リオ・ブリジットの母親は、敬虔なカトリックだった。そう、彼女は信じている。
父親の顔は知らない。その存在も、痕跡も、彼女は知らない。母親は、ひとりでに妊娠したと言っていた。あなたは神の子。聖人――聖女なのだと、そう言われ育った。
いまにして思えば、それは嘘だったろうと解る。だが、母親は嘘をついているつもりはなかったろう。そう、彼女は思う。
ただ、そう信じ込んでいただけなのだ。きっとそう信じてでもいないと、母は自分を、保てなかったのだ。そう、成長して彼女は、理解した。
自分を捨てた母親だ。しかし、恨んではいない。母はそのすべてを、神様にささげた。そのために、子どもの存在が邪魔だったのだ。寂しさこそあれど、しかし、ひとり立ちできるまでに育ててくれた母を、彼女は、尊敬している。子どもを産んだ。だが、その責任を果たしたのちの行動なのだ。誰が母親を責められるだろう。そう、彼女は思う。
修道会には、嘘をついただろう。各々の修道会による規則に多少の違いはあれど、既婚者や、子持ちの女を、シスターとして迎え入れるはずはない。仮に夫と死に分かれても、おそらく無理だ。だから母親は嘘をついた。だが、それがなんだ。神様にその身を捧げる行いが、それを心底から望む者の行動が、たとえ罪に覆われようとも、誰も傷付けてなどいないのだから、間違いなはずはない。そう、彼女は信じている。
だが、そんな母親とは対照的に、リオ・ブリジットは、信仰心を授かることなく、生まれ落ちた。母親に、聖女だと言われ育てられようと、彼女は、神様の言葉なんて聞いたこともないし、その存在を感じたことすらない。彼女は極めて、現代的に育った。
それでも、自身を特別だと思う気持ちは、いくらか根付いている。聖女だ。そうとまでいかなくとも、きっと少しは、誰かを救う力があるはずだ。それくらいの『特別』はあるはずだ。だって、あの母親の子なのだから。
リオ・ブリジットは、誰かのための存在だ。自己のためじゃない、他者のための存在だ。せめてそう生きよう。せめてそう思おう。尊敬する母親を手本に。尊敬する母親のように――。
――――――――
「へぇい、リピートアフターミー。チョリーッス」
横ピースをキメて、子女は楽しそうに、そう言った。
『ちょ、ちょりんす……?』
可愛らしく小首をかしげて、若女が――彼女の中の存在が、戸惑いがちにリピートした。
「ノンノン。よっく聞いてね。チョリーッス」
『チョリーッス』
横ピースにウインクまで添えて、完璧な挨拶である。
「おっけぇい。んじゃ、次。パイオツカイデーチャンネーイルヨー」
はい。と、子女はリピートを迫る。
『ぱ、パイオツ……? 問う。此れは、如何なる折に用いる言語か』
「あー? そんなんフィーリングよ。クレマンとかに言えばバッチグー」
『実に。今一度』
「よし、いくよー。パイオツカイデーチャンネーイルヨー」
『パイオツカイデーチャンネーイルヨー』
「バブリー!」
「バブリーじゃねえよ!」
唐突に若女の声は高くなり、拳も高くから振り下ろされた。
「りーちゃん! 私はイシちゃんに、一般的な若者の言葉遣いを教えてあげてって言ったの! りーちゃんのは、ちょっと違う!」
「痛ったあ……。なんで殴るかな!」
「そりゃ殴るよ! だいたいだいたい、どこで使うのよ! パイオツカイデーチャンネーイルヨー!」
「たしかに、うちもフアたんも、ぺったんこだしね」
若女は静かに視線を下げ、再度、持ち上げた。
「りーちゃん」
「うん?」
「こういうのはね、スレンダーっていうの」
『実に』
「実に、じゃねえ。イシちゃんには言ってない」
『うににに……』
頬をつねられ、彼女の中の存在はうにった。
「もう、変な言葉覚えさせないでよ……。こういうのは、最初が肝心、肝心なんだから」
「めんごめんごー」
『めんごめんごー』
「覚えなくていいの!」
『うににに……』
言葉の教育は、続いた。
*
それから、数か月が過ぎた。
「チョリーッス。時間はかかったけど、やっと一通り教え終わったよ。ご開帳~」
「ご開帳はやめなさい」
叱るように、隣に立つ若女が言った。呆れたように。
それにしても心配だ。そう、その場の誰もが思った。若女自身ですら。
すう、と、息を吸い、心の中に呼びかける。この数か月で、中にいる存在はまるで膜にでも引きこもったように、その存在を感じにくくなった。当初こそ、若女はその存在を、常に喉元あたりのすぐ近くに感じていたというのに。
いやな、感じ。そう、彼女は思った。
だが、とにかくはいま、やるべきことを。そう思い直し、改めて、呼びかける。
『我に名はない。だが、とりあえずはイシと、そう呼ぶといい』
おお……! と、にわかに声が上がった。おそらく人類など超越しているだろう存在との、これがファーストコンタクト。だが、そんなことよりも、思いのほか普通の語彙を用いていることへの、感嘆だった。
『人類に隠し立てすることなどなにもない。疑問があるなら、答えてやろう』
という、流れだった。本来、若女の中の存在に問答するなど、誰も考えていなかった。言語を解するからと言って、話が通じるとは思えなかったから。それに、若女の身体を乗っ取らせての問答となる。その点についての危機感も、強くあったから。
しかし、若女の思い付きで中の存在に言葉を教えているさなか、形式的であれコミュニケーションをとっているうちに、どうやら普通に話ができそうだと思えたのだ。それは、多くの言葉を交わしたからでもあるだろう。しかし、やはり、結局は彼女――若女に、中の存在も心を許したのだ。そう、思った。
誰ともでもなく、誰もが、そう思ったのだ。
「まず、目的はなんだ」
超越的な存在を前に、委縮した。その一瞬の間を破ったのは、『先生』。
『それを問いたいのは我の方だ。我は世界の理。その一端。我に意思などない。我は意思ある者に使役されるもの』
中の存在は、そう答えた。
「で、今回はなにをするように、指示されてんだい」
美男が問う。
『指示……とは異なる。あくまで意思だ。なにをするか、については、知っているはずだ。六合――世界の、再編だと』
中の存在は、そう答えた。
「その意味が解りません。つまりあなたは具体的に、なにを為すと?」
才女が問う。
『この世界に、いまだない概念を創造する。具体的には、『書物』に、『力』を付加する』
中の存在は、そう答えた。
「『書物』に、『力』……? それって、いったい、どんな」
子女が問う。
『多種多様だ。森羅万象。あらゆる『力』。……いや、ある意味では違う。その『力』は、あくまで一個の形態。それは――『箱庭』だ』
中の存在は、そう答えた。
「『箱庭』……?」
若男が、言葉を紡ぐ。
『形のままに質を得るのだ。『書物』の中に紡がれた世界が、それぞれそのもの、『力』となる。我が与えるのは、『書物』がその存在を、自ずと確立する『力』。それを用いて、いかなる『異能』を得るかは、その『異本』次第』
中の存在は、そう言った。
そして、続ける。
『簡単に言おう。世に、我を含めた幾百の『異本』が誕生する。それらは各々、それぞれに見合った超越的な性能を持つようになるだろう。そしてその存在は、ここよりさかのぼっていかなる過去にも、最初から存在していたことになる』
言葉は、まだ続きそうだった。しかし、いまだ語り続けているかのような様相で、聴衆を見渡す若女の口からは、瞬間、言葉が途絶えた。
「『因果』……」
低い声だった。しかし、それはもう、若女本人の声。そう、誰もが解った。
彼女は、すべてを知った。このとき、すべてを知ったのだ。
このさき、なにが起きるのか。世界に『異本』が生まれることで、どうなるのか。
これは、語ってはいけない。語られてはいけない。
人が踏み込んでいい領域じゃない。そう理解して、若女は、中の存在を押し退けて、還って来たのだ。
『因果』。中の存在が、その内心に抱いた言葉。あと少しで、語ってしまうはずだった言葉。語られてはいけない、人知の及ばぬ領域の話。
それを飲み込んで、世界の行く末を、ひとり抱えて。
――瞬間。彼女の美しい黒髪が、見る見るうちに、真っ白に染まった。
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