世界は、胃もたれするように歪んだ。それが、男にはやけに似合っているように、彼自身、感じたのである。
「俺は、なにがしたいんだろうな」
独白。隣か、その隣かそのまた隣の彼女に、ではなく、ましてや自分自身へでもない、吐露。
「俺は、『異本』を集めたいんだと思ってたよ。776冊。そのすべてを集めて、『先生』に捧ぐ。それを、供養とする。……それが、供養になると思っていた。でも、そうじゃねえ。そんなことは供養にもならねえし、そのうえ、その目的自体、俺にとって重要になりきれなかった」
若者に語られた真実。『異本』集めは『先生』の悲願でもなんでもなかった。それだけで迷う心。そして決定的に、それは現実の、いまの仲間――『家族』たちより重要なこととはとうてい、思えなくなっていたのだ。
「『家族』の方が大事だ。そう思った。だけど、その大事な『家族』すら、拒絶されりゃ見失っちまう。……人間って、解らねえな。なんでこう、複雑に創りやがったんだか、神の野郎。もっとこう、互いにすべてをさらけ出せたら、事はもっと簡単だろうに」
濃いアルコールで唇を湿らす。憂鬱に、陰鬱に、少女の言う通り、ウダウダと悩んで、考え込んでいたのに、こんな液体だけで心地良い浮遊感に高揚する。そんな、自分自身の肉体にも反吐が出た。
「簡単だよ。ハク」
そこまでの言葉を受け止めて、それでもなお、彼女は無邪気に、容易く返す。
だから、男はようやく、彼女を見た。
少女と出会う前、『本の虫』の黎明期。その、初期構成員として、男がペアを組んでいた、見慣れたギャル。金髪巻き毛に、猫みたいないたずら顔。それを、焼いた肌と、濃いメイクで塗りたくった、ギャルらしいギャル。そんな彼女が、全身のピアスをギラギラと鈍く光らせて、笑っている。
「あなたは、なにがしたい? おねぇさんに言ってごらん?」
同い年だというのに幼すぎる顔つきを、さらにぐしゃりと、無邪気に歪めて、彼女は言った。
*
一瞬、見惚れていると、ぶつかるほどに顔を近付けられた。だから、男はたじろぎ、目を逸らす。
「そぉす」
ギャルは言うと、男の唇を、中ごろから端まで、ひと撫で。そのまま指を引き、自身の口に咥えた。
ソース。と、ようやく変換される。さっきのフィッシュ&チップス。その、ソースだ。
だから、男は口元を拭い、語る。
「言ったろ。俺は、俺がなにをしたいかなんて、解らねえんだよ」
「解らねえ、じゃねぇ。解れよぉ」
即、ギャルは返答する。表情は相変わらずの笑顔。声も変わらずの甘々。それでも、どこか強く、言い寄るように。
「……ハク。お腹空いてない?」
答えを返せず、黙り込む男へ、ギャルは急に、別の話題を提供した。
「……減ってねえよ。気持ち悪いんだ」
「お酒、まだ飲む?」
「いらねえ。まだ残ってんだろ」
「じゃあ、それで」
なにかを完結させたかのように、ギャルは満足気に、そう言った。
「――それで、いいんだよ。解ってるじゃん」
「……なにが?」
「自分の気持ちが」
それは、正常にぴしゃりと、男の意表を突いた。
「お腹はぁ、空いてない。お酒はぁ、いまはいい。あなたがやりたいことは、それだよ」
「なんだそりゃ」
拍子抜ける。男としては、もっと重要な選択を選ばされているような気がしていたから。それこそ、『異本』蒐集や、メイドの奪還についての、完全なる選択を――。
はっ、と、男は気付く。……いや、それは、ギャルの意図したこととは違うかもしれない。ましてや、この世界の真理とも、大きく乖離している気がする。
それでも、そうすれば、確かに世界は簡単だ。
「大事なことをぜんぶ無視して決めちゃえば、たとえ、それがどんなに醜悪な感情でも、きっと、後悔しないよ」
彼女は、ひらめきかけていた感情を、言語化する。その、あまりに自分本位に自分勝手で、間違いだらけの真実を。
「あなたが決めたことなら、そこに理由なんかなくっても、あなたを裏切ったりしない。それがたとえ、あなたを――大切な人たちを全員不幸にしたところで、後悔しないし、絶対に、間違ってない」
間違っている。そう、思う。
だが、そう思っても男は、感化された。その、耳触りのいい言葉に、感銘を受けた。間違っている。正しさなど欠片もない。それは自分も、『家族』も不幸にする。そしてそれに、必ずいつか後悔するだろう。だから、彼女の言葉は間違っている。だけど――。
間違うことは、保障されている。
間違ったと、不幸になったと、後悔していると。そう、胸を掻き毟るほどの醜悪な未来へは、到達できるのだ。
「…………っ!!」
男は勢いよく立ち上がり、口元を押さえた。
そのまま走って洗面所へ。勢いよく、胸の内にあるものをぶちまけた。
*
奢らされて、パブを出る。エディンバラの街は夜に沈み、静寂を迎える準備を進めていた。
前を向き、歩く。中ごろまで進んだロイヤルマイルを、さらに勢いよく。
「行くのぉ、ハク?」
その速度で置き去りにしたギャルが、数メートル後ろで男へ声をかけた。
「ああ。ちょっと用事があるのを、忘れててな」
男は、立ち止まって言う。決して、礼を言ったりはしない。礼を言うだけのことをしてもらっていないし、それに、礼を言い合うような関係性では、そもそもないのだから。
再度、歩き出す。急く心を抑えつけて、じっくりと、地面を踏みにじりながら。
「あっ……ちょっと待って。……大事なことをぉ、言い忘れてたぁ」
ギャルが言う。言って、少し駆け足に、男へ寄った。
だから男は、小突かれるように立ち止まり、振り向く。
男を上目に見上げ、アルコールで染めた頬を、少しだけ俯ける。そんな生娘のような愛くるしさで、甘ったるい声で、
「酔っぱらっちゃったぁ……。どこかで休みたいなぁ……?」
言う。だから、男は鼻で笑う。
「帰れ」
*
エディンバラ城。ロイヤルマイルの起点であり、エディンバラ最大の観光名所。
キャッスル・ロックという天然の岩山の上に立つ、難攻不落の要塞。エディンバラの街並み、そのすべてを見下ろす、威厳ある建造物。それを見上げ、決意を新たに。
「……遅いのよ。可愛いわたしをひとり、こんな夜更けにお待たせして、なにしてたの?」
言うが早いか、少女は、預けていた背を離し、男へ小走りに駆け寄る。膝までも隠した黒いコートを、邪魔そうに蹴飛ばしながら。そして目前にまで到達し、つま先立ちのように男を見上げた。
「……お酒くさ」
「昔の友人に、ばったり会ってな」
男は言い訳する。それでも、たじろいだりしない。意思は、もう固まったから。
そんな面構えを見たから、少女はそれ以上、なにも言わなかった。
ボルサリーノを押さえる。アルコールは、もう抜けた。しかし、飲酒したときのような、根拠のない全能感だけが、心地良く残っている。コンディションは、最高だ。
「さっきのことは……その……あ――」
少女はもじもじと、俯きがちに、閊えがちに、言葉を選んだ。
「あ?」
「謝らないわ!」
直前まで悩んで、少女は、その言葉を選んだ。
男の気持ちも解っている。その、ウジウジした態度も理解できる。自分の言ったことが、やつあたりに近いことにも。それでも、少女はそう言った。そういう関係性を、望んだから。
「ああ、それでいい」
男も言った。少女の複雑な表情から、彼女の気持ちを理解できたから。長年言葉を交わした友人のように、手に取るように、解ったから。
「俺は俺の好きにする。おまえもおまえで、好きにしろ。ルシアのことは任せる。連れ帰ったら、少し話をさせろ。そいつのことを、知りてえからな」
くしゃり。と、少女の美しい銀髪ごと、頭を撫でた。少女はそんな男を見上げ、いたずらっぽく笑う。
「メイちゃんのことは、任せたわよ。必ず連れ帰りなさい。一発、ちょっと殴りたいから」
少女は、拳を握ってみせた。そしてその手で、不機嫌そうに男の手を払い除ける。
拳を開いて、無理矢理、払い除けた手を握った。冬のエディンバラ。その最中、凍えた手を、温めるように。相手の手の冷たさを、感じるように。
ここに人がいる実感を、味わうように。
一人ではないことを、確かめるように。
「……行くぞ、ノラ」
男は言う。
「……あいあいさー」
少女は、答えた。
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