキンヘッドの僧侶は、頭を抱えてそう言った。頭を抱えたのは癖である。特段、今回の一件が悩ましいことであったというわけではない。
「彼の来訪は、ともすれば『本の虫』の窮状を打破できるものとなるかもしれません。カイラギさん。あなたが彼を、裏切り者のように思っていることは知っていますが、それゆえに、共通の敵がいるうちは、手を組むべきです」
裏切る、という行為は、それ以前の信頼あってのことだ。そういうニュアンスで、僧侶は言った。
しかし、おそらくそんな機微は伝わっていない。大男は見た目通りの脳筋だ。ゆえに、実にストレートに、自らの感情に流される。
「それに、『女神さま』が不思議なほど、興味をお持ちのようでしてね。それだけでも、彼らを招く理由にはなる」
「『女神さま』だと? いつまであんな者をのさばらせておくつもりだ! 主教!」
「口を慎んでください!」
やけに強く、僧侶は叫んだ。
「……少なくとも、この場ではね。カイラギさん。信仰心などなくとも、あの方はなんとも思いません。しかし、敵対心には相応に、その御手が――神罰が下されますよ」
「それが、どうした?」
怒りで体を震わせ、髪を持ち上げ、体を上気させながら、大男はそれでもなんとか、尊敬する僧侶の顔を立て、言葉で問い質した。
「どうした? ですか。……そうですね。……私はね、カイラギさん。みなが平穏無事に、生きていてくれればそれでいいんです。虐げられず、飢えることなく、痛みに苛まれず。幸せでなくとも順当に、普通に生きながらえてくれれば、それで」
グググ――。と、はちきれんばかりに、大男は両腕を握り、膨張させた。シンプルな性格だからこそ、僧侶の言葉を素直に受け入れるから、自らを抑え込むしかない。溜めて、溜めて。溜まっていく。いつか爆発する、火山のように。
*
「荒れてるねぇ、レンレンはぁ☆」
ギャルが言った。ウイスキーを傾けて――少し酔っている。緊張感がないのか、なぜだか彼女は、緊迫した場面でこそおちゃらけている。
「エルファのこともありますしね。ラオロン翁のことも。……もう初期からいるのは、我々だけですか」
寂しそうに、僧侶は遠い目をした。
「解んねえ話してないで、未来の話をしましょうよ、ハゲさん」
優男が言った。この場では唯一、『初期勢』ではない身として、居心地悪そうに。
「ハゲじゃないんですよ、これ、スキンヘッドっていうんですけどね……」
気落ちしていた。突っ込みにも、いつもの迫力がない。それでもわずかに、冗談めかしている。
「アリス、あなた、今回どうするつもりなんです?」
そのしょぼくれたまま、僧侶は酔っぱらったギャルに視線を向けた。僧侶とて、彼を招くことに、まったくの無警戒というわけではない。旧知の間柄とはいえ、一度は袂を分かったのだから。
問われたギャルは「んううぅ?」と、上気した頬を艶めかしく揺らして、その視線に相対する。僧侶と同じように、テーブルに上体を預けて。
「あたしはぁ、いまも昔も変わらないよぉ。彼の――」
「それはつまり、裏切るってことで、いいんですよね。アリス」
言葉を勝手に脚色して、優男は割り込んだ。
「辛辣! 意地悪! ゼノりんのば~か! あんたの髪型、前からきらいだったんだ、にゃ~!」
鋭く尖らせた指先を向け威嚇して、ギャルは犬歯を剥き出した。冗談のような怒りだったのは確かだけれど、冗談だからこそ優男はカチンとくる。冗談を言っている場合ではないのだから。
「はあ? 格好いいでしょうが、この髪型! 毎日どんだけケアしてると思ってんすか!」
とはいえ、真面目に抗議しても馬鹿らしい。優男は冗談に冗談で返して、ケンカの様相を継続した。
「毛先整い過ぎてキモいんだよぉ! ヅラ? ねえそれヅラ? 実はそれ取ったらハゲてるんじゃないの~?w」
「てっめえ! 言っちゃいけないことを言いましたね!? ハゲじゃなくてスキンヘッドなんですよ!!」
なぜだか僧侶の頭を掴んで、ギャルの方へ向けた。上司であるはずの彼の頭を、灰皿でも投げつけるように。
「ふごーーーーっ! ハゲで遊ぶなぁぁぁぁ!!」
優男の投擲に合わせて、あえてギャルへ向け僧侶は頭突きをかました。しかし、身軽にギャルは翻り、華麗にそれを躱す。右手にウイスキーの入ったグラス、左手にウイスキーの瓶を持っていながら、身軽に。そしてグラスに入った氷を鳴らし、一口咀嚼する。
そのままどっかにバランスを崩したまま、僧侶は飛んで行った。その騒音と、地に伏した彼の姿に、優男とギャルは腰を落ち着け、着席する。怒りだかなんだかよく解らないものも、いったん置いておくことにして。
*
はあ。と、ため息。して、優男は腕を組んだ。
「……私には事情はよく解らないんですがね。その、『女神さま』にご助力いただくわけには、いかないんですか?」
自分ですっ飛ばしておいて、手も貸さず、ただ優男は僧侶へ、声だけ向けた。
「『女神さま』は、『本の虫』の活動には無頓着ですからね。お耳に入れるだけでもおこがましい。それに――」
「いいよ?」
ふと、僧侶が身を起こし、テーブルを見ると、彼女は、いた。
「にゃっ!?」「はっ!?」
いま気付いたように――事実、いま気付いて、ギャルと優男も、遅ればせながら、彼女を見る。すぐ隣にいたというのに、いったい、いつ?――いつから?
そこに、『女神さま』が?
「今度のお客様は、僕の客でもあるからね。よろこんで手を貸そう」
テーブルの中央にあるグラスに、うんと手を伸ばし、その細腕は掴んだ。それをテーブルに置き、さらに細い指先で、つんと押す。それはほんのわずかに、ギャルの元へ向けられた。
意図を汲み取り、ギャルはウイスキーを注ぐ。残念ながら氷は、少し離れた位置の冷蔵庫まで行かなければいけないので、あえて入れたりはしない。それでもそれで満足したように、女神さまはそれを、また指先で自分の元へ引き寄せた。
「あなたが……『女神さま』?」
初見だった優男は、得も言われぬ不気味さに粟立ちながら、問うた。
「やあ、ゼノ・クリスラッド。初めまして」
質問には答えていないが、彼女はそう言い、液体の入ったグラスを持ち上げた。天にかざすように。その液体の輝きを、見つめるように。
狐に、抓まれたようだ。そう優男は眉をしかめる。確かに、不意に現れたり、その居住まいにはただならぬものを感じる。だが、不健康とは言わないが、細身で、とても戦えるようには見えない。全裸で、確かに『異本』等の特別なアイテムを持っていないのは当然だが、その点に関しては常に持ち歩いていないだけというだけで、どこかに保管してある可能性もある。だが、そんなアイテムを駆使すると仮定しても、身体的に普通すぎる。最低限の運動能力があるかも怪しいものだ。で、あるのに、あの僧侶、タギー・バクルドをもってして『勝てるはずがない』と言わしめる存在に、疑問が膨れたのだ。
「んん? なんだい、熱烈に見つめて。……揉む?」
開けっ広げた胸部を持ち上げ、羞恥心もなく彼女は、見せつけてきた。
「揉むほどないでしょうが」
「失敬な。Cくらいあるさ。男子的には、これくらいがちょうどいいだろう?」
「私は巨乳好きでしてね。あと、年上が好みなんですよ。つまり、完全に真逆ですね、あなたは」
雑談が成立している。ゆえに、訝しむ気持ちは、さらに加速した。
はあ。と、わざとらしくため息を吐く女神さま。決して気分を害したというわけではないが、それは、物申す前兆であるように。
「まったく、口を開けばおっぱいおっぱい……。そんなにこの脂肪が好きか? 女子には、他にも柔らかい場所が、いくつもあるんだぞ。この肢体すべてで完成品だ。バランスが大事なんだよ、バランスが」
女神さまは立ち上がり、両腕を広げてくるりと一回転して見せた。確かに美しく、造詣が整っている、その体を、隈なく見せつけるように。
だが、美しいゆえに――下世話な話だが――欲情しない。そう、優男は思った。それは彼がロリコンではないから、だけではないのだと、理性的に判断できた。これは、芸術だ。絵画や彫刻に裸婦が用いられたとしても、それを淫靡とは言わないように。彼女の存在は、確かに人類を超越している。
まるで、神が創り給うた、人間の原型のように。
「ちょっとなに言ってるか解らねえですけどね。……でもまあ、手をお貸しいただけるなら、幸甚に尽きますよ。『女神さま』」
隣で、ようやっとウイスキーを舐めはじめた女神さまを見下し、優男はいちおう、言っておいた。まだ、彼女の力をどうとも確信してなどいないが。
一口で、面白いように頬から耳までを赤く染め、その人間らしさにだとか、アルコールに弱いかのようなギャップが、決してロリコンではない優男の心の奥底をも刺激する。宇宙に揺蕩う青い星のように、複雑に煌めく双眸を向けられると、引き込まれる。
極限までの安心感と、相対して両立している、恐怖。――いったい、この恐怖はどこからくるのだろう? と、思い至ったときに、優男は納得した。これは、『不気味の谷』だ。人間に極限まで近付けたロボットのことを不気味に感じる感情。それの、一次元上の話。
これは、極限まで『神』に近付けたときの、人間に感じる不気味さ。
いまだ純真無垢な少女のようであるのに、永遠を達観した『神』のように、完全に計算され尽くしたようでいて、ただの無邪気でいたずらを向けただけのような表情で、笑い、女神さまは応答し、その場をあとにした。
「そろそろ戻るよ。あんまり待たせると、ヤフユが可哀そうだからね」
そう、言い残して。
……ヤフユ? どこかで聞いたような?
そう、優男は思った。
*
「ところでさ、下僕くん」
『女神さまの踊り場』に戻り、『女神さま』は『下僕』に向けて、どこか楽しそうに声を張った。
「……なんだ?」
下僕は応える。彼としては針のむしろだ。とても居心地が悪い。『女神さま』がずっとずっと、他の男――紳士といちゃいちゃしているそばに控えているのだから。
うんん……。と、安らかな中に一筋の不安を眉にしかませて寝息を立てる紳士。その頭を、愛おしそうに女神さまは撫でて、下僕へ向き直る。
「やっと、会えるね」
「そうだな。……この時間も手間も、俺には理解できないが」
「妬いているのかい?」
くつくつ、と、人間らしく、女神さまは笑う。
「お――女神さまがそういうやつだってのは、俺が一番、解っている」
「そうだね」
紳士に向けるとは、また別の、愛おしそうな表情を、ベッドを囲う薄布越しに、モザイクがけて向けた。
「ああ――」
両腕を広げて、天を包むように、仰ぐ――。
「狭いね。この、箱庭は」
女神さまは、言った。
「自業自得だな」
下僕は、答えた。
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