空気が、変わった。明らかに、なにかが違う。そう、麗人は感じた。
これまでの殺伐さは薄れた。であるのに、その雰囲気は、これまでとは比較にならないほどの、力と、自信を感じさせる。
いったい、どんな人生を歩めば、こんな空気を纏えるようになるというのだ? ……いいや、違う。
はたして、どんな人たちと出会えば、こんな人になれるのだろう? ただの感覚でしかないけれども、麗人は即座に、眼前の相手に対して、そう思った。
まるで、神の御使いにこの世界に生まれ落ちた、聖女のようだ。と。
「みっつ」
指を立てて、突き付ける。そうしてからパリピは、あくびを漏らすように表情をゆがめた。辛そうに。
「――か、よっつかいつつ。もしかしたらふたつかも。解らんけど、時間ないから、悪いけどうちに話させて。そのあとは、好きにしていい」
「は、はい!」
ふと、恐縮してしまう。姿かたちは変わらぬパリピだ。だが、その中に在る人格に、圧倒される。
「ひとつ。放っておいても、うちは――この身体は、あと小一時間ほどで崩壊する。このままうちが意識を保てられれば、の、話だけれど」
掲げた三本指を一本にして、パリピはそう言った。
「ふたつ。リュウ・ヨウユェはうちには止められない。ゾーイ・クレマンティーヌはうちには止められない。あるいは――」
ふたつ目の指を持ち上げる。だがその指はすでに、半分が崩れ落ちていた。それに眉をしかめるように、パリピはさらに、表情をゆがめた。
「ハバキ・ソナエはうちには止められない。つまり、かなちゃんに提示できるメリットが、うちにはない」
小さく、長く息を吐き、目を閉じる。痛みを鎮めるようでもあり、先に紡ぐ言葉を考えるようでもあった。
「みっつ。だから、これは、ただのわがまま。……ちょっと用事ができた。急いでる。ここで手打ちにして、見逃して」
「それは……」
思わず、声が出た。麗人自身、それには驚いた。
彼女は、彼女自身、自分を『普通』だと思っていた。思い込もうとしていた、という意識があったことは認めている。しかし、その思い込みにもいつからか慣れ、それは本当に、本当の本心だと、近年の彼女には定着していたはずだった。
だが、ここでふと、麗人は悟った。
私は、『普通』じゃない。
いや、あるいはそれも、『普通』の感情なのかもしれない。だがしかし、いまここで彼女は――稲荷日夏名多は、自分の本心に気付いたのだ。
誰でもいいから、自分のこの手で、誰かを殺したい、と。
*
というのは、語弊がある。『誰でもいいから』は、おかしい。正確には、『関係者なら誰でもいいから』、だ。ここで言う関係者とは、もちろん、彼女の父親である若者の死に関する、『関係者』だ。
麗人は、自分自身、付き合いのようなものでこの戦いに乗り出したと思っていた。憎らしい気持ちはある。やりきれない思いはある。それでも、『普通』の感情として、痛みを痛みで返すのは間違っている、と、そうも理解しているのだ。
だからきっと、殺したいほどの憎しみは本物でも、実際に手を下すところまではいかないと、そう『普通』の自分を信じていた。どこかで折り合いをつけて丸く収めるつもりだ。そう、『普通』の自分を信じていた。
信じていた、その自分が、いま、心の中で暴れている。耳元にまで上がってきた鼓動が、やけにうるさく、鳴り響く。それが思考を阻害して、純粋に憎しみだけが、煮え滾る。
殺したい殺したい殺したい殺したい。
どうせ死ぬから、とかじゃなく。反省して償うから、とかじゃなく。復讐からはなにも生まれない、とかじゃなく。『普通』は殺すまでしないでしょ、とかじゃなく。
いま、私は、純粋に。
憎い誰かを、この手で。
手ずから、殺したい。
「勝――手なっ! ことをっ――!」
ギリリ――。と、奥歯を噛み締める。腹の底から、自分のものじゃないような声が、低く唸る。でも、鼓動の音で、麗人自身には、聞こえない。
「よっつ!」
前傾しかけていた麗人を抑え込むように、パリピは、すでに根元から折れた小指を、開いた。
「まだ話は終わってないよ、かなちゃん。……この肉体を殺す方法。それを考えるなら、手を出さない方がいい。『Log Enigma』は、強制的な死者蘇生の『異本』。その力が残っている限り、肉体は朽ちても、無限に再生する。だけど、依り代となる肉体自体はお粗末なものでね、『異本』の力がなくなれば、すぐに崩壊する」
「…………っ!」
聞いている。麗人は、パリピの話を聞いている。理解もしている。
だが、耳元で鼓動が、ガンガンうるさい。それを言い訳に、しようとしている。
「いつつ」
五本目の指を、伸ばす。その瞬間、それらの指はすべて、同時に崩れ落ちた。痛みにあえいでいたパリピの表情が、そこで逆に、安堵に笑んだ。
「これで最後。聞き終えたら、煮るなり焼くなり好きにしな。……気付いていると思うけれど、うちは、ライジンを――あなたの父親を殺した連中とは、べつの人格だ。そもそもうちは一度、死んでいる。とうの昔。かなちゃんが生まれるより以前に、すでに。うちはあなたの仇じゃない。そのうえ、このうちを消すことは、あなたが本当に憎む相手をまた、この世界に戻すことにすらなりうる。……なら、いったいあなたは、なにをしようとしているの? 理解しているはずだよ。それは、ただの――」
憂さ晴らしだって。
笑って、嘲り。もはやない指を、突き付ける。
「……『削痩拳』。基本編」
思うより先に、足が出た。膨れ上がった感情を、ただ、発散したくて。
どうやら、語弊ではなかったようだ。
麗人は、いま、『誰でもいいから』と、そう、思っていた。
「大抉終式。『翻舞林』っ!」
とうに、後悔している。もうずっと前から、麗人は後悔していた。
きっと、本当はどこかで、彼女自身、解っていたのだ。こうなることを。
私の『普通』は、もう終わりだ。結局――結局。ダメなやつはなにをやったって、ダメなんだって。
だから、泣きながら麗人は、綺麗に磨かれたその爪を、向けるしかなかったのだ。
*
その、鋭く磨かれた爪は、パリピの身体に届く直前に、止まった。かすかな風圧だけ、パリピの、真っ白になってしまった髪を揺らす。触れてはいないけれど、表情を形作る細胞が――とうに壊死していたはずのそれが、一片、粘土細工から剥がれるようにして、落ちた。
「ううううぅぅ――ああああああぁぁぁぁ――――!!」
届かず止まっても、まだ搔きむしるように、腕を伸ばす。果てしない大海に投げ出されて、溺れ、もがくように。
『やめろ! お嬢!』
彼女を止めた鳥人が、声を上げる。それでも加減なく麗人は空を掻く。だから、鳥人の纏う炎が、ゆらゆらと忙しなく、揺れた。
「どいてっ! 放してよっ! ヤキトリっ!!」
『放すものかっ! お嬢! 冷静になれっ!』
伸ばした腕どころか、全身で暴れて、麗人はもがく。実体のある鳥人だ。だからこそ麗人を物理的に留め置けるのではあるのだが、見境なく暴れる彼女に、鳥人の身体も傷付く。
傷自体は癒える。鳥人の身体は――力は、癒しのそれだ。しかして、自我を持つ彼となったいまでは、傷付くのは、身体だけにとどまらない。
「そのために来たんだからっ! お父さんの仇を、討つためにっ!」
『ならばなおさらだ! あの者の話を聞いてなかったのか!?』
「聞いた……! でも、それが嘘じゃないなんて、解らないじゃないっ!」
『いい加減に――』
片時も力を緩めない麗人に、精神的に参り始めた鳥人は、押され始める。だから、背後を窺い、目配せをした。
ブルーのジェルでかたどられたワニが、得心したように首を回す。
『リオ。いまのうちだ』
「……うん」
パリピは、憐れむように麗人を見て、踵を返す。口を開き、なにかを言いかけるが、どうやら言葉は、飲み込んだ。
そのまま、彼女は、扉がある方とは逆向きに駆け出して、躊躇もなく、窓ガラスを蹴破った。地上十階。驚くほどの超高階層とまではいわないが、十二分に人体を死に至らしめる高所から、ひとっ飛び。
「逃げるっ! お父さんの仇がっ! ああ、ああああぁぁぁぁ――――!!」
『お嬢っ!!』
呆れ――というより、やはり憐れむように、残されたワニが首を振る。数秒後――ちょうどパリピが地面に着地したころだろうか。そのワニも、呼応するかのように、融けて、消えた。
パリピの持っていた『異本』は、その部屋に残されたままだ。いちおう、目的のひとつは達成している。
だが――――。
WBO本部ビル。地上10階。『特級執行官 モルドレッド私室』での怨恨。
稲荷日夏名多の、敗北。
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