闇。――というには、あまりにむらのない、黒一色の世界。己が存在すらも視覚できない、そこは、異空間だった。
「なんだ、ここは? 僕は、死んだのか?」
口を動かし、喉を震わせる。正確には、動かすようにし、振るわせようとした。つまり、声は出なかった。
「ご名答。さすがは希代の天才、メイリオ・フレースベルグだ」
その声は聞こえなかった。軽薄な拍手の音も、かつかつと、演じるように鳴らした靴音も。
それでも、そのような言動がなされたことは、理解できた。
「正確には、死んじゃいない。君はその体を、量子の単位にまで分解されたのさ。それで一時的に、ここにその意識をかくまっている。彼女は――ああ、ゾーイ・クレマンティーヌのことだけれど――彼女は、ルシア・カン・バラムを挑発するためにあえて、君を殺したと見せかけ、ルシアの本質を引き出そうとした。それ自体は成功したけれど、物語は、ルシアの思惑の方に軍配を上げたようだ」
この結末には、ひどく悩んだけれどね。そう、その者は言った。……ようだった。
「なんですか、あなたは。もしかして、……神様、とでもいうものなのですか?」
「まあそんなものだよ。さすがだ、メイリオ。またも、大正解だね」
張り付けたような笑顔で、彼は拍手をする。心のこもっていないような、拍手を。
「はは……はは……。そりゃあいい。あなたの言う通り、たしかにさすがだ。さすがはこの僕、メイリオ・フレースベルグ。文字通りに神は、まだ僕をお見捨てにならなかった」
あはは。あはははは。多少、頭のネジも吹き飛んだように、学者は高笑いした。心のこもっていない、淡白な笑いだった。
「我は君が嫌いではないよ。メイリオ・フレースベルグ。人間は誰も彼も、けっして綺麗なだけではない。聖人らしい慈悲を持つ反面、凶悪人みたいな悪意も持つものだ」
「悪意? なんですか、それは?」
とぼけた様子のない、純粋な口調で、学者は首を傾げた。だが、そんなことは、無視しておこう。
「こほん。……まあいいさ。ともあれ、君の感情と行動は、しごく人間らしい。誰もが立場上、表に出せない醜悪さを抱えているし、それはときに、暴発もする。人間は間違いを犯すし、さすればそれを、咎められもする。そうして成長していくんだ」
だがね。
と、その者は声質を変え、言葉を継いだ。
「それは現実世界でのこと。物語にはそぐわない。我はこの物語を、耽美に瑞々しく、清らかなものとして仕上げたい。そういう意味では、君は落第だな」
落第。という語彙に、学者は茫然とした。彼の言うことはさして理解できていない。しかして、その響きだけが、学者を、失意の底へ沈めていく。
そんな学者を見て、その者は、演技のように己が手首を気にした。その、なにも巻かれていないまっさらな手首を打ち、「おお、時間だ」などと、のたまう。
「君はどうせここでのことを忘れるけれど、せっかくだしひとつ、餞別をやろう」
にやり。笑って、その者は言う。
「殺されなかったとはいえ、彼女の怒りは本物だ。ここから還ったところで、はたして君は、どこに戻されるんだろうね?」
しまった。これじゃ餞別というより、謎掛けじゃないか。
なんとも締まらない様子で、そう言う声が――学者の耳に――届いたような――届かなかった、ような――。
*
「待たせたね、そろそろ、出てきていいよ」
世界を白く塗り替えて、その者は言った。
パララ。そう、名を、呼ぶ。
「いえ、待たされたなど。無理言ってここに置いてもらっているのです、どうぞ、お気遣いなく」
もはや人外となり果てた男は、にこりと、満面に笑んで、答えた。
「そう言うなら、そろそろ君も、『神』になってほしいものだけれどね。君の役割はもう、終わっただろうに」
そう言えど、諦めていることも表情に表しつつ、その者は肩をすくめた。
「役割を終えれば、役者は舞台を降りるのみですよ。最後のパララを、その行く末を、見終えたなら」
また改めて、人外は笑顔を振りまく。その様子を見て、その者は、嘆息した。
「まったく、本当に君は、『怠惰』だねえ」
「申し訳ありません」
困ったような笑顔で、人外は深々と、頭を下げる。それを見て、その者は再度、息を吐いた。
「それで、君の末裔は、どうだった? パララの終焉を背負った彼女は――八十九人目の君は、合格かい?」
その問いには、人外も苦笑いを作った。「どうでしょうね」。そのように、前置く。
「まあ、私と同様、『怠惰』には違いないでしょう。しかし、私とは違い、本当の意味での『怠惰』、ということですが」
彼女が死んだ――一時的に『死』を体感したときに、人外は彼女に会っていた。己が末裔。八十九代目、パララ・ナパラライトに。そうして、ちょっとばかり彼女に、贔屓をした。これまで受け継ぐべきでないと封じて――世代を重ねるごとにじんわりと消し去ってきたパララの力を、少しばかり返してやった。彼女が、それを望んだから。彼女が、それを覚悟したから。
人でありながら、人でない自分を、許容したから。人外がたどり着けなかった決意に、彼女は達したから。己が大切な者のために、人間を捨てると、そう言ったのだから。
だから彼女は、本当の『怠惰』だ。目的外のことには力を割かない。逆に言えば、目的のためになら全力を注げる。そんな『怠惰』を、彼女は手に入れた。
人外には、出せなかった答えだ。己が力を扱いきれず、ましてや、死んで消し去ることもできず、ただのうのうと、『怠惰』に緩めようとした、臆病な彼には。
「これも、あなたの筋書き通りですか? 語り手さま」
慇懃な態度で、人外は言った。現世での次なる戦いを、異空間から見下ろして。
「いいや」
その者は楽しそうに、応える。同じく、次なる戦いを、見下ろして。
「どれもこれも、予定と違う。この箱庭の物語は、こんなはずじゃなかった」
だからこそ、一見の価値がある。そのようにも、言う。
そして、それこそが、物語じゃあないか。とも。それは口にしなかったけれども、しかし、その顔に浮かんだ笑みには、ありありと、心が現れていた。
やれやれ、まったく。
300話も書いて、我もなにも、成長していない。
そう言って、成長しない者どもを、見る。どうしたって扱いきれない、自由で『怠惰』な、者どもを――。
――――――――
こんなはずやなかった。
そう、女傑は思った。
目に見えぬ敵と、数々の変化を起こす銃弾に、神経をすり減らしていることではない。相手が浅からぬ因縁のあるそばかすメイドであることも、こんな形で決着をつけねばならないことも、右目の復讐や、あるいは、伝えきれずにいたことを、拳に込めて語れる機会に恵まれたことも、すべてすべて、予定通りだ。
そんなことは、女傑の描いた筋書きの、正しい道筋でしかない。もちろん、ここで彼女に勝利し、その『異本』を奪い取ることも、すでに決まっている。
だから、どこか心ここにあらずといった様子で、女傑は思うのだ。こんなはずやなかった、と。
思うのは、少女のこと。そして、男のこと。
「ノラぁ……」
忌々しく、その名を、呼ぶ。
敵すら利用した。こうして、自分をここにとどめた。いまの少女を止められるのは、自分か、あるいはメイド。力づくという条件を無視するなら、紳士かあるいは、男しかいない。だが、力づくだろうがそうでなかろうが、その達成は困難だ。そして、その達成がもっとも現実的だったのは、自分だろう。そう、女傑は考えていた。
だからこそ、少女も女傑を、警戒せざるを得なかった。まだ、WBO攻略には、少女の力が必要だ。ゆえに、それが終わるまで、女傑は少女をどうこうできない。そうは理解していても、可能な限りに接触を避けた。それが、このマッチングである。
いや、女傑が相手取るのは、そばかすメイドでしかありえなかった。それはいい。それこそ、そばかすメイドと相対して、勝利できる者など、今回のメンバーでは、女傑か、メイドか少女くらいしかいない。その中でも、女傑が相手取るのが一番、勝率が高かった。強さの問題というよりは、相性の問題で。
だから、女傑がそばかすメイドと戦うことはいい。しかし、そのマッチングが、あまりに早すぎた。まだ少し、少女を説得する――わずかでも動きを鈍らせる楔くらいは打ち込む、そんなタイミングを望んでいた。だがそれも、もう叶わない。
それはうがちすぎ、かもしれない。これは、なるべくしてなった流れなのかもしれない。しかして、結果としてわずかでも、少女の利として作用していると思うと、女傑は、忌々しく感じざるを得なかった。
「なぁにを気ぃ逸らしとんやぁ?」
ぞくりと、背を揺らす。唐突に背後に現れた、声。姿。殺気。
だが、それも瞬間。触れるほどの至近から放たれる銃声も、難なく、女傑は躱す。
「おまえごときに使う気ぃなんかあらへんわ」
躱す動きと連動させ、蹴りを向ける。高い背丈の、長い足で、勢いよく。しかしその足は、下方から蹴り上げられ、軌道が逸らされる。わずかにバランスを崩す女傑の眉間に、次の弾丸が迫っていた。
抉られた記憶が瞬間、フラッシュバックする。右目の奥が、疼いた。
「当たると思うとん?」
銃弾を握り止め、女傑は言った。
「…………思わへんよ」
そばかすメイドは小さく、言った。「反発」。
声に合わせるように、女傑の握り込んだ拳は、爆ぜるように開かれ、銃弾も再始動した。無軌道に爆ぜ飛んだそれは、反応も許さぬままに女傑の頬を掠める。破られた皮膚から一滴の血が流れる間、静寂が、銃声の残響を幻のように、伝えていた。
「ワレェ――」
「パラちゃん」
気を取り直した女傑の言葉を、そばかすメイドは止めた。
大きく口を開け、恍惚に、笑うような表情を作る。狂ったような、笑み。しかして、声は微塵も、出やしない。ただ、『イヒャヒャヒャヒャ』という奇声が、音もなく張り付いている。
「人間、舐めんなや。なあ…………?」
頭を抱えるように、そばかすメイドは、自身の右目を押さえ込んだ。それは右目を失った女傑に対しての、挑発のようにも、見える。その、嘲るような笑みも手伝って。
「『神之緒』」
これ以上ない。そのように見えた嘲りの笑みを、いますこし歪めて――。
そばかすメイドは、そう、言った。
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