日の暮れかけた猫空を、連れ立って歩く。ゆったりとした歩調だ。腕を絡められ、歩きづらいからである。
腹ごなしに、あてもなく歩いた。だが、小一時間も歩いたころ、違和感に気付く。
「……どこだ、ここ」
男は、問うでもなく呟いた。特段、どこに向かっていたでもない。それでも、気付けば、人気のない場所に出ていた。人気というか、生活感がない。拓かれていない山道に踏み込んだかのような、草木の中だった。
「…………」
もう大丈夫。そう言ったものの、男の予感通り、けっきょくメイドはおとなしかった。いや、たしかに、当初よりはよほど口数は増えたが、無駄なことは一切口にしない、というほどには静かだった。
メイドの内心としては、もう、落ち着いていた。けっしてアガってしまって、口数が減っていたわけじゃない。ただ、この時間を噛み締めていただけだ。あるいは、まだ黙ったまま、男を少し困らせてみようという、わずかないたずら心が働いたからでもある。
男は、ああでもないこうでもない、と、パンフレットを見ながら現在地を確認していた。まだ暗くなるにも時間がある。急いで戻る必要もない時間帯と言えたが、それでも、見るからに焦燥して、帰路を探している。
「よし、こっちだ。ここをショートカットすれば、すぐに帰れる」
おそらく、確信には遠い選択を、男は選んだ。そのうえ、さらに森林の奥深くへと向かっているようだ。そんな獣道を、安直に近道しようと選ぶあたり、彼はまったく、どうしようもない男だった。
だけど、そんなダメな男に、メイドは惚れたのだ。そうだ、恋をした、のである。
最初は、興味だった。けっして強くもなく、賢しくもない、それでいて、他人を守ろうと動ける、そんな彼や、彼の大切にする者への、興味。不可解、と、言ってもいい。理解のできない生物に、知的好奇心が湧いた。その程度だ。
エディンバラでの事件を終えてからは、正当に、忠誠に変わった。この人とともにいたい。その意識こそすでに生まれていたが、けっして、恋愛感情ではない。いや、ある意味では、そんなものなど振り切れていた。粉骨砕身に、ただ滅私奉公したい、と、そういう感情。この方の行く末を、見てみたい。その道を、自らの手で、切り開きたい。そう思ったのだ。
そして、いつからか、メイドは恋していた。気付いたときには、もう、遅かった。それは、忠誠とは、むしろ対極のような気持ちだった。自らを殺し、主人の活きる道を探す。そういう、自己犠牲とは真逆。仮に望まれなかろうと、拒絶されさえしても、己がエゴで、そのそばに居続けたいという、欲求。
極めて人間らしい、自己中心的な、欲望だ。
「はい。どこまででも、ついていきます」
あらぬ方向へ舵を切る男に、それを知っててもなお、メイドは、言った。
ここが最後だと、メイドは理解する。そうして、決意をも、固めた。
*
当然の帰結として、おかしなところへ出た。ひとつ林を抜けたのだろう。さきほどまで迷っていた場所なら、まだ、救いがあった。来た道を戻ればよかったのだから。しかし、こうして道なき道を踏破して、林を抜けると、もう、戻る道さえ曖昧だ。完全に迷子である。
「まあ……」
しかして、その迷走が、けっして悪い結果を生むわけではない。小高い丘の上にある猫空には、ところどころに、台北の街を見下ろせる絶景スポットが存在する。どうやらガイドブックには載っていないが、そのとき彼らが到達したその場所も、そういうスポットと言ってよさそうだった。遠くに、『台北101』を含めた、高層ビル群の輝きが見える。
「……うん、そうだ。この景色を、おまえに見せたかったんだ」
感嘆するメイドに、男は強がりを言っておいた。夕焼けも沈みかけた、宵闇に、冷や汗が乾く。
丘のふちに立ち、転落を怖れながら、景色を見る。本当に正規の場所ではないのだろう。なかなかに急な斜面だが、転落防止の柵などは設けられていない。
「素敵です、ハク様」
その賛美は、景色に向けて放たれたものだろう。しかし男は瞬間、自分に向けられているように聞こえて、ドキリとする。
「しかし、……どうして私を、この場所へ?」
続く言葉に、さらに緊張する。男は平然を装っているが、服の下は、冷や汗でびっしょりだった。ボルサリーノを脱ぎ、軽く、頭を掻く。それからまた、それをかぶり直した。
「で、デートだって言ったろうが。それだけだ」
デートという語彙にも、あるいは、苦しい言い訳にも、言葉が淀む。気恥ずかしくなって、ボルサリーノで目元を隠した。
そんな男を見て、メイドは、過去最高に気持ちが昂った。言うなら、ここしかないだろう。そう思う。
もし、愛の告白をするなら、いましかない。そう、思った。
「ハク……」
言葉に詰まったように、このあとに敬称を続けそうな言い方で、彼の名を呼び――そのまま、口を閉じた。あまりに不格好で、メイドとしては不遜に不躾な、完成度の低い、それは――。
その時点ですでに――愛の告白だった。
*
もちろん、その程度のメイドの不遜など、男は気にしない。だが、いつもと違った雰囲気に、初めて呼ばれた敬称のない呼び名に、緊張、する。
メイドに好かれていることは、とうに理解していた。いや、実際に恋心があったかは別にして、あれだけスキンシップを取られれば、いくらなんでも、そう思うだろう。
だから、告白される、と、そう、感じた。そういうことが起こり得ることを、男はいちおう、ずっと以前から想定はしていたが、しかし、その場合の対処法は――自分が答えるべき言葉は、まだ見つけられていない。だらだらと先延ばしにして、ほったらかしだったのだ。
「お、おう……」
ゆえに、ただの狼狽として、応答だけする。せめてもの誠意として、視線だけは、交わしたままに。
メイドも、じっと、その目を見つめた。けっして、整った顔立ちはしていない。いつも気だるげに落ちた瞼の奥には、さして力強くもない漆黒の眼光が。無精髭は剃り残しがあるし、ボルサリーノで押さえてはいるが、ちゃんと寝癖を直していないのも知っている。せっかく仕立てたスーツも、内に着ているシャツがはみ出ていて、どうにも締まらない。ぼろぼろのコートは、思い入れがある大切な物だと知ってはいても、やはり、みすぼらしく見えるものである。
つまり、理屈付けて判断する以上、まったくもって、どこに好意を寄せる要素があるのか、メイドにも解らなかった。そして、だからこそ、この気持ちは本物だ、と、解る。ただの見た目や、立ち居振る舞い、当然と、経済的なものにも、血統血筋にも、惹かれたわけじゃ、ないのだ。
この、わけの解らない、理不尽で、不合理で、どうにも抗えない疼きこそが、『恋』なのだ。
「ハク」
メイドはすべてを理解して、今度は意識的に、彼の名を呼んだ。風にあおられた髪を、片耳にかけ、小首をかしげて、彼を見る。見続ける。その言葉は、やはり彼女にとっての、告白だった。
「なんだ」
男も、意を決した。だから、しっかとした言葉で、彼女の目を直視して、一歩、近付く。はたして、自分は告白されたとして、どう答えるのだろうか? それすらも解らぬ、自暴自棄にも似た、猛進だった。
にっこりと、メイドは笑う。メイドとしての普段の彼女のような、凛々しく、うやうやしい、それとは違う。ただただ無邪気に、優しく、柔らかく、己が内心をそのまま吐露するような、美しい、笑顔だった。
そうして、彼女も、一歩を詰める。それから、二歩、三歩と、徐々に力強さを増す、駆け足で――。
「好きっ!」
と、言って、抱き着く。それは、愛の告白ではない。ただの、心の声だ。フィルターを通さない、ありのままの、ただの感情だった。
伝わらなくてもいい。理解されなくてもいい。ただここで、いまこの場所で、このとき、感情をあらわにできたこと自体が、彼女にとっては重要だったのだ。
「お、おう……」
だから、決心していた男も、あっけにとられる。これは、この、気軽い言い方は、告白、……なのかなあ? と、首を捻るのだ。
「好きっ! 好き好き好き、だ~い好きっ!!」
「解った! 解ったから放せ! 危ねえ! 落ちるっ!」
メイドの、渾身の体重がかかって、男の足元はふらふらだった。このままでは足を踏み外し、ふたりして丘を転げ落ちてしまう。
それでも、いまのメイドには、この幸福を噛み締めることの方が重要だった。それにしか意識が向いていない。それに――。
やっぱりまだ、自分には覚悟が、足りていない。そうも、思う。『異本』蒐集も、もう終わる。終わってしまえば、男は――その周囲の環境は、どうなってしまうか解らない。
いや、むしろそれを変えないために、いまのうちに言っておきたかった。正しく感情を伝え、正式に、将来を誓い合いたかった。だが、弱いメイドは、ここでは自己満足だけを取り、さらに一歩踏み込むことを、ためらった。
これがはたして、物語をどう左右するかなど、知りもしないままに。
歩き詰めで、あるいは冷や汗で、匂いの染みついた男の胸に、顔をうずめる。いまは、このぬくもりだけで――。
「汗臭いです、ハク様」
ふと、我に返った。
「だったら離れろ! マジで落ちるぞ!」
そううろたえる男が可愛くて、メイドは、さらに体重をかけた。
「いやです。離れません」
これまで以上に力強く男を抱き締め、彼らはふたりして、もつれて倒れ込んだ。それはぎりぎりで、崖のふちで踏みとどまる。
夕日はもう、地平線の彼方へ、顔を隠した。
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