『存在の消滅』。
メイドの持つ『異本』、『ジャムラ呪術書』に備わる能力のひとつ。その『異本』、『ジャムラ呪術書』が閉じられている限り永続的に発生する、直径五メートルほどの範囲へわたる、存在の消滅だ。その範囲内にあるものは、まさしく、その存在を、消滅させる。見えもしないし、その消えた物体が発生させる音や匂いも、外へ拡散しない。
本来、常時発動型として、アンコントローラブルに常に発生するその現象を、『ジャムラ呪術書』に適応したメイドは、コントロールできる。『ジャムラ』を閉じていても『存在の消滅』を発生させないようにできるし、逆に、開いた状態で発動させることすら可能だ。
あるいは、その能力を、使用者であるメイド自身に付与し、外敵から感知されないようにもできる。だがこの技は、適応者とはいえ、メイド自身が己の存在を忘れかけ、精神的に参ってしまうデメリットがあるため、あまり多用はできない。
ともあれ、彼女はこの数年、この能力を何度も使用し、身体になじむほどに利用してきた。その『毒』は、彼女の精神を少しずつ、蝕んだのだ。
精神への、侵食。あらゆる『異本』には、多かれ少なかれ、これがある。それをWBOは、『毒性』と名付けた。精神を蝕む、毒だと。
そしてそれは、あるいはEBNAにおいても、その研究の中で、似た現象を観測していた。つまるところが、『極玉』による、精神支配だ。
そして、あまりに酷似したこのふたつの『毒』は、いつしかメイドの中で、混然一体となってしまった。それは、彼女自身――あるいは、彼女の中にいる『もうひとりの彼女』にすら感知できないほどに、ゆるりと、じんわりと、進んだ。そして、気付いたときにはもう遅い。それはもはや、彼女の――彼女たちの一部となってしまっていたのだ。
それは、彼女と彼女を、もう一段階、人間から昇華させる。
すなわち、『神の領域』へと――。
――――――――
いったい、なにを自惚れていたのか――。執事はこの数分の間に、何度も同じ感情に捉われた。
「ちょこまかと……ウサギかっ!」
「ええ、ウサギです」
一対一での、この女性との戦闘など、数年ぶりだ。いいや、正確には、世界の時間軸としては、十数年ぶりか。そう思う。地下世界で過ごしたことにより、現実世界との乖離ができてしまった、その代償。
彼女と最後に戦闘訓練をしたのは、まだお互い、EBNAに所属していたころ。執事もたいがいだが、メイドは、組織の歴史的にも、もっとも幼少の頃より訓練を受けてきた存在だった。ほとんど、生まれたときからずっと、である。
そんな背景も相まってか、彼女は本当に、優秀だった。ゆえに、執事は、彼女に一対一で勝利したことなど、一度としてなかったのだ。
「相変わらず、攻防ともに、バリエーションが少ないですね。力任せに押すのはおやめなさい」
「抜かせっ!」
パターンは、たしかにある。それは執事自身も、理解していた。
だが、一定の攻撃方法。それらの組み合わせや、発動方法、行動順。あるいはときおり混ぜる特殊行動をも踏まえて、ざっと億を超えるような一連の動きを、すべて的確に対処できる彼女の方が常軌を逸しているだけだ。少なくとも執事は、仮に自分自身を相手取ったとして、その攻防にすべて完璧な対処をできるなど、その程度ですら想定できない。
であるのに、このメイドに――姉のように慕い、師のように崇めたこの人に、どうやって勝てばいい? なぜ張り合えると思ったのか? やはり執事は、その自惚れに後悔するのであった。
「くそっ……!」
当てさせても、もらえない! その現実に、執事はつい、舌を打った。
いまの彼女は、特異な力により、その存在を消滅させることができる。そのように、執事は理解していた。実体でありながら、虚像のように。幻のようにその実体を、有耶無耶に消し去ることができる。
ならば、彼女はいま、攻撃を受けてもいいはずなのだ。どんな攻撃を受けて、仮に『死』に達するダメージを受けても、彼女はいま、大丈夫なはずだ。あの、倍返しの雷撃を受けても、いまだ存在していることがその証左である。
で、あるのに、ちょっとした攻撃のひとつも、受けてさえくれない。躍起になって繰り出す執事の猛攻を、涼しい顔で躱し、受け流すのみだ。
「ダフネもたいがいだが――」
元、EBNA、最強のメイドを想起し、その幻影を執事は、眼前に見るようだった。
「あなたも相当だ。アルゴ姉っ!」
気迫を込めて繰り出した一撃も、やはり、最小限の動きで躱される。そしてそのまま、彼女はその腕を掴み――
「私など、まだまだ――」
「くっ――!!」
執事の言葉に合わせたのか、メイドは掴んだ腕を、すっと引き寄せ、覚束なくなった執事の足元へ、攻撃を仕掛ける。相手の力を利用し、弱ったところへ、最小限の力で対応する。あの、組織の誰もが憧れ、畏れた、戦術で――。
執事はとうとう、みっともなく転がされる。
「あのお方の、足元にも及びません」
それは、謙遜に聞こえた。それほどに、いまの執事にとっての彼女は、途方もない壁に思えたのだ。
本当にいったい、なにを自惚れていたのか――。執事は改めて、そう思った。
*
そうだ、心を削る気だったのだ。それに気付いて、わずかに執事は、意気を取り戻した。いつまでも彼女に翻弄されるわけには、いかない。
「さて、そろそろ『異本』を――?」
彼女は『異本』を回収するための時間稼ぎを――さらには、執事の心を折り、その後の逃走を成功させるための準備を、行っていたのだ。
まったくもって、甘い。執事が彼女にとっても、少なくとも最低限、傷付けたくない相手であることも、わずかばかり作用しているのかもしれない。だがそうだとしても、甘い。
ことここに至って、互いに無傷で、事を収めようなどと――。
「なあ、アルゴ姉」
まったく、不甲斐ない。そう、執事は思う。そして改めて、女性の強さを知った。
あのお方が、命と、それよりもよほど大切な誇りをかけて作り出した『隙』だ。執事は、全身全霊をもって、それを活かさなければならない。
「俺は、まったく甘かった。まだ貴女に、遠慮していた。あるいは、お嬢様にも」
「…………!?」
メイドも、気付く。だが、一瞬だけ、もう遅い。
「貴女は、殺そうと思って殺せる存在じゃない。お嬢様は、ただ俺が、守るだけの存在じゃない。……懸命でよかったのだ。俺は、もう少しわがままで――」
――『強欲』でも、よかったのだ。
「『完全開放』」
大丈夫だ。この精神を奪われようと、この心は消えはしない。
彼女を相手取るには、これくらいでちょうどいい。そして、彼女はこの程度で、死にはしない!
「今度こそ、必ず――穿ち抜きなさい、『鳴降』!!」
けたたましい光は、雷閃のそれではない。その持つ『異本』が、輝く姿。
「ガーネット――!!」
まったく、間の抜けたことだ。メイドはそう思う。
どうして、殺したくらいで死んだと思ったのか? そもそも彼女は、死人だ。そこから異能によって復活している。であれば、一般的な人体を殺傷する程度のことで、どうしてまた、死に至ると思ってしまったのだろう?
どれだけ『神』に近付こうと、結局自分は、人間だった。それはメイドにとって喜ぶべきことでもあったが、しかし、この状況を前にしては、悔やまずにはいられない。
執事は、劣等感を抱いていた。自分よりもよほど優れた女性に対して。
だがメイドも、劣等感を抱いていたのだ。なんとまぶしい、まっすぐな弟に。馬鹿みたいな『強欲』を、ともに歩む異性と出会えた、羨ましい後輩に。
だが――。
「まとめてかかっておいでなさい。その『強欲』――叩き折って差し上げます」
だからこそ、負けるわけにはいかないのだ。
己が存在を、認めるために。
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