――数日前。フランス、パリ。
「――つうわけで儂、台湾行くけど、おまえはどうすんじゃ」
「じゃあ妾もついてく。そろそろ末弟の旅も佳境じゃろう。手伝えることもあるかもしれん」
感動の再会を終え――とはいえ、意外とそのへん、彼らは淡白にこなしていたが――カフェで一息ついたのちの会話だ。何年振りかの、もう二度と実現できなかっただろうと彼女が諦めていた、親子の、会話。
老人は『無形異本』を完成させた。それ自体は『世界樹』に保管してあるが、仕事の完了を告げるためと、そして、自身の今後を壮年へ伝えるために、自らの足で赴くこととしたのである。
女は、久しぶりの老人との別れを惜しんだということもあろうが、やはり、『家族』のことを慮ったうえで、彼らの力となるべく台湾を目指した。そのような思考は彼女には珍しい、これまでなかったものだ。だから、老人は少しばかり、眉をひそめた。
「ホムラ」
その相手の――娘の成長を見るように、衰えた眼光を向けた。そうだ。年老いても、子どものように無邪気に熱意を秘めていた彼の目は、もはやここに至れば、穏やかに衰退していた。すべてを、やりきったかのように。
「儂は――」
年老いた。衰退した。だから心が弱くなる。
贖罪を、語ろうとする。その口を閉ざし――
「――いや、おまえは、……変わったのう」
彼女の変化を指摘した。老人はそれを、強く歓迎してはいなかったのだが、言われた女は、若干嬉しそうだった。
「いまになってようやくなんじゃよ、『パパ』。なんだか、『家族』っていうのが、解ってきた気がするのじゃ」
戸惑うように女は、ティーカップに目を落とした。カップのハンドルを指でいじり、照れたようにはにかむ。なぜだかいまだに幼いままの彼女の顔が、だらしなく歪んだ。
「妾、あいつらが好きなんじゃよ。バカじゃのう。頼りないのう。そう思う。じゃけど、応援したいのじゃ。手を貸してやりたい。あいつが、真剣に立ち向かっているバカに、付き合ってやりたいんじゃ」
そして。そう、女は続ける。眼前の老人を――自身の父親を、まっすぐ見据えて。
「『パパ』の願いも、応援したい。それがたとえ――」
いや――。と、女は言葉を飲み込む。言葉にしたら引き返せない。そう思って、ためらった。だが、老人には――父親には、伝わっている。
もう一度、離れなければならない結末だと、解っている。
もう二度と、取り戻せない終末だと、解っている。
解っていると、解っている。
だから老人は、心の中で贖罪した。
いま、眼前の女を含めて、子どもたちをみな愛していることは真実だ。けれども、その始まりは、打算だった。打算で、計算。物語の配役を整えるための、必要な工程でしかなかったのだと。
「……そろそろ行くか」
このままでは、なにもかも語ってしまうところだった。だから老人は立ち上がり、会話を終える。
せめて最期まで、後ろをついてくる愛する者たちを想おう。そう、決意して。
真実は、胸にしまい込んだ。
――――――――
集中するほど、いまこのときにとっては不必要な感情が、溢れてくる。
もどかしい。自分には、なにをも変える力がない。『家族』のことでさえ、なにひとつ。
老人も、男も、少女も。みな、自分で決めて、その道をまっすぐ、進んでいく。どれもこれも、誰も彼も、バカばかりだ。自分よりも他の『家族』を慮って、それらが絡み合い、こんがらがって、ぐちゃぐちゃになる。大切なことは口に出さず、自分勝手に幸せを構築して、それを『家族』に押し付け合う。
本当に、愛すべきバカばかりだ。
「どこか、嬉しそうじゃないか、ホムラ」
ニッと笑って、好青年は言った。
「そうか?」
無意識に口元でも緩んでいたのだろうか? だったら、それを上書きしてやろう。そう思ってか、あるいは好青年の真似をしただけか、女は意識的に口角を上げた。臨戦態勢は微塵も揺らがせずに、刀を、構えたまま。
「ボクが預かる『異本』だ。ここに置こう」
そう言うと好青年は、その通りに『異本』を、かたわらの床に置いた。
部屋は、殺風景に白い、だだっ広い一室だった。四方は衝撃吸収に長けた素材が使われているらしい。だが床には、土や砂が敷き詰められ、まるで屋外のようだ。
戦いやすい。そう、女は思った。
「この世に蘇らせることを条件に、何人かがこうして、『異本』の守護者を任されている。やっていることは以前と変わらないね。あははははは。まあボクは、生き返るなんて特段には、興味ないけれど」
肩をすくめて、好青年は笑う。そうしながらも、足首をストレッチして、動く準備は進めていた。
「でも、もう少し遊びたい。それくらいの気持ちで受け入れたんだけどね。でもまさか、キミが来るとは想像すらしていなかった。ホムラ」
これは、少し事情が変わってきた。そう、彼は口の中にとどめるような小声で、自分に言い聞かせるように、呟く。快活な笑顔を、瞬間、消して。
「さて。まあじゃあ、始めようか。ボクはこの『異本』を守る。キミは『異本』を奪う。必要ならボクを殺してもいいし、あるいは、ただ奪って逃げるでもいい」
逃がす気はないけれどね。そう、小さく付け加える。
「殺す気はないが、その選択肢を捨てる気はない。汝もその気でかかってこい」
言うが、女にそれを達成する――できる自信はなかった。眼前の好青年は、それほどまでに桁違いに思えた。
よほどの格闘家ならいざ知らず、女は、戦闘に関してそれなりに自負はあろうとも、素人でしかないのだから。
「あははははは。心に留めておくよ。だけど――」
好青年は一歩、女に近付いて、笑みを消した。威嚇でも、怒りでもない。それは、純然たる、真剣な眼差し――。
「ボクがキミを殺すことは、絶対にない。ひとつ、欲ができたよ、ホムラ。もしキミがボクに立ち向かって、勝てないと――『異本』を奪うことはできないと、諦めたなら――」
その眼は、男性から女性へ向けた、求愛だ。
「ボクの妻になれ。ボクは、キミが欲しい」
そして、開戦の合図。
好青年は欲望のままに、瞬間で、女との距離を詰めた。
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