そのころ、こちらのルートは、いまだに、フランス、パリにいた。
ぎゅ――。と、かすかに音を鳴らし、着替えを終える。腕を前に伸ばし、手のひらを正面へ向け、眺める。真っ白な自分の肌と比しても、また、人為的に白い。その色に懐かしさを覚えながら、ぐっ、ぐっ、と、何度か指を開いたり、閉じたりして、慣らす。肌に引っ付く感覚が、少しだけ窮屈だ。
「ノラ。準備できた?」
ふと、扉が開けられ、独特に耳に響く声が少女を呼んだ。
「なに、覗きに来たの?」
特段におかしな行動でもないのだろうけれど、少女は、自分の腕を眺めていたことを恥じ、そのわずかな動揺を、不機嫌に変換したような声で、質問に質問を返した。ノックぐらいしなさいよ。という言葉が出かかったけれど、べつにいい、と、飲み込む。夫婦の間のことだ、別段、見られても構わない。
……理性ではそう思うけれど、しかしその場を想像して、少女は頬を赤らめた。うん。たぶん、本当に見られたら、自分でも、とっさに怒り出すことを抑えきれない気がした。そばにあるハンガーでも投げ飛ばすだろう。まあ、そんな想定外が起こることなど、まずないのだけれど。
「え、うん。覗きに来たのだけれど――」という紳士のとぼけた言葉も、想定内だ。言葉が微妙に伝わっていないのも。
「それ、懐かしいね」
少女が目を向けていた方向へ、彼も目を向け、言葉も向けた。少女が幼いころ、常につけていたオペラグローブだ。それは幾度も、汚れや破損により取り換えられているが、毎度同じようなものを好んで着用していた。彼女の両腕に、大きく残った火傷の跡、それを隠すためのもの。紳士はそう理解している。
しかし、いつからか彼女は、それを身に着けなくなった。理由は単純で、その火傷の跡を晒すことに、抵抗を持たなくなったからだという。むしろ、それすらも自分の、大切な過去だと誇るようになったのだ。誰かを守るために傷付いた名誉の負傷を誇るようなものだと、紳士は思った。自身の、失われた右手を――そこにいまでは取り付けられている最先端の義手を見て、思いを重ねた。
「うん。今回は、そんな気分なの」
含みがある言い方で、少女は言った。またそれは、それ以上の追及を許さない、というような、力強さも内包していた。
「あなたこそどうしたのよ。スーツなんか着て」
普段はだらしない様相で、ワンサイズは大きめの服を、だぼっと着ていることばかりだった。首元も腋も、腰回りも股下も、布が余分にありすぎるようなデザインのものを好んでいた。だがまあそれも、彼の掴みどころのない性格とはやけにマッチしていたから、少女は嫌いじゃなかったけれど。
しかし、本日は彼も、なにか思うところがあるのか、正装だ。灰をかぶったような髪色と肌色をした彼らしい、グレーのスーツ姿である。とはいえ、布の多いダブルスーツだ。それも、今時はやりの着丈が短いものではなく、昔ながらの、ヒップまで覆い隠すような長いデザインだ。袖も裾も詰められていないのか、やや長く見える。つまり結局、彼らしいだぼっとした着こなしだった。いや、ことここに至れば、むしろ服装というより、彼自身の雰囲気がそのように見せているのかもしれない。
それでも彼が、不潔に感じられず、むしろ理知的で聡明な、できる男に見えるのは、そのたたずまいや、独特に人を魅了する声、そして美しく澄んだ青い瞳が、どこか造形物じみた完成度を醸し出しているからなのだろう。
「うん。わたしもこういうのは苦手なのだけれど、窮屈だし。しかし……まあ、今回はそんな気分、というところ、なのかな」
自ら理解はしていない、というふうに、語尾に従うにつれ戸惑うような、言葉を探すような言い方をして、紳士は言った。
少女は悟った。彼が、理由を言葉にすることをためらったのだと。けっして、その理由を自らで理解していないわけではない、と。
まあ、それはいい。どちらでも。どうせ少女のすることは、変わらない。
「きみは、いつも通りだね」
窮屈だと言いながら、まんざらでもないように己が身だしなみを確認していた紳士が、少女に目を向け、そう言った。唯一、いつも通りではないオペラグローブには、それ以上触れずに。
銀髪緑眼の、少女。肌は煌めくように白く、しかしそれは、人間としては埒外に美しいから、逆に一般的な視点では、やや病的にも映る。とはいえ、はたしてどんな病気なのか、観測者は首を捻ることとなるだろう。血流が悪く、不健康に青白い。少女の肌は、そんなマイナス面を持ち合わせていない。まるで、光を反射するだけでなく、肌そのものがわずかに発光しているかのように、他の人体と比べると、輝度が高く見えるのだ。後光を背負った、神様のように。
そんな少女が、肩まで覗かせるノースリーブの白いワンピースを簡潔に纏い、その美しさを雑多に控えさせている。それでようやく、彼女の姿は直視できる。それを計算したような――つまり意識的に、彼女は自分を貶めて、見られる格好を選んでいるようにさえ見えた。
そして、前述のオペラグローブで、手先から肘までをも隠す。足こそ裸足だが、その開けっ広げさが、着飾らない純朴さを付加し、適度に少女を引き立てた。
その足を動かし、持ち上げ、向きを変え、着地させる。連動して、逆の足も動かし、歩行する。そこまでを見届けて、ようやっと、それが彼女にとっての『歩行』だと理解する。それは我々とまったく同じ動きなのに、なぜだか彼女のそれは、違って見えた。乱雑に適当に無意識でやっているだけなのに、まるで洗練されつくした舞踊のように、常軌を逸している。
「いつも通り……どうなの?」
気付けば、紳士の目の前には、少女がいた。後ろに手を回し、下から覗き込むように、わずかに上体を屈める。上目遣いで、その宝石のような緑眼で、相手を射すくめるのだ。
紳士は、だから、見惚れる。見惚れて、言葉を迷子にさせる。
「いつも通りだよ。白い」
迷子の迷子の言葉を探して、結局見つからないままに、紳士はそう言った。
「可愛いでしょ?」
特段に不機嫌はなく、少女はそれだけをただ、いたずら顔で言う。近付いた距離を、唐突に離れるから、首元を飾っている翡翠の首飾りが、揺れた。オペラグローブをはめる都合上か、左手薬指を彩っていたプラチナのリングも、そこにまとめて通されている。紳士とお揃いの、一応は結婚指輪だった。
くるりと回転して、少女は長い銀髪を、見せびらかすように靡かせた。その髪は、一本一本が意思を持つように、乱暴に扱っても最後には、美しさに回帰するように綺麗にまとまる。
「ああ、可愛い」
紳士は素直にそう言って、笑った。
だから少女も、照れて笑って、そして――準備を、完了する。最後の旅路に、向かう準備を。
*
それを見越したように、玄関の扉がノックされた。インターフォンも備わっているのだが、それが押される様子はない。しかし、ノックの音は問題なく、少女の耳には届いている。
「クロかしら?」
息子の名を口にしてみる。時間的にはもう来るはずだ。しかし、なんだか、そんな気がしない。
というより、ある程度であれば、未来さえ予知できるほどの洞察力を持つ少女だ、本来なら、そこにいるはずの人物を特定できていてしかるべきだった。だが、このとき少女は、来客を特定できないことはおろか、特定できないという非常事態にすら気を回せずに、首を捻りながらも気楽に、来客に応対した。
いや、応対できてはいない。玄関の扉を開けてはみたものの、そこには、誰もいなかったのだから。
「……気のせい、な、わけないんだけど」
無人を確認し、そこからさらに、一歩を、外へ踏み出す。念のため、周囲を見渡すためだった。そのときになって遅ればせに、紳士も玄関の方へ歩いてきた。彼にはノックの音を聞き取れなかったが、それは少女の耳が良すぎただけで、紳士に落ち度はない。
「どうした、ノラ? クロが帰って来た?」
当初ノックの音を聞いた少女と同じ疑問を口にして、紳士はいぶかしむ。
「解んない」
一歩、二歩と外へ出ながら、少女は言った。そう言ってみて、ようやく少女は、自身の疑問に、疑問を覚える。解らない。そんなことが、あるというの? いや、たしかになくはない。少なくとも、コルカタの『本の虫』の施設には、ふたり、その足跡も、内心も、存在ですらも理解できない者がいた。それに、少女は、他にも日常生活の中で何度か、本当に少ない頻度ではあったが、そういう思いを感じてきた。その原因を、これまで理解できないまま。
ふにっ、と、足裏に感触を覚える。まるで意図せず素足で、嫌いな害虫を踏んでしまったような、あまりに背筋がぞっとする、不快な感触だった。
「ふに?」
反射的に少女は、足元を見る。
「もあああぁぁ――――」
まったくもって気が付かなかった。し、そのうえ、見えてからも、見えているような気がしない。だが、なんらかのなにかがそこにいて、それを踏んだような気が、した。
「きゃああああぁぁぁぁ!!」
それがなにかをちゃんと理解しないまま、少女は、ただ足裏の――あるいは下半身の不快感に慄きながら、無差別に叫んで、思い切り後ずさった。そばにまで来ていた紳士に体を預け、体を震わせる。
こうして、ようやく、かの貴人が、少女の認識に、捉えられた。
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