若草のような、爽やかな香りとともに、彼は優雅に降り立った。
「終幕だね。ご苦労さま」
白に金糸で縫製した、華美なクラシックスーツ。日常的に着るには浮いたそのデザインと同化した、白い肌に金髪金眼の若者。すなわち、稲雷塵。その人である。
「てめえ……!」
彼の登場にいち早く気付き、反応したのは、男だった。しかも、仲間であるはずなのに、マイナスな感情で。
「ほら、返すよ」
だがその感情を遮るように、若者は白を基調として、カラフルな色彩でタイトルを綴った装丁の『異本』、『彩枝垂れ』を、男へ差し出した。
「もうこの場所での物語は終わりだ。少し早いが、約束通り返す。まあ、結局使うことなどなかったけれどね」
その言葉に、男は鼻を鳴らすだけで対応した。思うところはあるが、言葉にはしない。そういう表情で。
「それで、代わりにぼくに渡すものがあるんだろう? ついでだ、解説してやる」
『彩枝垂れ』を渡したままの形で手を差し出していた。その手に、男は渡すべきものを知っている。だが、せめてもの抵抗とばかりに一睨みし、男は間を溜めた。
*
ギャルに預けていたコートから、『箱庭図書館』を取り出す。その内に収められている、今回の蒐集対象、『啓筆』、序列十八位、『シャンバラ・ダルマ』。その、黄土色の装丁の『異本』を取り出そうと――。
「――いい加減に……!!」
……どうやら今回も『箱庭図書館』の中で一悶着あったらしい。が、確かにその手に握られている、『シャンバラ・ダルマ』。
「まず教えてもらうぞ、愚弟。『シャンバラ・ダルマ』が、『箱庭百貨店』に収まらなんだ理由を」
男から若者へ、それが手渡される瞬間、女が横からそう問うた。
それに対し、若者は『シャンバラ』を受け取る動作で時間を稼ぎ、ゆったりと間を溜めてから、口を開く。
「『異本』の総合性能Bランク。その中でもっとも強力とされる一冊を、きみたちは知らないだろう?」
確信的な表現で、若者は見渡す。それに反応したのはたった一人。
(はいはい! 僕は知ってます!)
元気に挙手して、黙りこくる学者だけだった。もちろんそんな無言は無視される。
「『Pythagoras0001』。人類が――いや、地球上のすべての生物がそれを扱い、また、扱われている。地球上で最大の『異本』だ」
したり顔で、若者は言う。問いかけのように。その言から、その『異本』を見抜けと言わんばかりに。
「知らねえな」
男は言う。
「なんじゃ、それは?」
女も首を傾げる。
「……まさか」
青年だけが、なにかに気付いたように、目を見開いた。
さあ、答え合わせの時間だ。
「『Pythagoras0001』。別名、『Terra』。あるいは……『Earth』」
若者は言った。
「そう。つまり、『地球』だ」
*
『Pythagoras0001』。つまり、『地球』。
その名は、地球球体説の創始者と言われるピュタゴラスの名を用いて、WBO――つまり、『世界書籍機構』により命名されたものである。
地球という、閉じた世界――綴じた世界をひとつの『異本』とみなし、名を与えた、なんとも大胆な設定。
以前の『Te wai ma』が『異本』として認められる以上、『本』という括りには際限がない。むしろそれだけの柔軟な発想があってこそ『発見』されたとも言える一冊だ。
そして、この『異本』が総合性能Bランクの最上位――つまるところが、全『異本』中二十番目の性能と位置付けられることには大きな意味がある。
それは、総合性能Aランク――つまり、『Pythagoras0001』よりも強力な『異本』はすべて、地球の全エネルギーを総合したものをも凌駕する性能を有している、と、少なくともWBOは判断している、ということだ。
そして、男たちにとってこの事実はもう一つ、重大な意味を持っていた。
*
「これで解ったろう? ホムラ。『箱庭百貨店』に、『シャンバラ・ダルマ』が収められない理由」
「はあ? なにを言うとるんじゃ、この愚弟は」
ノータイムで、女は言った。むしろ考えることを放棄しているかのような清々しさである。……いや、ともすれば事実か。
そんな態度の女に対して、若者は大仰にため息をついた。愚かな姉に呆れるように。というか、まさしくそのものに。
「……金が足りねえ……ってことか?」
男が神妙に、口を開いた。
「地球の全エネルギーを越える性能を有するってことは、地球上の全金銭よりも高額な価値が付加されている。……『箱庭百貨店』はその内に収める『異本』の価値に見合う金銭を吐き出す。それらはすべて、地球上の金銭だ。つまり、逆に言えば、地球上にある全金銭を越える価値を持つ『啓筆』に対して払う対価がない。ゆえに、収めることもできない、と」
「イグザクトリー。ハクにしては冴えた推理だったね」
「いくらなんでも解るさ。馬鹿にしてんのか」
「おい、じゃあ解らんかった妾を、汝は馬鹿にしとるってことじゃな?」
「してねえよ」
「ホムラが馬鹿なのは、とうに自明だからね」
「なんじゃと?」
「って昨日ハクが言ってた」
「押し付けんな」
そこで三名ともへと、鼻を鳴らす程度の笑いが伝搬した。まるで、姉弟のように。言いたいことを言い合って、互いになんでもお見通しの、『家族』のように。
*
「ところで、俺からもひとつ疑問がある」
男は言った。
「この世界――シャンバラは地下世界なんじゃねえのか? つまり、地球内部であり、地球の一部だ。だとしたら、いくらこのシャンバラを自由自在に変容させられるとはいえ、『シャンバラ・ダルマ』が『Pythagoras0001』よりも強力だとは思えねえんだが」
そのもっともな疑問に、若者は肩を落とし、やはり大仰に嘆息する。相手を馬鹿にするように。
「ハク。きみはいまだにここが、地球の内部だと思っていたのかい?」
「違うというのか?」
若者の言葉に反論したのは女だった。つまり、女にもその言葉の真意は理解できていなかったようである。
「まさか、ファンタジーな異世界だとか言うつもりじゃねえだろうな?」
それもそれで、男は若者を馬鹿にし返すように、吐き捨てた。
「『異本』そのものがファンタジーだと思うけれどね。しかし、違うよ。ここは地球上でも、地球内部でもない。ましてやファンタジーらしい異世界でもなく、地球外部の現実にある世界だ」
「つまり、地球外惑星、と?」
若者の言葉に、頭を抱えながら男が問い質す。もう、その世界の真実は、彼の感覚ではついていけない領域に達しつつあった。
「その通りだ。ここは地球から約5500万光年離れた、名もなき惑星。地球人には及びもつかない進化を遂げた、ひとつの惑星さ」
こともなげに、若者は言う。まだ、解説は続く。
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