離反。その言葉に違和感を覚える。しかし、その不穏な表現が、彼女の行く先を暗示していた。
「まあ、そりゃそうだろうよ。むしろよく着いてきてくれたもんだ。……それで、じいさんのところにでも帰ったのか?」
落胆。思った以上にその感情があったことに男は驚き、しかし、努めて冷静に、理性的に対応した。少女の言葉への不信感を押し留めるように。
「いいえ、違うわ。確かに一度、ローマには寄ったはずだけれど、挨拶程度だったはず。……他にもいろいろ寄ったはずだけれど、最終的な行き先は――」
「エディンバラか」
男は先取りする。やや食い気味に。
その言葉に、少女は本当に驚いたように、間を溜め、目を少し見開いた。
「知っていたの? だって、あなたはあの施設のことを――」
「知らねえよ。知りたくもねえ。……だが、じいさんの書斎に入ったとき、一冊だけ目についちまった」
「エディンバラ・バトラー・アンド・ナニー・アカデミー。EBNAね。だったら、あのおじいさんも知っていたというわけ? はあ……」
少女はため息をつく。とすれば、もしかしてあのローマで感じていた胸のざわつきは、そのことだったのだろうか、と。
「だったら、あのおじいさんも関わっていると思う? 資金……知識や、人脈。そういうものを出資していたり――」
「断言はできねえが、俺は、そうは思わねえ」
しかし、やけに自信たっぷりに、男は言った。
その曖昧さを。そして、理屈ではない願望を汲み取って、少女は言葉を紡ぐ。
「そう。じゃあ、確認しなきゃいけないわよね」
「ああ、だから、もう一度行くぞ」
ローマへ。
その言葉は、視線で交わした。二人にしか解らない、意味を含んで。
*
その背に、異質な空気を感じ取って、男は振り向いた。
「お姉ちゃん」
だから、反応したのは、少女が先だった。部屋の隅から起き上がり、男に背後から近付いた女に気付いていた、少女が。
「妾も連れていけ。どうせローマじゃろ」
男と少女が口にしなかった言葉を口にして、女は言う。その意図は汲み取れない。だが、どことなく決意を胸にしたような、神妙な面持ちで。
「おまえが、なんの用だよ。じいさんに」
「じいさん? ……ああ、あやつか。あんな者に興味はない。ただ、ローマでやることがあるだけじゃ」
「なんだよ。まだ蒐集する『異本』がローマにあるってのか? あいにくだが、どうやらほぼすべての『異本』が、いまではここにあるらしいぞ」
「違う。……妾は、『異本』集めから降りる」
「はあ?」
男は声を裏返して言った。頓狂に。
そんな男を無視して、女はコートの内ポケットから、赤い装丁の『異本』、『箱庭百貨店』を取り出した。それを逡巡したのち、紳士へ、女は手渡す。
「これは、汝にくれてやる。好きにせい。……まあ、これだけはまだ、渡せんが」
言って、女はいつの間に『百貨店』から取り出したのか、藍色の装丁、『嵐雲』を見せびらかす。くしゃ。と、紳士の頭を乱雑にひと撫でして。
「おい! どういうつもりだ、ホムラ!」
「どうもこうもない、末弟。そもそも、ノラの勘定にはその中の『異本』も含まれておる。それをくれてやろうというのじゃ。感謝されこそすれ、なじられる覚えはない」
「そりゃ……そうだが」
どこで起きたのか。あるいは最初から狸寝入りだったのか。女は少女の言った『勘定』という言葉を使い、そう言った。しかし、男にとってそれは、腑に落ちるはずもない。あれほどに固執していた『異本』集めを、女がこうもあっさり諦めるとは。
「いまの汝なら、きっと理解できるのではないか?」
女は言う。その、どうとでもとれる言葉は、しかし、一筋の光を注ぎ、男の心の一部を照らし出す。……いや、ともすればその逆か。
注ぐのはあるいは、闇なのか。
「まあ、汝はどちらにしろ、もう遅いか」
女は言った。すると、部屋を出て行こうと、扉があったはずの場所に足を向け、進む。
「やはり妾は一人で行く。残り十冊になったら声をかけろ。これを賭けて、正々堂々、戦ってやる」
女は立ち止まり言うと、振り返り、犬歯を剥き出し笑った。軍帽を持ち上げ、再度、『嵐雲』をひけらかす。
「姉さん!」
言うだけ言って出て行こうとする彼女に、紳士が立ち上がり、声を上げた。
「おかえりなさい。……そして、いってらっしゃい」
あらゆる言葉を飲み込んで、それだけ。
自分たちはここで待つ。その意図だけを盛り込んで、言った。
*
女の撤退を呆けて見送った後、男は少女へ視線を戻す。そうして合った少女の目は、不自然なくらいに真剣だった。
「なんだよ?」
「べつに」
そうは言うが、その表情は変わらずの真剣さで向けられている。
「あなたは、続けるの?」
少女は言う。
「やめる理由があるか?」
男は答える。
だから少女は、かぶりを振った。
男の答えは完璧だ。その声音、表情。間の取り方に至るまで。だから、心配なのだ。その曖昧な質問に、その問う意味に、それほどまでに簡単に思い至ることができるほど、男はそのことを胸に留めている。そういうことだから。
「ローマに行くの、やめましょうか?」
「どういう意味だ?」
「よく考えたら、メイちゃんが離反しようが、『異本』集めに支障はないわ。エディンバラには数冊の『異本』があるけれど、それもメイちゃんとは無関係だし、それに――」
「待て待て、なにを言ってるんだ? おまえは」
本当に意味が解らず、男は言葉を制止する。だから、少女はため息をついた。
「すべてを選ぶことはできないのよ、ハク」
少女は、静かに、それでいて語気を強めて、言う。
「残りの六十数冊、はっきり言って、ほとんどすべての所在が解っているわ。でも、それもいまとなっては、他の者たちにも周知のこと」
「だから?」
男は解りやすく声を荒げる。向けるべきでない相手に、怒りを向けて。
「いくつかの『異本』は、特定の人物に渡るだけでもう、歯止めのきかないものもある。……数年前、戦争が起きたわ。国家間のそれじゃなくて、『異本』を巡る、宗教戦争のようなものだけれど。それで、『異本』そのものが世界に知れ渡った。これまで影に潜んでいた『異本』蒐集家も世に出始め、発見されていなかった『異本』も世に晒されるようになった。いつ、取り返しのつかない結果になるか、正直、わたしにも解らない」
少女は冷静に言う。それでも、決して揺るがない意思を体現するような口調で。
「だから、なにが言いたい? 言ってみろ」
少女の意思が伝わるから、男も気を静め、問う。
「メイちゃんは、自分の意思で出て行った」
「自分の意思だと?」
「それが教育の結果だとしても、彼女の意思よ。……とにかく、自ら出て行った者を追って、時間をロスすることは、その、取り返しのつかない結果を招く可能性を、上げることになる」
「だから、見捨てろってことか?」
「酷い言い方ね。だから、メイちゃんは自分で出て行ったのよ?」
「助けろって言ったじゃねえか!」
男は叫んだ。回りくどい言い方にも、ここで勧められる提案にも、なにもかもに苛立って。食卓を、叩きつけて。
すると、そばで遊んでいた女の子が、不意に泣き出した。
*
女の子を連れて、紳士は隣室へ。だから間が空き、感情も落ち着く。
「メイちゃんを助けてほしいのは、わたしの勝手なお願いよ。だけど、ハクは『異本』を集めたい。だから、可愛いわたしは中立の立場で、情報を提示しているだけ。一刻も早く蒐集しなければ、もう、いくつかの『異本』は、取り返しがつかなくなるまで遠ざかる可能性がある。可愛いわたしの、この慧眼から、冷静に判断した結果よ」
それが現実。と、少女は腕を広げる。水平に保たれた天秤のように。どちらに傾くかを推し量る、アヌビス神のように。
「そうか、解った。じゃあ、一刻も早く、助けに行くぞ」
と、忙しなく腰を上げる男に、少女はようやっと、笑った。
「そう。諦めるのね、あなたも」
「……諦めねえよ。だけどな。正直、どうでもいい」
男は言う。立ち上がり、背を向けたまま。
「この数年で、大切なやつらがやけに増えた。俺にはもったいないくらいのいいやつらが。……だから、俺はそいつらを裏切れねえ。『異本』集めはいまだに、俺の悲願だが、それでも、『家族』を見捨ててまで欲しいもんなんて、もうこの世界にはねえんだよ」
男は言った。コートの襟を改めて締めて、ボルサリーノを押さえて、振り返る。そうして、合った。無邪気に、いたずらに、微笑む少女の目と。
「よかった」
少女は言う。きちんと少女のように、無垢に笑って。
「あなたは変わらないわね、ハク。……可愛いわたしも久しぶりに、あなたと一緒に旅がしたかったの、ちょうどいいわ」
立ち上がり、伸びをひとつ。それで準備はすべて完了したかのように、少女は息を吐いた。
「行きましょうか、ハク。……最後の旅へ」
*
「あー、ところで、なんだ。おまえら、結婚したのか?」
女の子を泣き止ませて、戻ってきた紳士を見て、男は、少女に問うた。
「したけど。……え、見て解るでしょ、それくらい」
呆れたように、少女は言った。
「ちょっと、ノラ?」
「なによ、本当のことじゃない」
「そうだけど――」
紳士と少女が言葉を交わす。その距離感に、男はたじろいだ。
「まあ、そりゃおめでてえことで。……じゃあ、いまさらだが、祝いの言葉を言うべきだな」
「いえ、ハクさん。ちょっと待ってください」
慌てた紳士を置き去りに、男は、礼儀正しく頭を下げた。まるで、娘を嫁に出す父親のような姿で。
「結婚おめでとう、ノラ。ヤフユ……頼んだぞ」
「あの、ハクさん。だから――」
顔を上げ、紳士の肩を叩く男。その対応に、紳士はやや、青ざめる。
「それにしてもガキまでいるとはな。しかもけっこうでけえ。いつの間に?」
「ハク」
少女が笑いをこらえるように、言った。
「シロとクロは拾ったの。あなたやジンと同じよ。身寄りのない子どもたちを拾って、育てているの。それでね、親権者適格として都合がいいから、戸籍上の配偶者になってるだけ」
「うん?」
「ちなみにパラちゃんたちも養子に入れたわ。いまではみんな、戸籍上も本当の、家族よ」
「うんん?」
「だから、べつに父親気取らなくても大丈夫」
ぶはっ……!! 少女は唾を飛ばし、過去最高に行儀悪く、笑った。
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