「……なんだって?」
しっかりと聞き取った言葉に、その否定を求めて、男は疑問を投げかけた。
だが、ひとつの舌打ちでの肯定に、男の期待はあっさりと、裏切られる。
「イライラするって、言ってるの」
自身の言葉に責任を持つように、少女は解りやすく、表情をゆがめた。さきほどより、よほど、大きく。
「おい、ノラ……」
「なによ」
気安く呼んだ名前に、娘がたいそうな、嫌悪の表情を浮かべた。それを見て、男は息を飲む。
「いや、えっと……」
「はあ……」
たじろぐ男に、少女は大仰に、ため息をついた。
「なにを言うかも考えてないのに、適当にわたしの名前を呼ばないでくれる? 煩わしいのよ」
「…………」
そこまで言われては、もう、無暗に言葉を発するのもためらわれた。
少女は、たいへんにご機嫌ななめだ。……などと、男はなんとか自分に言い聞かせる。が、さすがにもはや、そんな思い込みでは、騙せそうもなかった。
その隙に、またも少女が、ひとつの息を吐く。沈黙さえも、苛立ちの原因になると主張するように。
「ねえ――」
少しだけ、柔らかい口調に戻り、少女は口を開いた。
「誰よりも正しいはずの行動が、誰にも理解してもらえない気持ちって、あなたに解る?」
疑問形にしてはいるが、彼女はとうに、その答えを知っていた。そのような、男を見下すような響きが、たしかに含まれている。
「いや……」
なにか、フォローを入れたかった。だが、男にそんな器量はない。いや、器量があろうとなかろうと、いまの少女に、口先だけの言葉など無価値だろう。それくらいは、男にも理解できた。
そんな男の返答に、少女は「でしょうね」と、小さく呟いた。また嘆息しそうに息を吸ったようだが、それを荒々しく吐くことだけは耐えたようだ。普通の呼吸のような様子で、ただしく息を吐く。
「じゃあ、努力もしないでなんでも、理解できてしまう気持ちは?」
失望するような、暗い瞳で、少女は問う。男はそれにも、同じ答えを返そうとした。だが――。
「どんなトップアスリートよりも、強靭な身体を持つ気持ち。簡単に瀕死の傷すら治ってしまう気持ち。実年齢すら超越して、成長も退行もできる気持ち。未来を正確に予知できる気持ち。それに――」
「もう、やめろ――」
「みんなの気持ちが、解ってしまう気持ち」
「…………」
そんな気持ち、解るはずがない。男はそう思った。
だが、言えない。世界に絶望するような少女の顔を見て、そんなことを言うのは、残酷だ。そう、男は思った。
しかし、だとしたら、なにを言えばいい? ただ話を聞けばいいのか? いや、いまの少女は、思いをぶちまけたくらいですっきりできるほど、簡単ではないだろう。
とはいえやはり、口先だけの言葉では、彼女は救えない。
「どういうふうにしたら気に入られるか、解るのよ。まるで数式を、坦々と解くみたいに。……でも、人間関係って、そうじゃないじゃない。みんな、相手の気持ちが解らないから、もやもやして、一言一言に、どきどきして。そうやって近付いたり離れたりして、ぶつかったり、すれ違ったりして。それでやっと、少しだけ理解し合って。だから嬉しいんじゃない。ああ、わたしはこの人が、好きなんだなあって、理解して。この人はわたしを、大切に、してくれてるなあ、って、解って……」
少女の緑眼から、宝石のような雫が、こぼれた。小さな身体をもっと縮こまらせて、懸命に、歯を食いしばっている。
「もういい、やめろ――」
そんな少女など、見ていられない。なんと言われてもいい。不機嫌でも、怒られてもいい。とにかく男は、少女の語りを止めようと、声を上げた。
「人間は、解り合えないから、関わり合うの。解らないあなたを知りたくて、解らないわたしを知ってほしくて、怖いけど、苦しいけど、関わろうとするの。なのに、わたしは――!」
「もう、やめてくれ、ノラ――」
なにかにすがるように、男は自身の頭にあるボルサリーノを、掴んだ。自分を叱咤するように、強く、強く、頭を抱える。
「わたしは、どうすれば好きになってもらえるかを、知っている! ……見ないようにしてきた。みんなの気持ちを、読まないようにしてきた。……でも、だめなの。ふとしたときに、無意識に、理解しちゃうのよ。わたしの頭は……『シェヘラザードの遺言』で発達した、わたしの洞察は、わたしの意思とは無関係に、正解を導き出す――!!」
「――――っ!!」
少女が唐突に感情を吐き出すから、男も気圧された。怒りも、悲しみも、思い切り発露している。
それは、男へ向けたものではない。この、美しくも残酷な、世界へ向けた、感情だ。
「……これでも、がんばってきたのよ。きっとうまくコントロールすれば、心を読まなくて済む。普通の人みたいに――普通の可愛い少女として、みんなと関われる。……だけどね、どうしても考えちゃうの。わたしはがんばって、みんなの心を読まないようにしているけれど、本当は無意識に、正解を選び取っているんじゃないか、って。わたしはやっと、大切な『家族』たちと出会えたけれど、それもぜんぶ、わたしのこの、洞察の力で手に入れたんじゃないか。本当のわたしはもっとべつにいて、その姿じゃみんなと仲良くなれないから、だからこんな少女が、できあがってるんじゃないか。って――」
「違う――っ!!」
このままでは、少女は壊れる。男は思って、ただしっかりと、彼女を抱き締めた。砕けてしまわないように、彼女が自ら、崩壊してしまわないように。
「おまえはおまえだ! ノラ! ガキみてえに生意気で、でも、ガキながら大人びて。悪態は多いし、俺のことは馬鹿にするし。そのくせ自分を可愛いなんて思ってやがる、性格の悪いガキだ!」
いまの彼女に、やはり、思ってもいない言葉は届かない。だから男は、自身が思っていることだけをただ、まくし立てた。
「だが、本当は繊細で、傷付きやすい。いま話してくれたみてえに、細かいことまで気にして、ひとりで抱えてやがる。大人びた性格のせいで、やすやすと誰かに相談もできねえ。不安や不満があっても、なかなか言い出さねえ。ノラ。おまえのそれは、おまえだけの性格だ! おまえらしさだ!」
ぎゅっ、と、少女が両こぶしを握るのを、肩への力の入り方で、男は理解した。自分の言葉は、伝わっているだろうか。そう、男は悩む。だが、続けるしかない。
少女がなんと言おうと、少女がどれだけ、洞察の力を持つといっても――。
やはり人は、語り合わなければ、理解し合えない。そう、男は信じているから。
「おまえのそれは……優しさだ、ノラ。自分の不安を吹聴せず、自分だけで解決しようとして。過度に仲間を――家族を思いやるから、苦しむんだ」
男は、少女の頭を撫でた。その中にある最後の『異本』。それを感じる。
最後まで、『異本』は俺たちを、傷付けやがる。だが、悪いことばかりでもない。こうして少女と、出会えたのだから。
少女と出会い、多くの家族と出会い。絆を、愛を、感じさせてもらえたのだから。これほどの幸福を、得たのだから。
だから、最後に――。
『シェヘラザードの遺言』に、打ち勝たなければ――! そう、男は、思うのだ。
「そんなおまえの優しさを。……いろいろムカつくことはあるが、飾らねえおまえの性格を、態度を――」
ふっ、と、少女の肩から、力が、抜けた。
「そんなおまえを、俺たちは、愛している。だから――」
とん。と、ふいに軽く、男は押し返された。抱き締めていた少女が離れて、同じ高さで、視線を交差させる。
「ありがとう、ハク」
涙のあとを拭って、少女は、笑った。
「ありがとう。……もう、いいわ」
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