神経が、広がる。ようやっとこの身体にも、慣れてきたか。
……などと、思う。仙人は、永い眠りから覚めたように、目を見開いた。
「クハ、ハハハハ、ハハハハ――!!」
狂気――の、ごとく、高笑う。いいや、これで、正常だ。
これが、正常だ。
戦場では、加減をした者から順に、死んでいくのだから。
「良い! 良いぞっ! ノラっ!」
目を開き、口角を上げ、声を荒げるほどに加速する。間違ってはいけない。『神』はここまで、本気で戦ってはいないのだ。
ここまで、は――。
「はあ……はあ……はあぁっ!」
加速し、最適化される仙人の動きに、少女はなんとか、食らいつく。
いや、そのような意識など、もはやない。少女の意識はとうに身体を離れ、彼女自身、幽体離脱でもしているかのように感じていた。半分、魂が抜けている。それほどに極限の緊張を、ずっと続けていた。……いまでもまだまだ、こののちもまだまだ、続けていく。
「そうだ! これぞ闘争っ! 互いに『死』を伴い対向する、人間の――感情の――意識の、極致である!」
重く、なっていく。繰り返されるたびに、仙人の刃は、速く、重く――。
すべての一撃に、身命を賭して。相手を打倒する、激情をもって。
「はあ……はあ…………は、あぁぁ――!!」
少女は、がんばる。己が存在証明のため。
もはや、精神も、肉体も、ない交ぜだ。半分魂が抜けているというのも、あながち間違ってはいないのかもしれない。意識が遠のき、風に煽られている。少しでも集中を欠けば飛ばされそうだ。その感覚は、空間に融けていくよう。
自分と世界が、混同していく。人間は――ひとつひとつの意識は、世界の一部だということを認識する。自分と世界に、違いなどないということを、思う。
あらゆる世界の意識は、大いなるそれと繋がっている。だから誰も彼も、この世界のすべてを知っている。世界でこれまで、なにが起きたか。はたしてこの先、なにが起きるか――。
「――――っ!?」
そのとき、少女は覚醒した。抜け出ていた魂が、身体に還ったのだ。大変な土産を携えて。
「なにをやっているの、ハク――」
少女の望む未来。少女が諦めて選び取った、妥協の最善。それが――
「未来が、いま、変わった――?」
この瞬間、崩壊……した。
*
「なにやってるのよ、あの――」
困惑と、苛立ちを、爆発させる。長年をかけて調整してきた少女の大仕事を、一瞬に瓦解させる、その浅はかさに。
それを、眼前の『神』へと、八つ当たりさせて――。
「馬鹿っっっ!!」
一刀。
「ぬ――っ!?」
――の、もとに、仙人の両腕を、斬り落とす。その腕は、いまだ剣を握り込んだまま、地面へと落下していった。
地へ着く、それより前に、少女は足に渾身を込める。その予備動作すら、もどかしい。時間が、足りないっ!
「腕を落とした程度で――」
仙人も、その程度の負傷で、怯みはしない。跳躍のためにかがんだ少女の眼前に、蹴りを向ける。
「邪魔よっ!!」
跳躍のついでに、少女は仙人の横顔を、足蹴にする。仙人よりも遅れて出した足が、仙人よりも先に、相手に届いた。これまで彼女が『がんばった』ものよりも、さらに速く、強く。そしてさらに無意識的に、少女を動かしている。
「ぐ、ぬ、ううぅぅ――」
蹴られながら、仙人は少女の、その背を視線で、追う。
どこへ……どこへ行く。この素晴らしい闘争を置いて、ぬしは、いったい――
「どこへ行くっ! ノラぁっ!!」
そろそろ、地につくだろう。その、自らの腕を、傾いた身体で、足で、無理矢理に仙人は、蹴る。蹴り飛ばし、無様でも、懸命に、戦いにしがみつく。
ようやく得られた、闘争に。満たされた、『生きているかのような』、体感に。
どんな手を使おうと――しがみつく。
だが、蹴り飛ばした自身の腕は、まったく予想外の、番外の者に阻まれ、少女には届かない。
「『神之緒』――」
たしかに、仙人は使おうとした。だが、その声は一瞬早く、べつな、乙女の声で紡がれたのだった。
「『日後天創数多無境』」
「卑弥呼……貴様っ――」
闘争の、邪魔を――! そう、仙人は憤慨した。
「……そちの、負けだ。……そちたちのな」
「どきなさいっ!」
屋上を仕切る、正方形のフェンス。それに沿うように、見えない壁が、少女の行く手を遮る。地面にも、天にも、それは続く。四方八方を、囲われた。
ならば――。と、少女はその、壁の生成者へ拳を、向けた。
「通しなさいっ!」
「……五月蠅い娘っ子である」
少女の拳は、乙女に届くことなく、空間を叩くのみだ。空間と空間の間に、べつの空間が入り込んでいる。それは、一筋で永遠の厚さを持つ、超えられない壁。
「通せっ! 通せええぇぇっ! 間に、合わなくなるっ!!」
「……そちの物語は間違っておる。……これはその、代償――」
その、小柄な乙女は、フェンスの上に危なげなく立ちながら、悠然と、少女を見下ろす。永遠に続くほどの小袖や緋袴、天女のように肩にかけた領巾を揺らし、幼い顔付きを、しかめて。
――その乙女が、綺麗に切りそろえられたおかっぱ頭を、わずかに揺らして、隣を、見た。
「よかった。一回目で引き当てられて」
30歳に成長した少女と、同じような背格好だ。だが、その姿を彩るのは、スカイブルーの艶やかな髪。困ったように笑う表情はそのままに、しかし、ぐっと大人びた。
「……そちは――」
「神様には申し訳ないですけど、おねえちゃんを通してあげてください」
ふ……、と、そのとき、壁が消えた。いや、壁だけじゃない。その壁を生み出していた、乙女もともに、消えている。
少女は、即座に理解した。これは、消したんじゃない。元来、不可逆であるはずの現象を、戻したのだ、と。
――時間を、戻した。時をかけて、時間軸を移動すらできるようになった、未来の彼女が、いまこの世界線に現れ、時間を、変容させた。
「時間がないよ。おねえちゃん」
瞬間だけ、あっけにとられた少女は、その声で、我に返る。
「ありがとう。ラグナ」
未来の妹の隣を飛び越え、感謝の言葉を、叫ぶ。
そうしてそのまま、少女は、落ちていった――。
WBO本部ビル、屋上での闘争。
別ルートへ、分岐。
――――――――
「えっと――」
屋上に残った彼女は、困惑顔で、言う。
着地したフェンスから飛び降りて、屋上の地面へ、一メートル程度の飛翔を、危なげにこなした。
「すみません。あと数分、ここは通せないんですけど」
「未来の住人が、この時間軸へ何用、であるか」
仙人は、静かに問う。闘争の熱は、もう冷めた。たしかに、乙女の言う通り。我の負けである。と、理解して。
切断された両腕を再結合。もうこの地上に用はなく、いいかげんに神の世界へ回帰する。だが、せめて最後に身なりを整え、会話を続けるため。
「ノラの望む未来は、ぬしたちにとって必ずしも、良いものではなかったはず。であれば、なぜぬしは、ここへきた」
「私がここにきたから、ここにくるはずの私が完成した。……じゃあ、因果が混合してますね。うーん。そうだなあ――」
とぼけた、幼い物言いだが、その奥には、強い芯がある。30歳にまで成長した女性の――『神之緒』まで発現させるほどに達観した、確たる芯が。
「私がここにきたのは、おねえちゃんの覚悟を尊重したから。……まだ怒ってるんですけどね。それでもおねえちゃんが、ずっと考えて、悩んで決めた物語だから。それに――」
「それに……なんだ」
ふう。と、彼女は小さく、息を吐いた。長めのまばたきの中に、諦めと、わずかばかりの希望を、含ませて。
「もしかしたら、結末は違うかもしれない。今度は、うまくいくかもしれないじゃないですか」
「……で、あるか」
仙人は言うと、地面へ腰を下ろした。いつものように高級なソファでも生み出そうと、思えばできたのだが、あえて、その地面へ。
それに合わせて、スカイブルーの彼女も、腰を下ろす。地面に、正座して、行儀よく。それから数分、『神』と、向き合った。
それからの時間は、他愛のない話を、ひとつふたつかいつまんだ。特段に意味もない、雑談。互いに思い付いた言葉を紡ぐだけの、空虚な時間。
だが、それが心地よかったのか、仙人は数分のところを、十数分ほどに引き伸ばして、やがて、なんとも穏やかな気持ちで、天へと、還ったのだった。
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