美しい銀髪をはためかせて、ぎりぎりの裾丈を、わずかに気にする。
「十四歳」
その女の子は、はにかんで言った。
「ここがぎりぎりです。あんまり露出しちゃうと、それはそれで、可愛くないですから」
くるん。と、一回転。その遠心力で、いま少し裾がふわりと持ち上がるけれど、それでも、大切な部分は守られている。まるで、世界の理を掌握した、超越者の挙動のように。
「て、てっ、てててててててて――」
学者は、突然の来訪者たちを見て――そのうちのひとりを見て、腰を抜かす。
「――天使や……」
あわあわとわななき、崩れた。
「はぁい、天使です。よろしくお願いします」
女の子は小さくかがんで、ひらひらと片手を振った。嬉しそうに。
だけど。と、女の子は声を落とす。
「あなたは悪魔に魅入ってしまっていますね、メイリオ・フレースベルグさん」
つ……、と、行儀悪く指をさす。女の子は、それと同時に、冷たい氷のような水色の瞳を、向けた。
*
ふと、学者は我に返った。己が『虚飾』に則り、苛立ちを覚える。
ただ、可愛らしくそこにいるだけなら、大きく許容するだろう。敵意なく話してくれるなら、多少の戯言は見逃す。しかし、完全に自分を見下し、あざける相手に、無性に学者は、憤慨した。
それでも、力がなければ、諦めていただろう。心の中だけで悪態をつき、自分自身の『虚飾』を守るだけでよかった。しかし、いまの彼には、力がある。
己が目的を達成し、実現させるだけの、力が――。
「『マート・バートラル』。『kq』――」
眼前の美しい女の子に、その顔に、若干のためらいが生まれた。――そう思った。ひんやりとした、首筋の感覚。
「……はい」
女の子は、間を開けてから、にこりと微笑んだ。
なんでもない問いに、頷くように。
そのように振る舞い、うろたえる学者を、一瞥する。……見下す。
「お探しの『異本』は、こちらに」
そう言うと、女の子は――いつの間に握っていたのか、その手に、呼ばれたばかりの二冊を、抱えて見せた。――かと思えば、それは嘘のように、消えてなくなる。
「ま、待て……。『マート・バートラル』。『kq』。君たちは、僕を認めてくれたんじゃないのか? 僕の才能を、世界に誇るこの天才を、後世に残すために――」
「はてさて、はたしてこの世は、夢かうつつか。あなたはなにを見、なにを感じた? この、小さな箱庭で……。ねえ、メイリオ・フレースベルグ」
残念。もう時間です。
唐突に女の子はそう言って、立ち上がった。腰が抜けたままの学者を、置き去りにする。
「どこのどなたか存じませんが、ありがとうございます」
空五倍子色の装丁。その『異本』も、すでに学者の手にはない。それは元来の所有者、ゾーイ・クレマンティーヌの手に、収まっていた。
『啓筆』、序列九位、『フォルス・エンタングルメント』。量子を操る『異本』。
「いいえ。あなたはおひとりで対処できた。ただ、その労力と時間を、二割ほど削減できたかと」
女の子は乳白色の装丁を見せびらかし、小さく笑う。かと思えば――あれ? 司書長は一度、目を擦った。
女の子……女の子? いましがた十四歳ほどだった――ように見えた――その女の子は、あら不思議、いまこの瞬間には、まるで六歳くらいにしか見えない。いまだたどたどしい、女の子だ。
ぶるぶる。と、首を振る。
いまはそれより、こいつだ。
「さて、あなたは、どこへ行きたい?」
心とは裏腹に、司書長は、満面に笑んで、優しく言った。
ひいいぃ! 学者は、怯えたまま、後ずさる。
「熱帯。乾燥した砂漠。獰猛な生命に富んだ密林。寒冷地。氷床に覆われたカルスト。あらゆる病原菌すら生存できない極寒。それとも地底? 天上? 宇宙? 異次元にでも、その天才的な頭脳が研究すべき世界は、たくさんあるね」
(ごめんなさいごめんなさい! すべてはこの僕が、このメイリオ・フレースベルグが、悪かった!)
「解けちゃえ」
誰の目にも見えない極小――世界の最小単位にまで、学者は、砕けた。
――――――――
「びっくりした」
幼女は言った。あまりに淡白な感想だ。
「軽すぎるよ、ラグナさん。……シロ。あれはいったい、どういうことだ」
まあ、なんとなく解りかけてはいるけれど。そう、男の子は思った。
「あい?」
女の子はすっとぼけた。……ように、男の子からは見えた。問題は、女の子が、あのときのすべてをとぼけて隠そうとしたことじゃない。男の子が、それを即座に、理解できないということだ。
これは、精神干渉か? 男の子は思う。だが、だとしても、精神干渉であるかどうかくらい、理解できてしかるべきだ。本来の、『シェヘラザード』の力なら。
「魔法が解けたんだよ、クロ」
気が逸れていた。そのタイミングを見計らったように、それは、天上からのお告げのように、聞こえた。
その声がした方を、男の子は見る。いまだすっとぼけているのか、よだれや鼻水を少し、だらしなく拭いもしないままの、女の子を。
「魔法……? 才能。才能か!」
男の子は、なんとか残っているそのかけらを集めて、真実に迫る。頭が良くない。それがこれだけ、思考に対するストレスとなるとは思わなかった。
「おれとシロの才能を、消したのか? シロ」
「シロがやったなら、とっくにあとかたもないよ。それに、消えるんじゃない。還ってくるの」
今度は、取り繕わなかった。女の子は、六歳の、女の子の姿のまま、流暢に、言った。
「人間の才能には、代償が必要。シロたちはね、失っていたものを、取り戻すんだよ」
「おまえの場合は、それか?」
言って、男の子は自身の頭を小突いた。
だが女の子は、首を横に振る。
「クロと同じ。『異本』を使う力。さっきのが最後。もうシロには、『ムオネルナ異本』が使えない」
だから、こうなってるんだよ。そう、女の子は言った。
「シロは、『ムオネルナ異本』の毒に罹っていた。ごく一部の『異本』は、その力が強すぎて、扱う者の精神を狂わせる。ときには別の人格が乗り移ることだってある。だけど、扱うだけの力がなくなれば、その毒も消える」
「『異本』を扱う力――『親和性』がなくなっている、ということか」
「それは正確じゃない。シロたちが、『ムオネルナ異本』や『シェヘラザード』を扱えたのは、『親和性』が高かったからじゃない。もっと根源的な、『異本』との、『因果』」
「『因果』……」
呟いて、男の子は、「はっ」と、吐き捨てるように、笑った。
「もういいや。おれにはもう、なにも解らない」
帰ろう。そう、おおざっぱに切り捨てて、男の子が先導した。慌てて、幼女が彼を追う。
女の子は、その背を、見つめた。それから、一度、振り返る。
さようなら、『ムオネルナ異本』。シロは正しいシロの箱庭へ、戻るよ。
不要となったから、置いてきた。あの場所ならあの『異本』の終着点には、適切だろう。そう、女の子は思う。瞬間だけ手に入れた賢しさで、判断する。その力も、もうすでに、靄がかかり始めているけれど。
「シロちゃーん!」
置き去りにした女の子を、幼女が心配そうな目で、そう呼んだ。
女の子は、正しく、応える。
「あ~いっ!」
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