2027年、二月。フランス、パリ。
華の都、パリ。美術・芸術においては、世界三大美術館のひとつ、『ルーヴル美術館』。『エッフェル塔』や『ノートルダム大聖堂』、『ヴェルサイユ宮殿』などの歴史的・宗教的にも有名な建築物。演劇や音楽を楽しめる『オペラ座』。『コンコルド広場』から『凱旋門』までを繋ぐ、『シャンゼリゼ通り』。ここには『グッチ』や『ルイ・ヴィトン』などのショップが立ち並び、ファッションの中心地ともなっている。世界三大料理のフランス料理がいただける高級店や、おしゃれなカフェもこの通りに多く点在している。もちろん庶民的な店でも十分に楽しむことができ、特にバゲットの味は世界最高峰だ。この街で焼き立てのバゲットを食せば、もう他のパンでは満足できなくなるだろう。
かように、数えきれない芸術や文化を内包し、多くの世界遺産が軒を連ねる観光都市、それこそがパリである。
その、パリの9区。パリの街並みは、エスカルゴ状に渦を巻いて、中心地から周囲に時計回り、20の行政区が並んでいる。この9区は、中心地1区からやや北側。モンマルトルの丘とセーヌ川の間に位置する区画である。
そこに、WBO最重要施設、『世界樹』と呼ばれる、30階建てのビルディングが屹立していた。それは、巨大な書庫だ。そのうちに飲まれる、一本の巨大な樹木。高さにして50メートル弱。ビルディングのちょうど十階あたりにまで到達するその樹木こそが本来の『世界樹』であり、それそのものまでもが、数々のうろを利用して、書庫としての役割を担っている。
その、『世界樹』すらをも見下ろせる、ビルディングの、地上26階。そこで、今年からこの施設で働き始めた淑女が、トレイを慎重に両手で持って、やや危なげな足取りで歩いていた。
「そぉっと……そぉっと……」
その階層に、人は多くない。というより、それだけの規模の施設であるにもかかわらず、従業員もさして多くはない。というのも、そこでの仕事は、多く、司書長のゾーイ・クレマンティーヌがほぼひとりで担っているため、それ以外の人員は、基本的に他の雑務のみに従事すればよく、多くの人手を必要としないのだ。
ともあれ、かような理由で、広さのわりに人気の少ない施設だが、高階層にはさらに誰もいない。当然、地上から離れるほど、人も物も運び上げるには面倒だ。そういう理由が大きい。それゆえにか、26階より上は、現在ほとんど空き部屋となっている。つまるところが、やはり、人などほとんどいないのだ。
であるのに、彼女はトレイに乗せた、二名分の食事を、重そうに運んでいく。どうやら何者かがなんらかの作業をしているとだけ認識しているが、その具体的な内容については、淑女には知らされていなかった。
「わっとと! ……とっとっと、といっ!」
なにもない廊下で、躓きそうになる。それでスープが波打ち、わずかに零れ落ちるが、大事には至らなかったようだ。淑女は、「ふう……」と息を吐き、瞬間肩を動かした。額に浮かんだ冷や汗を拭おうとしたが、寸前で、両手が塞がっていたことを想起し、とどまった結果である。
「こんこん。ごはんでーす」
目的の扉の前で、彼女は言った。ノックをする手もなかったので、言葉をのみ、張り上げる。
するとその扉の先から、ばたばたと忙しなく駆けてくる物音。どころか、一度転倒さえしたのだろう。特段に大きな物音と、「ててて……」と、自身を労わったのだろう声が、かすかに聞こえた。ややあって、扉が開く。
(はいはいはいはい! お待たせしました! あなたのメイリオ・フレースベルグです!)
にこやかな笑顔を向けられる。だが、淑女の前に現れた学者然とした者は、ただ黙って身をよじっている。こういう、無口なタイプが、淑女は苦手だった。
「あ、あの……ごはんです。『パーシヴァル』さん」
この、毎度食事の受け渡しに対応する者の名を、淑女は知らなかった。ただ、WBO『特別一級執行官』、コードネーム『パーシヴァル』、としか。
毎日、二度。こうして淑女は食事を運んでいる。その分量が、やや多めだとはいえ、ふたり分だとも、いちおう聞かされている。もしかしたらその部屋にいる者は、もっと多いのかもしれない。だが、この対応の折に、奥から別の人物の声が聞こえたことがあるから、ふたりはいるのだろうことは確実だとは思えた。だがいまのところ、淑女は、その部屋にいる人物を、とりあえずは彼ひとりしか見たことがなかった。
「ああ、可愛い。癒される……」
伏し目がちにもじもじする淑女を見て、学者はそう言った。語り掛ける、というよりは、独り言のような言葉だったので。淑女は、「……?」と、ただ首を傾げた。
「あのう……ごはんを」
言って、淑女はトレイを軽く、持ち上げる。
(ああ! これはすみません!)
学者はなにも言わずに、ただ申し訳なさそうな笑みだけを浮かべて、トレイを受け取った。ふう。と、役目を終えたことと、重いトレイを手放したことで、淑女は、ようやっと、張っていた肩を落とした。
「あの……それじゃ、あーしはこれで――」
踵を返す。そのとき――
(え、もう行くの!?)
背後でがたりと、音がした。振り返ると、まだなにか用があるように、学者はやや前のめりになっている。どうやら一歩を踏み出して、その足が、開いた扉にぶつかった。その音が、さきほどはしたらしかった。
「えっと、なにか? ……ああ、苦手な食べ物でもありましたか? ご要望があればお聞きしますよ? えっと、もちろん、内線でご連絡いただいても、よかった気がしますけど」
うろ覚えの情報を話す。が、しかし、この部屋でのことは淑女が務める『司書長室管理員』――端的に言って、司書長のお世話係――の専属担当だ。そして、その人員は、現在、淑女ひとりである。つまり、内線で連絡が入るにしても、それを淑女が把握していないはずがなかった。そして淑女の記憶では、過去にここから司書長室に内線が掛かってきたことは、一度もない。
つまり、もしかしたら内線をそもそも受け付けていない可能性があった。ともすれば、この部屋に内線は引かれていないのかも。
「……それで、なにか?」
それだけの思考を巡らす間も、眼前の学者は、その表情をいくらか変化させたが、ただ黙して、なにかを訴えていた。なにも言葉は発さずとも、その顔は、やはりなにかを伝えたい様子がうかがえる。だから淑女は、ただ首をかしげて、動けずにいた。内線が通じていないかもしれないから、なおのこと、ここを訪れる自分は、貴重な存在だろう。要望があるなら――それを通せるかは別として、聞くだけは聞いておきたい。そう、思って。
「す――」
なにかを、ようやっと彼が言いかけた、そのとき。
「こぅらあぁ! メシの受け取りにどれだけ時間かけとんじゃぁ! 小僧!」
部屋の奥から、溌溂とした声が響いた。声こそ活気に溢れているが、その響きは、どこか老獪した重みが含まれている。学者は見るからに二十代という若さだが、それでも、彼を小僧呼ばわりする以上、奥の人物は年上なのだろう。だが、それを無視するとしても、声の印象としては、だいぶ上の年齢、という気が、淑女はしていた。
びくり、肩を震わせ、学者は硬直した。それから、やはりなにも言うことなく、ただ会釈をして、扉の奥へ消える。
「なんだったんだろう?」
淑女は、ぽかんと、呟く。
学者が言おうとしたこともそうだし、奥にいる人物も。この部屋で、なにが行われているかも。いろいろ気になった。そして、それよりももっと、個人的にずっと、淑女には内心で、もやもやしていることがひとつ、あったのだ。
「それに、あの声。……どこかで聞いたような気が――」
するんだけどなあ。という言葉は、あえて言わずにいた。それよりも、多く時間を食った。そろそろ、あの司書長が、『司書長室』をめちゃくちゃにしているところである。
はあ。と、嘆息して、少し足早に、淑女は『司書長室』へと引き返す。
幸か不幸か、彼女にとって、掃除は得意分野だった。
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