いくつか部屋を進んで、ようやっとそれらしい設備が現れ始めた。『それらしい』がなにかは解らないが。具体的には、壁一面のクローゼット、反対側の壁には高めの天井までびっしりと中身が詰まった本棚。本棚については見ればだいたい、どういう類のものだか解るが、クローゼットは――。
「あちらは、私どもの衣類でございます」
幼メイドが言った。ただ一礼するだけでなく、そこに収められているであろうものと同類の衣服を見せびらかすように。言われてみれば、それしかないだろう。執事用のタキシードや、メイド用のメイド服。しかし、前を歩く幼メイドのように小さめのサイズもあれば、あるいは、デザインも多種多様、揃っているに違いない。
中身を確認したわけではないが、男は勝手に納得する。
「教育……というが、おまえらはこんな環境で学んでるのか?」
男は、クローゼットに背を向け、本棚を眺める。あらゆる年代の執事やメイドがいるのだろう。また、男のよく知るメイドのことを思えば、なまなかな教育ではないはずだ。それを、一括してこんな環境で? 特段に劣悪だとは言わないが――そもそもまだ見ていない施設も多分にあるのだろうし――まず、完全な地下であり、自然の風や陽光が注がない環境というのが気になった。
それにしても、その本棚に乱雑に詰め込まれた書籍は、いま男の目の前にいる幼メイドに、あまりにも似つかわしくない学術レベルのものだった。
かくいう男にも、その内容は――中身を見るまでもなく――さっぱりであったが。
「いえ。座学や実戦訓練、身嗜みにマナー講義、その他、各種のお稽古は、エディンバラ大学の一部をお借りしておこなっております。……たぶん、ハク様が思っていらっしゃるより、よほど健全でございますよ」
「そりゃあなによりだ」
男はなにひとつ安心などせずに、無感情に言う。
「それじゃあ、この施設ではなにを?」
その問いに、幼メイドは立ち止まった。振り向いて、男の目を見上げ、幼メイドは凛とした無表情で、わずかな間だけを溜めて、言葉を紡ぐ。
「週に一度か二度、極玉との同調をおこなうことが主でございます。それがどういうものかは……直接ご覧いただく方が、解りよいでしょう」
幼メイドは、半身を引き、次の部屋を示した。
*
地下とはいえ――最初の数部屋はともかく――照明は明るく続いていた。しかし、次の部屋は、そうもいかない。
「…………」
男は、息を飲んだ。
部屋のサイズは変わらない。だから、その設備を置くには少々、狭すぎる。
先の部屋と同じ、左右の壁沿いにびっしりと、設備が敷き詰められていた。漫画やアニメの中みたいな、緑色の液体が詰まった、カプセル。それは、人ひとりが入るにはやや狭いが、それでも、たいていの大男でも無理をすれば収まるほどのサイズ。つまり、人間にとって必要最小限の大きさ、ということである。
薄暗い部屋を映し出すは、その、緑色の液体から漏れる光。あるいは、いくらかのモニターやランプ。それだけの、これも、必要最小限な光。あとは無骨に太いコード類。カプセル上下部の金属、その、鈍い輝き。
「極玉とのシンクロ方法はいくつかありますが、こちらがもっとも容易で、もっとも安全な方法でございます」
「安全?」
男は一つのカプセルに近付き、低い声を上げた。
そのカプセルには、若い男性が目を閉じて収まっている。
「安全じゃねえ方法もあるってことだな?」
「ございます。極玉を血管から直接投与する方法。こちらの方が極玉と同調することがより容易です。しかし、投与する量をわずかに間違えるだけで、簡単に副作用が出てしまいます」
「副作用?」
「乗っ取られるのです、肉体を。極玉は濃縮した細胞――というよりは、DNA情報です。それらは基本的に、人間のものではございませんから、簡単に言うと、元の人間の細胞と喧嘩をする、といったところでしょうか」
「理屈は解らねえけど、解る。いい、詳しく言うな」
「他にも、外科手術により直接、目的の位置に極玉を埋め込む方法や、ある種の刺激を与えることで、体内に取り込んだ極玉を活性化させる方法などがございますが、どれもカプセルを使うよりは、人体への損傷は大きくなります」
幼メイドが言葉を止めると、その場は沈黙に包まれた。聞こえるのは耳鳴りのような、なんらかの機器が上げる唸り声。緑色の液体に常時立ち上るあぶくの破裂音。わずかな、誰かの呼吸音。それだけ。
やがて、息を吐いて、男はボルサリーノを押さえた。目元を隠すように、深く、沈める。そうして、彼は自分の心をも静めるのだ。
「おまえは、なんでここにいるんだ?」
腰を降ろして、幼メイドを下から見上げるように、男は、言った。
*
男の言葉に、幼メイドは少しだけ目を見開いた。それでも無表情と言える範囲だったが。
「私は……」
言い淀む。しかし、それを男は追及しなかった。だから、その場はもう一度、沈黙に包まれる。
「私は――」
「言いたくないなら言わなくていい」
どんな質問にも、すぐに返答してきた幼メイドだ。言い直そうとした時点で、男は察した。そして、安心した。
あの日、メイドは言った。自分たちは道具なのだと。それがEBNAの教育の賜物であろうとは容易に想像がついたが、それでも、そのようなことを言わせるまでに支配する『教育』とはどのようなものか、男は、恐怖していたのだ。特に子どもは、環境にすぐ染まる。
その子どもでも、ちゃんと心を残していた。まだ教育とやらが完成していないからと言われればそれまでだが、だからこそ、彼女たちはまだ、戻れる。やり直せる。
そしてその延長に、メイドもいるのだ。
男は安心して、幼メイドを抱き締めた。
「は、ハク様っ!?」
「なあ、頼むよ」
珍しくうろたえる幼メイドを脇に、男は泣きごとのような声で、囁く。
「この場所が悪いとは言わねえ。外の世界が素晴らしいとも言えねえ。でも、ここは世界の一部で、おまえは、この世界に住む、一人の人間だ」
男は言う。彼の心にいたのは、幼いころの彼自身。『家族』を知らなかったころの、『家族』を知ったころの、自分自身。
世界を恨んでいた。なら、まだいいだろう。しかし、それ以前に彼は、世界を知らなすぎた。自分が不幸であることにも気付けなかったのだ。
「それだけ、忘れんな」
抱き締めた体を離し、視線を合わせる。幼メイドは、きっと戸惑った表情をしていたのだろうが、もう、平常に澄ました顔に戻っていた。
だから男は、可愛げのねえガキだ、と思いつつ、自身の照れ隠しも含めて、頭を撫でることにした。ガシガシと、頭を振るような勢いで。
*
その、なんだか恥ずかしい事態が収拾すると、こほん、と、男の後ろで咳ばらいが響いた。
「よくもまあほぼまるまる一話分、可愛いわたしを無視してくれたわね」
男が振り返ると、そこには、両拳を腰に当てご立腹状態の少女がいた。鋭く尖らせた瞳から零れる翠玉の光は、感情のすべてを乱暴に投げ付けるように男を下から睨み上げている。
「なんだ、いたのか、ノラ」
「いるに決まってるでしょっ! なんで急にいなくなんのよ!」
少女の怒号で、部屋にあるカプセルの中の液体が、わずかに揺れた。ように、男には感じられた。
「いやだって、おまえはルシアを探すのに、細かに周囲の部屋も探索するって話じゃ」
「やってるわよ! そもそもその子が、周囲の部屋も案内してくれてるでしょうが! ハクって馬鹿なの!? 死ぬの!?」
おお。と、男は本当に失念していたように、目を丸くした。だから、拍子抜けして少女も肩を落とす。
「もういいわ。……それより」
少女は心を落ち着けて、本題に入る。少しだけ目を伏せて、その隙に、幼メイドの方をちらりと見て。そして――
「ん!」
両手を後ろで組み、目でなにかを訴える。
「ん?」
意図を理解し得ない男は、首を傾げて同じ発音を返した。
「んん!!」
思い切り両目を閉じ、開く。まん丸の緑眼で男を見上げ、両腕を広げた。
「……解んねえよ、しゃべれよ」
男は当然のことを言う。
すると少女は頬をむくれさせ、そのぶん目つきを鋭くした。抗議の表情だったのだろうが、これでは伝わらないと判断したのだろう、すぐに頬はしぼんだ。
それを見かねて、幼メイドが男へ寄り、耳打ちする。
「ハク様。ノラ様はハク様にぎゅってしてほしいみたいでございます」
しかし聞こえたのだろう、少女は表情を、これまでにないくらい歪めて、幼メイドを睨んだ。
「誰がそんなこと言ったのよ!? ぶん殴るわよ!」
恐ろしい剣幕で握り拳を掲げる。
しかし、幼メイドは変わらずの涼しい顔で、続けた。
「ハク様。ノラ様はどうやら私に嫉妬しているご様子。ここはぎゅってしてあげて、よしよしってして差し上げるのがよろしいかと。……私にしてくださったように」
幼メイドは、少し照れたような表情で、そう囁く。だから、少女の、どっかのなにかが、力任せにぶち切られる音が、部屋に響いた。
「忠告はしたわ。……ぶん殴る」
冗談ではない気迫で、少女が腕を回すから、男は力ずくでそれを止める。
だから、少女の願いは、想像とは違う形で、達成された。
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