天からの裁きのように高々と掲げた槍を、しかし、振り降ろそうとする段になって、執事は、ふと動きを止めた。そして背後を気にして、振り返る。やはり全身を真っ黒に焦がしているゆえ、表情は読み取れないが、どことなく怒りのオーラを漂わせて。
「ふ……っざけっ――――!!」
叫ぶ声を置き去りに、振り向いた先へ飛び去る。その速度は目を疑うほどで、あっという間に執事は点になった。どうやら向かった先は、あのもっとも高く急傾斜の、山の上だ。
「……なんじゃ、いきなり」
女は呆気にとられ呟く。まだ警戒は解かないが、一度、肩の力を抜いた。
「なんでもいい……逃げるぞ」
そんな女の肩に手を置き、背後から青い顔で言ったのは、男だった。
「おお、生き返ったか、末弟」
「んなわけねえだろ。……ほら」
そして手渡す。圧倒的に簡潔に、軽い動作で。
黄土色の装丁。『異本』、総合性能A、『啓筆』序列十八位。『シャンバラ・ダルマ』。
「とりあえず『百貨店』に入れとけ。そいつはあとで返してもらうが――代わりにこれは、いったんくれてやる。……いちおう、礼だ」
相次いで渡す、さらに二冊の『異本』――『浄流』と『千落』。おそらく令嬢の死体から回収したのだろう、それらを。
しかし、その二冊に関しては、女はいつまでたっても受け取らなかった。手が塞がっているのだろう。だから、とっとと『シャンバラ・ダルマ』を『箱庭百貨店』に入れて、受け取れ。そう、男は痛みも相まって苛立ち、女をうかがう。
「……ハク。……理由はさっぱり解らんのじゃが」
女は珍しくうろたえた様子で、赤い装丁の『百貨店』に、黄土色の装丁『シャンバラ・ダルマ』を押し付けながら、言った。
「『百貨店』が反応せん。収めることが、できんのじゃ」
*
などという異常事態については、とりあえず保留した。どちらにしたところで若者がそろっていない以上、この世界から離脱するわけにはいかない。
「不思議だな。『図書館』には普通に入る――」
と、言いながら『箱庭図書館』に『シャンバラ・ダルマ』を差し入れた男は、言葉を途中に、その『異本』の中へ消えた。
「――んなんだよ! て……」
かと思えばすぐに戻ってきた。なんだったのだろう? と、彼の持つ『異本』に起きている異常を知らない者たちは、そろって首を傾げた。
「あー、とにかく、これは俺が預かっとく。こうなると、無理にあいつを連れてきたのは正解だったな。どちらにしたところであいつと合流しなきゃ、地上へは帰れねえってことで、解りやすくなった」
こほん。と、取り乱した様子を取り繕い、男は言った。
「とにかく、いまは逃げるのが先決だ。ジンを探しながら、あの執事から逃げるぞ」
男は言う。それは期せずして優男の計画通り、みなをまとめ上げる言葉だった。
「……そうじゃな。あの愚弟、世話の焼ける。……悪いが末弟、探してきてくれ」
「あん? てめえも一緒に行くんじゃねえのか? 次はてめえが迷子なんて――」
言いつつも、男の視界にも、それは捉われ始めた。だから、口を噤む。
「妾はあれを足止めしておく。心配はいらん、ここは離れんからの」
再来する、黒い影。身も、心も焦げ付きた、乱心の執事。
それを見据え、女は言った。
*
女は、優しすぎる。それを男は知っていた。だから彼女は、一人の方が強い。
仲間が、家族が、そばにいると女は、どうしても周囲を気にしすぎる。いつでも庇えるように。いつでも守れるように。それは圧倒的強者ゆえの余裕でもあるのだが、しかし、それは、彼女の愛情の深さをも物語っている。
灼葉焔は、誰よりも人との繋がりを欲し、求め、愛している。だからこそ一人でいる。失うことの辛さを、本当の意味で思い知っているから。
「……任せたぞ、ホムラ」
だから、男は強要しない。この場は逃げるが得策。足止めなど、そう容易くもなく、そのうえ、たいした効果も上げないだろう。
端的に言って、普通に考えて、たった一人で立ち向かって、長く生きていられるはずもない。
それを理解したうえで、男は、女を一人残した。その行動を、尊重し、選択した。
そんな女を慮るギャルの手を引き、うずくまる学者を蹴飛ばし、先を行く翁の後を追い、走る。ちなみに無視された優男は、血を垂れ流しながら最後尾を追って行った。「コオリモリ、てめえ……!」などと恨み言を叫びながら。
「ふう……」
女は息を吐く。
「任せたぞ。……か」
犬歯を剥き出し、笑ってみる。任されることへの歓喜? 一人立ち向かうことへの奮起? いいや、違う。
「あなたが身を挺して庇うほどですかね。あの者どもは」
不意に、声がかけられる。見ると、大きな乳白色の泡から、青年が現れた。その左腕に開いた穴から、血の赤を流しながら。
「なんじゃ、生きておったのか、シキ……」
「あの槍の弱点は、目標を貫けば、持ち主の手に返るために消える、という点ですよ。そのうえ、どうやら狙いは曖昧らしい。『あの人間を貫け』は可能でも、『あの人間の心臓をピンポイントで貫け』は、おそらくできない」
言って、青年はその痛々しい腕を上げる。その腕を身代りに、命は繋いだようだ。
「式神を解除したのは、自分が死んだと見せかけるためか。……まあ、妾のように『太虚転記』の特性を知っている者には通用せぬが、初見であれば騙せる、と」
女の言葉通り、『太虚転記』による式神の製造。その性質を知っている者には絶対に通用しない。なぜなら、仮に創造主が死んでも『太虚転記』によって生み出される式神は消えたりしないからだ。
「そんなことより、答えてくださいよ。あの者ども――いや、あの男、と言うべきですか? 彼がそんなに大切なんですか? あなたが、その命を賭けて守るほどに」
並び立つ。そうして、向かってくる執事に対峙する。その姿は、女に対しては少なくとも現状、敵対心などないような、心を開いたかのような振る舞いだった。
「別に。確かに古い付き合いで、家族、じゃと思っておるが、あやつが死のうが生きようが、妾には関心がない」
その言葉は、本心に近いがまったくの本心とは言えなかった。だが、少なくとも『大切』とは違う。そんな、自分が手を尽くして守らなければならないような、そういう関係ではない。
「あやつはな、昔っからああなんじゃ。いろんなことに無為に首を突っ込んでは、いろんな者と諍い、面倒事に巻き込まれ、危険に簡単に足を踏み入れる。……この程度の死地、あやつには日常茶飯事でしかないじゃろう」
「いやはや、そんな歴戦の勇者には見えませんでしたけどね」
「そりゃあそうじゃろう。その度にあやつは、数多の傷を負い、ただただ敗戦してきた。生き残っている、というだけで、なにひとつ事態は収拾されず、好転にも及んでおらん。……それでも、誰も死んでおらん。あやつは、誰も死なせておらんのじゃ」
「…………」
女の言葉に、青年は沈黙で返す。抽象的な言い回しだ、そこから、男の為した偉業――異業を推し量ることは難しい。しかし、その言葉から青年が受けた印象は、『常軌を逸している』というものだったから。
「あやつにはなにもできん。なにをも成し遂げることなど、きっとこの先もずっと、できやせんじゃろう。仮になにかを試みたところで、また失敗するのがオチじゃ。……じゃが――じゃが、それでも……その手に残るものが、ひとつだけある」
女はそこまで話し、やはり犬歯を剥き、凄絶に笑った。あらゆるアクセサリーでゴツゴツと彩られた軍帽を、やや目深に落とす。そのまま屈み、翁が置いて行った刀――『焃淼語』を拾い上げた。
「任せたぞ、末弟」
そして最後に、男たちが去って行った背後を見遣り、そう言った。
それからはただ、臨戦に構えるのみである。
――――――――
――数刻前。
執事は、毅然としながらも怒りを孕んで、その場に降り立った。
「あら、ナイト。よく来たわ」
「――――っ!!」
そこにいたのは、令嬢。
その姿を象った、なんらかの物質。
「どうしたの? 近くに寄りなさい」
「ふっ……ざけやがってええええぇぇぇぇ!!」
一刀両断。首を刎ねる。するとそれは、執事を嘲うように幾千の紙片となり、血の一滴もないまま、姿を消した。
「そこにいるな! ドブネズミめがっ! 殺す前に釈明くらい聞いてやろう……姿を現せっ!!」
なにもないような空間に矛先を向け、声を上げると、それに応じて、透明が色を付け始める。そうして現れたのは、不遜に気障な態度で地に座する、若者の姿だった。
「やれやれ、幻で満足していればいいものを……」
「お嬢様はもうおられんっ! 愚弄するなよ、クソがあぁっ!!」
震えている、怒りで。その構えた矛先が。真っ黒に焦げ付きた、体全体が。
「ふむ……姿形ではないということか。では、きみは人体のいったいどこに、その個性を見出しているんだい?」
執事の怒りにも、堪えきれず露わになる感情にも、若者は気圧されることなくマイペースに、問答を続けた。
「……心だ。精神。魂。お嬢様がお嬢様然とするその態度、仕草、雰囲気のすべてから、俺は彼女を、感じていた」
若者の態度に紛らわされたのか、声を静め、執事は答える。だが、まだなにかに怯えるように、その手は震えている。
「なるほど。だから死体には、あれだけの残酷な仕打ちができるわけか。彼女はいまも、その心に根付いている、わけだ」
「そんなわけないだろう」
執事の、震えが止まった。
「魂が移ったり、ましてや共有したり。そんなこと、あるわけがない。お嬢様の魂は、その肉体とともに朽ち果てた。もうどこにもいない――どこにも、ないんだよ」
泣きそうに顔を歪めた、その姿を見つめ、若者は、静かに首を振った。
もはや振りかぶり、いつでも殺す準備はできている、と言わんばかりの、執事を前にしても、やはり余裕そうに。
「残念だよ。落第だ、きみは――」
「もういい。おまえも分身を扱えるのだろう? 周囲にいくつも、同じ力を感じる。……それでも、憂さ晴らしに一人、ここにいるおまえだけは消してやろう」
若者の言葉を遮り、もはや問答無用と、執事は言いたいことだけ言って、その槍を、振り降ろした。
「――ただの人間だった」
その言葉を最後に、若者の、首が飛んだ。
幾千と千切れたのではなく、そこに肉体を残したまま、首だけが血を吹き出し、飛んだ。
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