1990年、一月。イタリア、エミリア=ロマーニャ州、ボローニャ県。
ボローニャ大学。
「それではみなさん、準備はいい――?」
若女が言う。
いつもの特別教室。広い大学の片隅。彼らだけの、優しい箱庭。
その中で、彼らはワイングラスを掲げ、世界の変転を祝うのだ。
「乾杯! あけましておめでとう!」
いえーい。とか、すでにできあがっているかのようにはっちゃけた若女の音頭で、四つのグラスが音を立てる。そのままおいしそうに、若女は自分のグラスに入ったものを、一気に飲み干した。
「ぷはー」
空いたグラスに、彼女は自分で、次の一杯を注ぐ。
「……じじくさいですよ。シンねえさん」
ひとりだけぶどうジュースで疎外感を感じていた子女が言う。敬愛する先輩――お姉さんに、お酌をしようと伸ばしかけた手は、その役目を始めることもできず、引っ込んだ。若女の行動は、子女の意思よりよほど、速すぎたからだ。
「もう、ゾイちゃんこまごま。お祝いどきはじじくさくていいって、法律でも決まってるでしょ」
「え、そうなんですか?」
「そんなわけないだろう」
若男がつっこむ。一気飲み、とまではいかないが、グラスの半分以上を飲み干し、その後はくるくると、ワインを回していた。
「やっぱりおまえ、馬鹿だろ」
紅色の長髪を邪魔そうに掻き上げて、美男が言った。彼は若女ほどではないが、一拍遅れてワインを飲み干している。若女とは対照的に、不味そうな顔をして、グラスをテーブルに置いた。
「あの、私だって、冗談言います」
「お、ぶーくん、いい飲みっぷり。次、次、注ぎ注ぎ……」
ぼそりと言った子女の言葉は、若女の言葉にかき消される。冗談のように「注ぎ注ぎ……」言いながら、彼女は美男のグラスに、ゆっくりとワインを注ぎ足していった。
「おい、シンファ。少しでいい」
「注ぎ注ぎ……」
「少しでいいってんだ。……もういい、やめろ」
「私の酒が飲めねえっての?」
「おまえのじゃねえだろ。『先生』の友人が作ったとか言ってたが、正直、不味い」
「えー、おいしかったけど」
たっぷり、なみなみと注ぎ終えて、若女は言った。自分の言葉に責任を持つ、と、言わんばかりにグラスを傾け、半分を飲み干す。いましがた注いだ、美男のグラスから。「これで、私のお酒~」などと、わけの解らないことを言っている。彼女はそこそこアルコールに強いはずだが、すでにその白い肌には、紅が差していた。
「たしかに、うまくはないな」
彼女の隣で、若男が言った。それから、自らのグラスに残ったワインを、仕方なく飲み干す。
「ぶどうジュースはおいしいですけど……」
子女が、眼前の若男にだけ伝えるように、小さく言った。
「俺も一杯、ジュースをもらおうか」
そう言いながら彼は、子女のそばに置かれていたボトルに、手を伸ばしかけた。
「はぁい~、リュウくんジュースですよ~」
だが、若男の行動より早く、楽しそうに、若女が彼の持つグラスに、次を注いでいく。
「……シンファ。それはワインだ」
とはいえ、すでに注がれ始めている。無理にそれを回避しようとすれば零れるかもしれない。ゆえに仕方なく、若男は受け入れるしかなかった。
「もう、リュウくんまで、私のお酒が飲めないとか言う。『先生』がたくさんくれたんだから、たくさんたくさん、飲まなきゃね」
「どういう理屈だ」
若男は言いながら、部屋の隅に置かれた、ダンボール箱を見た。そこには1ダースから二本を引いたボトルが、まだ残っている。半分はジュースとはいえ、残り半分はワインだ。
そうして目を逸らした隙に、「リュウくんのも、私のお酒~」と、若女がグラスに口をつけていた。舐める程度に内容液を減らしただけで、「いい、自分で飲む」と、若男はグラスを引く。かすかについた赤いリップクリームを拭って、若男は仕方なく、なみなみ注がれたワインを飲んだ。彼女の匂いと混じったせいか、『彼女のお酒』は、少しだけおいしく感じられた。
「そうだそうだ。忘れてた」
ふと、なにかを思い出したらしく、若女は立ち上がる。いつも勢いのいい彼女の行動に巻き込まれて、今回も、テーブルに置かれた彼女のグラスが、倒れそうになった。それを見越した残りの三人が、同時に、それを支える。
そんなことなどお構いなしに、若女は平常運転だ。粛々と頭を下げ、真っ白に変わってしまった長い髪を、垂れ流す。
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
幼児のように舌っ足らずな口調で、一言一句を噛み締めるように、言った。それから、やり切ったように清々しい顔を上げ、にこりと笑う。世界のすべてを受容する、完璧な笑みだった。
だから彼らは、改めて彼女に惹かれる。こうして何度も、幾度も、彼女はみんなを魅了した。わずかな粗相も、だから、仲間たちは許した。誰もが彼女を、好きになった。
「あの……、シンねえさんって、あんな人でしたっけ?」
ひとりで騒ぐ若女を見て、子女は心配そうに、他二人に尋ねた。
問われた二人――若男と美男は、はす向かいに顔を見合わせ、「「こんなやつだ」」、と、言った。そのシンクロに、彼らは互いに、いやな顔をしたのだった。
*
その、帰り道。
「ねえー、リュウくん。りーちゃんのお見舞い行こー?」
「いま何時だと思ってる。病院、開いてないぞ」
とうに酔いつぶれた若女が、若男の背でわめいていた。「えー、なんでー」と、わがままを言っている。
初日の出が、もう、そこまで来ている。新しい一年が、始まる。その意識を、若男はこのとき、ようやく認識した。
「シンファ」
「…………」
呼ぶ声に、返事はない。だが、若男は、彼女が聞いていることを、理解していた。
「おまえ――」
あの存在は、本当にもう、消えたのか? そう聞きたかった。
たしかにもう、あれ以来、あの存在は姿を現さない。若女の身体を乗っ取ったりしていない。しかし、まだ彼女の心に、住み着いているのではないか。その疑念は、消えなかった。
でも、聞けない。聞いたらなにかが、壊れる気がした。それに、どうせ聞いても、返事は一緒だろう。
ちゃらんぽらんに見えて、彼女は本当に、芯がしっかりしている。そうと決めたら、揺らがない。絶対に、譲らない。
「――部屋、どこだっけ?」
若男は、だから、聞くべきでないことを、聞いた。
「……リュウくん」
泥酔から瞬間、意識を取り戻したように。そういうふうに装って、彼女は酒臭い息を、若男の耳元へ向ける。締めるように回した腕に――その細腕に、懸命な力を込めて。
「おうち近いでしょ。泊めてよ」
その言葉の意味を、若いふたりは知っている。だから、言う方も聞く方も、そのつもりで、その意味を、応酬した。
少しだけ、若男は、悩んで。
「帰れ」
と、言う。
ふっ、と、鼻で笑った息が、若男の耳をくすぐった。それから身をよじって、彼女は彼の背から、逃れる。
「じゃ、また、明日」
酔いなど最初からなかったかのように、正しい言葉で、正しい足取りで、彼女は去る。飾り気のない白いワンピースには、染みひとつない。
「ああ、また、明日……」
これが正しかったのか、若男には解らなかった。彼女の思いを、自分の欲望を、理性で管理することが、正しいのか。
――だがまあ、そのわずかな焦燥は、杞憂に終わる。
数日後には、素面のままに彼らは、この日の続きを再開して、そして――。
――――――――
正しく、ふたりはひとつになった。
「家族になろうよ」
いつも通りの言葉で、いつも通りの表情で、気兼ねなく屈託なく言う。
彼女の、言葉で――。
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