『ありがとう。レーン』
その機械生命体は、極めて優しく、大男に触れた。『もういいよ。もう、いいの』。合成音声とは思えない、これまた優しすぎる声音で、彼の力を抜く。娘たちを覆う、その腕。それ以外の全身に入り――入りすぎていた力を、抜かせる。
「EF……? ……メロ、ディア?」
機械生命体の声に視線を向ける。だがその過程で、気付いた。直感的に、彼女を、感じた。
「メロディア、なのか?」
その問いに、機械生命体は応えない。だが――。
「ママああああぁぁ――!!」
「ママ……っ!!」
その娘たちには、慨然と、伝わっていたようだ。理屈ではなく、そうなのだと。
『ソラ。元気そうだね。シドも、しっかりした顔つきに、なったね』
機械生命体は娘たちを抱き、言った。まだ、バチバチと漏電している。その火花が、わずかも娘たちに振りかからないように、過保護すぎるほど注意しながら。不自然に歪んだ、合成音声で。
それでも、実子たちには伝わる。見た目が違っても、声が違っても。もしかしたら、その『心』さえ、本来のものとは違っていたとしても。それが本物なら。
その行動と、言葉と、気持ちが――本物なら。
「メロディア。……はは……どうだ、見ろ。だから、大丈夫だと、言ったのだ」
大男は震える声で、いつかの続きを語る。大丈夫だ。きっと助かる。そう息絶える彼女へ伝え続けた、その、続きを。
だが、それも長くはもたない。仮に意識を――人格を機械に移植できていたとしても、その機械が壊れかけている。これでは結局、またすぐ、彼女は『死ぬ』。
大男は首を振って、己が身を奮い立たせた。
「とにかく、すぐに修理――治療を施そう! 主教! 小僧! すぐに――」
さきほどとは別の大声で呼びかける。だが、その言葉を、冷たい手が、止めた。
『…………』
娘たちを抱きながらも、片腕を大男に添えて、機械生命体は、その頭部を、横に振る。表情なるものは作れないが、その雰囲気は、動作は、諦めのような優しさに溢れていた。
それを大男は感じ取って、理解した。理解、できてしまった。
「メロ……ディア」
もう、彼女が、決意していることを。決して、諦めたのではない。ただ強い決意で、その、機械の体を、永遠に離れる気、なのだと。
『もういいの、レーン。わきちは、幸せだったから。幸せに生きられた、から』
だから、子どもたちのことは、お願いね。後ろ髪を引かれるから、彼女は心の中でだけ、そう、大男に、告げる。いまの――力加減を覚えた彼なら、大丈夫だと、そう、信じて。ただ、願って。託して。
心残りがないわけではない。そうも、理解する。それでも、それを振り払っても、決意したのだ。
そこには、いろいろと理由があったろう。その姿で、そのような存在で、生き続けることが辛いのだ。自らにとっても、大切な仲間――家族たちにとっても。いまはよくても、きっと、将来に軋轢ができる。特に、子どもたちだ。こんな存在を、母と思い続けるのは難しいだろう。それに、こんな奇跡も、いつまで続くか解らない。ならば、まだ、意識のあるうちに。この感情が、『本物』だと思えているうちに。そう、彼女は思ったのだ。
どうせ一度、死んだ身だ。こんなわずかな時間でも、また幸福な世界に目を開けて……それだけで、よかったのだ。もう一度、子どもたちに会えただけで。みんなに会えただけで。それで――。
まったくもって、幸福な、人生だった。そう、彼女は思った。
*
『……ハクのぼっちゃん』
彼女は言って、男を振り返った。
「……なんだよ、お嬢ちゃん」
男は応える。腰を上げて、彼女の元へ、寄る。
ふ……、と、彼女はエラーを流すように、吐息のような音を吐いた。
『わちきはお嬢ちゃんじゃない。喧嘩売ってる?』
「そんなつもりはねえよ。でも、その気なら相手になるぜ」
『……そう?』
彼女はふいに、片腕を挙げた。指先をしなやかに振るって、指揮を執るように。
「待て待て待て待て!! 冗談だろうがよ!」
男は本気でうろたえた。土下座――こそしなかったものの、両膝をつき、再度地べたへ腰を降ろす。
ふふふふ……。だから彼女はやっぱり、笑った。
『うまく、いってる?』
「あ? ……ああ、まあな」
なんの話かと思ったが、危なげなキャッチで、それをなんとか、汲み取った。
『異本』集めの件だ。彼女が知っている男の生きる理由など、それくらいしかないはずだから。
『なら、よかった』
生前の――いや、生身だったころの彼女と比べたら、あまりに穏やかな、笑みだった。変わり映えのない、機械生命体の表情。そこに、男は確かに、いつかの娘子の表情を、重ねられた。
『わちきの、この、『異本』。ぼっちゃんにあげる』
自身の脳を指さし、彼女は言った。
「いい……のか?」
男は問い質す。願ってもないことだが、しかし――。そう、彼女が抱いている娘たちや、大男を見た。彼女らや、彼に、遺すべきものなのではないか。そういう、意図で。
しかし、それも矛盾した感情だ。どちらにしたところで、どのような大切な一冊で、誰がどんな思い入れを残していても、男は、一冊のもれなく、すべての『異本』を蒐集し尽くすと決めている。どうせいつか手に入れるのに、その前に誰かに継承させることを慮ったことは、矛盾であり、むしろ残酷なことでもあるだろう。
『いいの。……受け取ってよ。わちきの、大切な、……お友達』
男の曖昧な気遣いを、その持ち前の認識力で把握してか、彼女はそう、言った。
彼女自身、悔いを残さないように、すっぱりと終わらせたかったのだろう。今度こそ、この世界から旅立つために。みっともなくふらふらと揺蕩ってしまった意識を、還すために。
「ああ、そうだな。……てめえは俺の、大事な友達だ」
ボルサリーノを目深に落として、男は言った。
本当は――。
エルファ・メロディアは、命を落とした2021年十二月にて、享年28歳だった。そして同年氷守薄は――そのとき彼は別の惑星にいたわけではあるが――31歳だ。だから――という、近い歳の差も相まって、男は、本当は――。
彼女、エルファ・メロディアを、妹のようだと、思っていた。
義理とはいえ何人かいた兄弟たちは、みな、年上だったから。自分より下の世代の兄弟に対して、少しは憧れもあった、ということもある。
だが、そんなことは、表情とともに隠したまま、別れることとする。そんなこっぱずかしいこと、いくら今生の別れとはいえ、そうそう言えるものではない。
『…………』
そしてそれは、……彼女にとっても同じことだった。
だから、動かない表情筋でだけ、示して。
――ガチャガチャガチャガチャ――
その体を操作して、肉体の内から、約束のものを提示する。
『じゃあね、ぼっちゃん』
いつも通りに、別れよう。そう、彼女は、笑んだ。
「じゃあな、……エルファ」
男と違って、彼女があの呼び方を、心底嫌っていることは知っていた。だから、せめて。『妹』とは呼べなくても、妹に接するような、呼び名で。
男は、差し出された部品を、照れ隠しのように受け取った。そのまま、即座にこと切れる……というわけでもない。まだ少し、CPUからの命令は、彼女の体を駆け巡る。思惑の信号が、流れる。
幸せな時間を、ありがとう。……お兄ちゃん。
その表情、微塵も動かなくとも。その感情は、満面に。
最高の笑顔を携えて、彼女は、今度こそ本当に、逝った――。
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