三つ目を食べて、さすがの男もダウンした。しかし、うまいものを懐に忍ばせていると気分が上がるものである。これだけ美味しいのだから、冷めても十分にうまいだろう。そう思って、余った二つは、男の懐にしまわれた。大切に。
「まあ、なかなかね。あなた、ご主人の息子さん?」
満腹で少し座り込んだ男を放っておいて、少女は店員に問う。
「親父を知ってんのか? つーか結局、誰だよ、あんた」
「お客さんよ、言ったでしょう?」
少女は答えた。道端に座り込んだ男の元へは、スラムの子どもたちが群がっている。男は気が大きくなったのか、小銭をガンガンばらまいていた。
「答えになってねえんだよ、ったく……どわあっ!」
嘆息して、いきなりその店員は前のめりにつんのめった。そんな彼の後ろには、いつの間にか、ものすごい形相をした強面の男性が立っている。
「の、の、の、ノラちゃん!」
その強面が歯をガチガチと打ち鳴らし、驚愕の表情で、少女の足元にすり寄った。
「あら、ご主人」
「だいぶ久しぶりじゃないか! また来てもらえるとは! 知っていれば、俺が対応したものを……!」
少女と、その連れ立った者たちの様子を見て、やや顔を青ざめさせる主人。
「も、もしかしてうちの息子が、みなさんにロールを……? ああ! なんてこった! 俺が、もう少し早く帰っていればっ!」
「いいのよ、ご主人。息子さん、いい腕ね」
「そんな馬鹿な!」
今度は吐き捨てるように、主人は言い、自らで突き飛ばした店員を――自分自身の息子を、見る。
「まだまだ、パラタの焼き加減も、タマゴの調理も、具材やソースのバランスもめちゃくちゃで……、ああ、いま、ちゃんとしたものを、みなさんに振る舞いましょう」
「もう十分よ、ご主人。見ての通りみんな、食べ過ぎてるわ」
男だけに飽き足らず、実は幼女もだいぶ満腹で、眠そうな目をしていた。女流は座り込んだ男の背に、むしろ座っている。
「そうか……。また、時間があったら寄ってください。今度こそ最高のロールを振る舞いますから」
「ええ、ありがとう」
笑顔で少女が返すと、ようやっと息子が、横から割って入ってきた。
「で、誰なんだよ、この人ら。親父の知り合いか?」
「馬っ鹿野郎!!」
加減ない拳骨が息子を襲う。彼は再度、スラムの道端に転がってしまった。
「おまえ、五年前までのこと、なんも覚えてねえのか。当時ノラちゃんがやってきてくれなかったら、ここにいる何人が死んでたか解らねえ。治安、衛生、なにより教育。おまえがそうして普通に話せてるのも、ノラちゃんの教育あってのものなんだぞ」
静かに、言い聞かせるように、あるいは呆れるように主人は言った。だが言われた息子は、なんのことか解らない。五年前程度であれば、彼も十二分に成熟していて、当時の記憶がまったくないなどということはないはずだが。ましてや、そんな、主人が言うほどの急激な変化があったというなら、なおのこと。
「ちょっと言い過ぎよ、ご主人。わたしは、ただ通りかかったから、少しみんなとお話してただけ」
少女が少しだけ嫌そうに言うと、主人は嘆息して頭を押さえた。
「そうだよなあ。ノラちゃんならそう言うだろうから、俺もかなり控えめに話してたけど。……だが、ノラちゃんがどう思っていたかは別に、俺たちは救われてるんだ。ガキでも理解できる形で。恩を忘れるようなやつは、ろくな大人になれねえ。俺が怒ってんのはそこなんだよ」
憐れむような目で、息子を見る。切れた口内から血を吐き出し、息子はもう一度立ち上がった。そうして、ちらりと少女を見る。
「ご主人、会えてよかったわ。わたしたち、そろそろ行かないと」
だから少女は汲み取って、その場を離れようとする。実際にそろそろ、時間が近い。
「あ、ああ、俺も会えてよかった。旅の無事を、祈っている」
主人はせめて、深々と頭を下げ、少女を見送る。少女と、その、家族たちを。
*
「で、なにやったんだよ。おまえ」
休んで少し満腹も治まったのか、男はそれでも、まだ苦しそうに、少女へ尋ねた。
「たいしたことないわ。あのあたりの子たち、いろいろ技術を持ってたのに、それを扱えないでいるの、もったいないと思ってね。あのご主人は人並み外れた味覚と嗅覚。それは、料理人として生きることを宿命づけられて生まれてきた、ってほどのレベルだったわ。他にも、手先が器用な子には編み物とか手芸を、耳のいい子にはこのあたりの需要を理解するために、いろいろ語学と、経営学とか経済学を、かいつまんで教えた。まあ、基本的な、このあたりでよく使われるベンガル語とか、算数とかの一般知識もついでにね。治安がどうこうってのは道徳を説いただけで、衛生面は、……これは買い被りね。あの当時、そういう施策が偶然、政府から施行されていたってだけ」
「そういうこともやってたんだな、おまえ」
「彼らには悪いけど、『異本』蒐集の一環よ。おかしいのよ、あのスラム。才能を持つ子が多すぎる。しかも、磨けば世界最高峰にまで達するほどの逸材が、ごろごろと」
その『才能』を開花させた力が、『異本』によるものと考えた。そしてその『異本』を探すついでに、この地に留まった。だから少女にも、崇められる覚えがないし、そういう扱いを受けることには少し、罪悪感もあったのだ。
「そりゃ、いったい――」
どんな『異本』だ? 男は声には出さずに考える。全体から考えると、さほど多くの『異本』について知識を持っているわけではない。それでも、きっと、世界では有数なほどに『異本』に詳しい自信はあった。『先生』が他界する前から、その『先生』の知識をも含めて、長く、『異本』の情報収集ばかりが、彼の趣味だった。その彼の見識から言っても、人間の才能を開花させる『異本』なんて――。
あるとすれば、あれくらいしかない。だが、それはありえない。いまではもう、隣を歩く少女の頭の中にしか、それはないはずなのだから。
「結局、見つけられなかった。たぶんわたしも、『異本』への親和性が低いのね。このあたりにある、か、どうかも解らない。だけど、あの子たちの才能が、まだ成長しているのは感じる。きっと近く――コルカタのどこかにあるのだろうけれど、さっぱり気配を感じないわ。親和性どうこうじゃなく、わたしの、この目をもってしても」
少女の洞察力は、すでに神の域に達しようとしている。日常のわずかな営みから、世界情勢にまで見識が及ぶほどに。その少女が、近くにあるはずのものを見つけ出せない。それは、これまでに相当、少ない経験だった。
「ま、ここにはシロとクロ、ふたりと出会えただけで十分に、来た価値があったけれどね」
いまはローマの屋敷に預けているふたりを思い出して、少女は笑った。
*
「まったく、おまえは――」
「名前聞いて、なんとなく思い出したよ。……マザー・ホワイトだろ?」
スラムに視点を戻して、ロールの店の、主人と息子。
「……思い出したんなら、そう言え」
呆れた嘆息に、息子は舌打ちして返す。よもや恩人のことを忘れていたとは、あるいは、幼心の淡い初恋のことなど、絶対に言えない。それに、あんな姿じゃ、解らないに決まっている。姿形が当時と変わっていない。であるのに、内心はずっと大人びたような――。
「それとその名前、マザーの前では使うんじゃねえぞ。あの子はただの、うちの客で、名前はノラちゃんだ」
「はいはい」
反抗的に言って、息子は主人の隣に並び立った。そのロール作りを手伝うために。
マザー・ホワイト。その呼び名は、このスラムでの彼女の呼ばれ方。当然、この地で多大な活動をした、現在では聖人とまで呼ばれる、マザー・テレサを引き合いに出してそう、名付けられている。彼女が設立した、コルカタにある、『神の愛の宣教者会』では、いまだに『マザー』と呼ばれるべきはテレサだけ、と、現在でも神聖視され、かの会の代表者ですらいまだに『シスター』を名乗り続けている。もちろんそんなことは、スラムに住む彼らには知らぬことではあるが、その最上級の敬意を込めて、少女のことを『マザー』と、そう呼ぶのだ。
なにか、思惑があったのだ、ということは、実際に少女の口からも聞いている。だが、そうだとしても、やはり救われたのは事実だろう。それに、人間には、誰かを愛し続ける心が必要だ。自らの心を救う、神の存在が。己が人生の、希望のために。
スラムの先から、そこに住まう子どもたちの、無邪気な声が響く。
「お、来たな」
嬉しそうに、主人は笑った。タイミングぴったり。十分すぎるロールが、ちょうど完成したところであった。
「ほら、とっとと配ってこい」
それが、彼らの朝の日常だ。すべての者を、ずっと救い続けることはできないだろう。『マザー』ですらそうだった。それでも――。
「うっせえな、解ってるんだよ」
いま、目の前で貧困に喘ぐ彼らの、一食を満たしてやるくらいなら、まあなんとか、余裕がある。
その『余裕』を生んでくれた彼女のことを思い出し、彼は笑った。
「おら、朝飯だぞ、ガキども!」
こうして、『愛』は継がれて行く。裕福でも、貧しくても。世界中、どんな人々の間にでも。
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