1990年は、若男にとって怒涛の一年となった。
一月――。彼は若女と将来を誓い合い、家族となった。それゆえに、終わらせるべきことと、始めるべきことが、いくつもいくつも、湧き上がってきた。
まず、大学を卒業しなければならない。イタリアの大学の卒業制度は、学生の自主性に重きを置いている。つまるところ、いつでも、必要なだけの単位を取得し、最後の口頭試験さえクリアすれば、卒業できる。
だが、ことはそう、簡単じゃない。イタリアの大学は入学に比して、卒業が難しいことで有名なのだ。これには微妙なからくりもあって、イタリアではファミリービジネスが多く、子が親の職を引き継ぐことも多いことから、大学を卒業する必要性が低いゆえに、中退者も多いのだとか言われている。とはいっても、イタリアの大学を卒業するのがそもそも難しいことは、変わらないのだけれど。
しかし、この点に関して、若男は問題なかった。彼や彼の仲間たちは、すでに十分、卒業できるだけの知見を得ていた。一般的な教育課程の勉強に関しては、まだ危ういかもしれない。だが、『先生』の教育や、彼に付き従い、数々の最先端研究に同行した経験から、理論ではない実践的な学習を経験していた。いうなれば、大学での勉強の範囲を、とうに超えていたのだ。その経験を活かせば、卒論発表会をパスすることは容易だろう。
二月――。とはいえ、簡単な話ではない。できるかできないかで言えば、彼にとってボローニャ大学の卒業は、十分に可能で、容易な話だった。だが、卒論の準備に関しては、時間がかかる。彼はその点、真面目で、用意周到な男だったから、準備はコツコツと続けてきたが、それでもまだ、完成には程遠い。
だって彼はまだ、この居心地がいい落ちこぼれの教室に、とうぶん居座る腹積もりだったから。だが、どんなことにも終わりはくる。若女との未来のため、彼は、巣立つことを決めたのだ。
三月――。ゆえに、この二か月を、ほとんど卒論の完成に充てた。たった二か月だ。それ以前から準備はしていたとはいえ、短い期間だった。
それでも、彼は成し遂げた。仲間たちとの大切な時間も、ないがしろにすることなく。適度に遊び、適度に息抜きをしながら、やり遂げた。
この二か月を、彼はあまり、記憶に残していない。それだけ密度が濃かった。まるでうたかたの夢のように、一瞬の出来事だった。ほとんど睡眠もとらずに研究し、また、遊んでいたこともその原因だったろう。
四月――。その夢から醒めたのは――醒まされたのは、このころだった。卒論も完成した。あとは発表会を行い、卒業するだけ。ゆえに、タイミングとしては、ちょうどよかった。
*
「おい、リュウ」
紅色の長髪を揺らしながら、その美男は、早足に若男へ近付いた。
「ラージャン。どうした? 今日も飲みに――」
昨夜のアルコールがまだ抜けていない。あるいは、寝不足で頭が回っていない。どちらにしても酩酊な状態で、若男は対応しようとする。
「これは八つ当たりだ。おれは理屈じゃなくて、感情で行動する。だが理屈は解ってる。だから偉そうに、講釈を垂れんな」
「…………? なんの話だ?」
「いいから。歯ぁ食いしばれ。ほれ、三、二、一――」
「――――!?」
唐突のことに、なにがなにやら解らず、若男はとりあえず、全身を強張らせた。言われた通りに、歯を食いしばる。どうなるのか、なにをされるのか、その理解は容易かった。だが、理解と同時に、現実が頬を抉る。
「くっ……。なんだというのだ」
踏ん張ってみたが、無駄だった。若男は殴り飛ばされ、地に転がる。
「それをてめえが知らねえから、おれが殴りにきたんだよ。どうして、てめえが殴られる理由を、おれが先に、知ってんだい」
「だから、なんの話だと――」
「少し黙れ」
転がった若男に近付くように、美男は腰を下ろした。その表情は、本気だった。本気で怒っていたし、本気で、それを堪えようとしていた。だから、若男も、言葉を飲み込む。
「てめえは、ムカつく。気に障る野郎だ。初めて会ったときからそうだ。どっか気取ってやがってよ。自分はすげえ。賢くて、教養があって、てめえらとは違うんだよ、と、態度で語ってるようだったよ」
「俺は、そんなつもりは――」
「解ってるってんだよ。それもてめえの処世術だろ。舐められたら終わる。自分の欠点を知ってるやつほど、虚勢を張るもんだ。おれだってな……。だが、てめえはちゃんとすげえやつで、ちゃんと賢しかった。いい男だったよ。だから、心配はしてねえ」
「…………」
若女のことだ。そう、若男は直感的に思った。だが、その具体的な内容は、思い当たらない。彼女と家族になること――結婚することについては、すでに一月に、話しているし。
「だからよお、もっと、ちゃんとしろ。てめえ、忙しさにかまけて、シンファとちゃんと、話せてねえんじゃねえの? ……いや、違うな。解ってるよ。シンファはおまえにだから、打ち明けづらかったんだろう、ってな」
「シンファが、どうしたんだ?」
「…………」
呆れるような表情で、美男はわずかに、口を噤んだ。本当に呆れたわけではないだろう。彼はちゃんと、解っている。
だからそれは、理解していても飲み込みきれない、ただの、感情だ。
「てめえは、てめえとシンファと、ふたり分を抱えると誓ったんだ。だが、これからはそれだけじゃ、足りねえ」
そう言うと、彼は若男に、手を差し出した。若男を引き起こし、対面し、しっかりと、目を見る。本気の、目で。
「これからは、三人分だ。そしてあるいは、今後もっと、増えていく。重くてもしっかり、歯ぁ食いしばって立ってろ。辛いときは言え。代わりにはなれねえが、手くらい貸す」
じゃあな。と、すれ違いざまに若男の肩を叩き、美男は去った。彼がその場からいなくなる――そのくらいの時間だけ、若男は呆けて。
すぐ、全力で、駆け出した。最愛の女性と、そして――。
彼女とともにいる、もうひとつの、新しい命に、触れるため。
*
五月――。考えることが増えた。いや、彼だって想定していなかったわけじゃない。むしろ、そのつもりで彼女とは接してきた。だが、現実を目の当たりにすると、想定以上に、頭が混乱した。
ともあれ、彼は人生計画を、わずかに修正した。差し当たっては卒論発表だ。発表会自体はもう、いつでもできるだけに用意を整えたが、そんなことに気を回している余裕はなくなった。
卒業後、どうするか。卒業しようしまいが、どちらにしろ、現在、安定した収益がないことは変わらない。だが、それなりの資産があるのもまた、変わってはいない。とはいえ、彼女と新しい命のために、最低限の社会的地位と、安定した収入は得ておきたかった。結果として彼は、起業することを決める。
六月――。若男は、人付き合いにストレスを感じる性格だ。だから、ある程度の限られた仲間たちとのみ接するような、そういう立場を選んだ。居心地のいい場所を守りたい。居心地のいい場所を、続けていたい。そんな、モラトリアムを永続させたいとでもいうような、子どもじみた発想でもある。
ともあれ、仲間たちに声をかけた。その声に、ほぼ全員が乗ってきた。唯一、美男だけを除いて。
「てめえの下なんぞごめんこうむるね。おれも起業するよ」
と、彼は言った。
七月――。最後の詰めを行い、卒論発表会に臨んだ。とはいえ、すでに卒論の内容に関しては、『先生』からオッケーをもらっている。そのうえで発表会にて落ちることは稀だ。若男は問題なく発表会をクリアし、そのまま卒業した。
八月――。起業のための準備と、『家族』で住む、新しい住居探し、あるいは、仲間内で行われる、簡単な結婚披露宴などをセッティングする。
大学こそ卒業したが、頻繁にあの、落ちこぼれの教室には顔を出していたし、若女の体調を気遣ってか、子女や才女も訪ねてきた。結果、特に変わり映えのない生活が、まだ、続いていた。
九月――。若女と、新居に移り住んだ。結婚披露宴を行った。
住まいは、若女の故郷である、台湾に決めた。若男自身も中国の生まれだ。故郷に近い空気を感じる台湾には、居心地の良さを感じた。
結婚披露宴は、本当に仲間たちだけの、ささやかなものだった。普段の酒の席と大差がない。場所すら、彼らの思い出の、教室を使ったくらいだ。
十月――。事業計画がまとまってきた。
事業計画書に関しては、特段に必須というわけではなかった。小さな会社を立ち上げ、運営するくらいならば、手持ちの資産で賄えたから、銀行へ貸し付けを求めに行く必要がなかったからである。だが、堅実な若男ゆえに、企業のための準備は、しっかりと行っていた。
十一月――。起業に関しては、ほとんど準備を終えた。いつでも走り出せる。だが、そろそろ予定日だ。動き出すには、小回りが利かない時期でもある。
ゆえに、少しだけ、彼は休んだ。それまでないがしろにしてきたつもりもないが、これまで以上に、若女のそばに付き添い、彼女との時間を、大切にした。
十二月――。そして、その命は、この世界に生まれ落ちたのだ。たくさんの希望を、祝福を、その身に、宿して――。
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