見ても、その者のことはなにも解らなかった。改めて一瞬、男性の方も見る。……やはり、解らない。
男性にしては長い黒髪に、その表情を隠している。いまだ言葉も発しておらず、感情もかなり薄くしか感じられない者。全身を黒いスーツでバリッときめているが、どこも着崩していないのになぜだかややだらしなく見える。全体的に黒く、影の薄い、ただそこに控えているだけの、黒子のような、男。
そして、女神さま。確かに信仰対象とされ、『女神さま』などと呼ばれるほどの美貌に、決して豊満ではないが、端正に整い過ぎている肉体。それを開けっ広げて見せつけている。極めつけに美しいのが、生まれてから一度も切っていないのではないかと思える、長すぎるブロンドの髪。彼女の後ろにあるキングサイズのベッドを埋め尽くすほど長いのに、どの一本も乱れなく、穢れなく、毛先まで潤いに満ちて、キラキラと輝いていた。そして、地球を浮かべたように美しい碧眼。どこをとっても不自然だとさえ思うほど、美しすぎる、少女。
このふたりは、いったいなんだ?
解らない。――解らないが、ある意味、これは普通の、ごくごくありふれた、一般的な対人関係における狼狽だ。初めて会う人間に対する、当然の、警戒や、観察や、あるいは好奇心。ただ、それだけ。
しかし、『女神さま』の後ろにいる、半裸の紳士は別だ。知っているし、解る。……ここでなにをしていたか――『女神さま』が関与している都合上、完全に、とはいかないが――解る。だから少女は、顔を強く、しかめた。
「ちょっとそこの……誰だかは解らないけれど、……白雷夜冬!」
名を呼ばれて、どうやら紳士は反応した。だが、どこか虚ろに、空を切る視線は、誰をも捉えない。ただただ声のする方に少しだけ、顔を向けたのみだ。
帰るわよ。そう言って、とっとと連れ出すつもりだったが、その反応に少女は躊躇した。だから、視線をもっとも近い人物に移す。
「ヤフユになにをしたの? あなた」
「愛した」
ノータイムで――まるで少女の質問を予見していたようにかぶせ気味に、女神さまは答える。薄く笑って、自らの下唇を、濡らして見せた。
その些細な表現を、少女はもう、読み取れない。「愛した」という言葉の意味も、……だから、深く邪推してしまう。
「……あ――」
「だいじょうぶだ、貞操は奪っていない。残念ながらこの世界では、彼は君の伴侶だからね。世界は不倫に厳しいんだよ」
やれやれ。と、深く肩を落として、女神さまは嘆息した。まるで、演技のように、大仰に。
くどいようだが、もちろん、その大仰さを少女は推し量れない。はたして彼女は本気でそれを言っているのか、あるいは、ただのポーズなのか。
だから、少女も嘆息して、諦めた。
「とにかく、その馬鹿は連れ帰るわ。……文句は、ないわよね?」
少し躊躇して、少女は聞いた。やや強い言葉を用いている。それにより、受け手がどう感じるかを、今回に限り、彼女は予測できないから。
わずかに、冷や汗が出る。心臓が、跳ねる。
「もちろん文句はないが――馬鹿というのは口が悪いな」
「は? 嫁がいるのにこんなところで違う女と寝ている男を、馬鹿と言ってなにが悪いの?」
「言葉通りだよ。口が悪い」
「…………」
黙った少女を見て、女神さまは小首を傾げた。嘆息ではないが、少し肩を落とす。
「……まあ、ご夫婦の間でのことだ、僕が口を出すべきことじゃ、なかったね」
ほんの一瞬、その目になにか、感情の流れを見た少女だった。だが、それが怒りなのか悲しみなのか、蔑みなのか憐れみなのか、判断は付かない。しかしおそらく、ネガティブなそれだった。
それから、女神さまはベッドへ上って、四つん這いで紳士の元へ擦り寄る。美しい、絹糸のようなブロンドの髪を片耳にかけ、口元を彼に向けた。
「ヤフユ。奥さまがお迎えに来ているよ」
挑発的に少女を見ながら、そう、呼びかける。
それに、少女は眉間を顰めた。なにかを言ってやろう。そう思う。……本来の少女であれば、そう思った瞬間に言葉を取捨選択し、即座に言葉を放っただろう。しかし、やはりいまの少女は、言動が一拍、遅れてしまう。
その隙に、ううん……、と、紳士は眉間を顰めた。だから、文句はその馬鹿に言うこととして、瞬間、少女は安堵したのだ。
「……レイ?」
他の誰かを呼ぶ声に、自分でも驚くほど少女は、表情を痙攣させていた。
*
ぐっ、と、両腕を握り締めて、ただ自分の感情を制御するのに躍起になる。キレたら負ける。そんな気が、少女はしていた。
「レイ――」
女神さまの名を呼びながら、紳士は彼女の膝に擦り寄った。その膝に頭を預けて、安心したようにもう一度、瞼を落とす。
「ちょっとヤフユ。奥さまが来てるんだってば。起きなきゃだめだろ?」
くすくす。と、まんざらでもないように笑って、女神さまはもう一度、彼の耳元に語りかけた。
「……なんだい、レイ? ……奥さま?」
わずかに瞼を上げ、細目で女神さまを見上げる。身を起こす気配はなく、ただ少し、片腕を伸ばし、女神さまの頬に触れながら。
「奥さまだよ。君の奥さま。ノラ・ヴィートエントゥーセン」
「ノラ……?」
首を傾げて、その弾みで、紳士は女神さまの膝から、頭を落としてしまう。ずっと女神さまのみに視線を向けていた視線が、期せずして、少女の方を、向く。
「ノラ……!?」
ばっ、と、目をかっ開き、紳士は、弾かれたように上体を起こした。そのまま前傾し、土下座のようにうずくまる。瞬間、少女は懺悔の姿勢かと訝しんだが、他のふたりと違って、彼の心境は読み取れる。すぐに気付いた。
「おうえぇぇ――――!!」
嘔吐、している。呼吸すら忘れるほどに、内臓をすべてぶちまけるように、全身全霊で、吐瀉、していた。
「おいおい、ヤフユ。だいじょうぶかい? ほら、僕の元へおいで? きっと楽になるよ?」
紳士の背中をさすりながら、やはり耳元へ、女神さまは口を寄せる。甘い言葉で、誘惑する。
「さ、触るなっ!!」
それを力ずくで、紳士は払い除ける。
「いたっ!」
たぶん、余裕で躱せた。それをあえて受けた。そのときだけは少女も、そう感じ取れた。それほどにどこか、違和感のあるシーンだった。
「……乱暴だね、ヤフユ」
はたかれた頬を押さえ、女神さまは紳士へ、俯いた視線を向ける。
「す、すまない、レイ――」
だからつい、紳士は彼女へ身を向けてしまった。
そこを逃さないように、女神さまは彼を、ぎゅっと抱き留める。
「いいんだよ、ヤフユ。どんな君でも、愛してる」
その胸に埋めさせ、体温を感じさせる。視界も狭めて、鋭敏になった耳に、また、囁く。
「は、放して――」
「僕は君のものだ。好きなように、乱暴に、めちゃくちゃにして、いいんだよ」
頭を撫で、言い聞かせる。
「レイ……」
ほだされそうに、なる。また、楽な方へ流されてしまう。そう、紳士は、この数十日をおぼろげながら思い出して、なんとか、腕に力を込めた。
「放して、ください」
ぐっ、と、女神さまの肩を押し返して、彼女と目を合わせる。それでも、変わらずの、美しい笑顔だ。優しく、慈愛に満ちた、表情。
「わたしは、ノラの夫です。あなたのことは、愛して、いない」
「ん……」
女神さまは苦しそうに笑って、それでも、紳士から手を離した。それから、触れないように細心に注意を払っているような挙動で、やはり彼の耳元へ口を寄せ、
「そんなことはないと思うけれどね」
そう、言った。
むしろいま、それは証明されたんだ。そう、続ける。だがその言葉は、再度嘔吐を始めてしまった彼の耳には、どうやら届いていなかった。
*
「君が羨ましいよ。ノラ・ヴィートエントゥーセン。彼にこれだけ愛されてさ」
女神さまが言った。
「それは嫌味なの? なんだかたくさん、見せつけておいて」
少女が言った。まだ怒りは治まらないが、血が出るほどに握り締めていたらしい拳は、解けている。
「それを本気で言っているのなら、君は偽物だね」
「どういう意味よ?」
やはり彼女の内心は読み解けない。だが、それでも、おそらく彼女が本気で紳士を『愛している』だろうことは、少女にも――少女だからこそ、理解できた。
「ひとつだけ負け惜しみを言っておこう。彼には特別なことはなにもしていない。僕には君と同じことが――あるいはそれ以上のことができるけれども、そういう力はなにも使っていない。僕はただ、彼を愛しただけだ」
どうやら、紳士が女神さまにご執心していたことを言っているようだ。そういう機微くらいは感じ取れる。だが、『力』とは? そう、少女は首を傾げた。
そのことを女神さまは、容易に見抜いているのだろう。ただいたずらに、笑んだ。
「君と同じだってば。ここにある――」
女神さまは自身の頭を――銃口を向けるように――指さして、言う。
「『シェヘラザード』なんかは使っていない、ってことだよ」
また、少女を見下ろすように見て、女神さまは真実を、突き付けた。
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