そんなこんなで、彼らは洞窟の最奥に到達した。
「……行き止まりか?」
少年はまず、そう思った。少しばかり開けた空間に、わずかに水が溜まっている。池というほど大きくはないが、水たまりというには大規模だ。ぴちょん――ぴちょん――と、どこかから染み出しているらしい水滴が、テンポよく滴り落ちているようである。
その空間を、か細い懐中電灯で照らし、確認する。やはり、他に道はなさそうだ。そのように少年は、再確認する。
「いんや……ここが、目的地だね」
子女が言った。少年が彼女を見るに、子女は、神妙そうな顔でわずかに鼻をひくつかせていた。そのセンサーで、目的のものを感知しているかのように。
「目的地? ……じゃあここに、『異本』が――?」
問いながら、少年も感覚を研ぎ澄ませる。いや、そんなこと意識するまでもなく、彼はずっと気を張っていた。自身の存在証明。WBO――ひいては若男への貢献。そのために。
だが、いまさらながら違和感も覚え始めていた。今回感じている『異本』の気配は、どこかおかしい。近くにあるのは感じるのに、どうにもその所在がはっきりしないのだ。洞窟の先へ進んでも、近付けているのかいないのか……。それにそもそも、こんな洞窟の奥に『異本』――すなわち『書物』があるというのも、どうにもピンとこない。
いやまあ、その点に関してはすでに前例もある。若男たちが出会った始まりの『異本』。シリアで発掘されたという石板も、『異本』の一冊なのだ。ならばこんな洞窟の奥深くでも、なんらかの発掘物として『異本』が潜んでいる可能性だってあるだろう。
「とりあえず、詳しく調査してみるか――」
そう言って、少年は一歩を踏み出す。その空間に到達するまで、常に前を歩いていた子女を、その瞬間、初めて、わずかに追い抜いて――。
「――ソナエっ! 不用意にっ――!!」
そう、少年は至近距離で、子女の声を聞いた。薄暗い視界に、彼女の顔が、やけに鮮明に映る。一歩を踏み出した少年は、その、慌てた様子の彼女に突き飛ばされ、反対方向へ尻もちをついた。
鈍い痛みに眉をしかめて、見上げると、次の瞬間――。
まだ幼い少年には、これまでに目にしたことのないほどの大量の赤が、その視界を埋め尽くした。
*
瑞々しい――水々しい、赤だった。血液にしては、あまりに希釈された、粘り気のない、赤だ。
その、非現実的な血液に、少年は唖然とする。だが、遅れて落ちた彼女の片腕が、ぼとり、と、現実感を伴った音を上げて、我に返る。
「り、リオっ――!!」
慌てて起き上がろうとする少年を、子女は、涙をためた目で睨んで、制止した。本人にその気はなかったのだろうが、まるで、非難するような目で。そのおかげか、結果として、少年は踏みとどまった。子女の気遣いよりも、彼女からの拒絶を、感じてしまって。
「もう間違えんなよ、ソナエ」
声は、強張っている。それもまた、少年には非難のように、感じられた。
本来的にはただ、彼女は痛みに抵抗しているだけだったのだけれど。
「なんかいんだろ、ここ。……『異本』の守護者とか、そういうノリかぁ?」
子女はそう言って、じりじりと少年の方へ、後退した。その空間に置き去りにした、自身の片腕を、痛々しく一瞥する。
「リオ! それよりまず、その腕を――」
「それよりまず、この状況だっての。マズったな……。精神だけじゃなくて、物理的に仕掛けてくるやつもいるとか、聞いてないって」
ぶつぶつ言いながら、子女は周囲を警戒している。だから、彼女が見限った彼女の腕を、少年は直視した。その腕は、水の中に浸っていた。その空間にあった、水たまりとも池とも表現しづらい、中途半端な水面。
それとはべつの、今度こそ『水たまり』というべき、わずかな水量の中に、腕がある。溢れる血液に侵食されて、水たまりというより血だまりのように見えるが、しかし、間違いなく水たまりだ。さきほどまで確実になかったはずの、水たまり。いつの間にかそこにあった、水たまり――。
「リオ。あの水たまり――」
「うんにゃ、解ってる」
それより、静かに。耳をそばだてろ。そう言うように、子女は口を『い』の発音をする形にした。止血のために使っている片腕さえあいていれば、『シー』と、人差し指をその口に、あてがっていたかもしれない。
聞き耳を立てて、何者かの気配を――足音でも、探るように。
そうしていると、ふと、ぴちゃん、と、音がした。
「「――――!!」」
急激に緊張するふたり。だが、その音は、ずっと聞こえていた、天井から水面へ、水滴の落ちる音だった――。
「……ふう――」
だから少年は、弛緩する。
だけど子女は、さらに極限まで、気を張った。
「ソナエっ! 走れっ! 逃げろっ!」
なにかを感じ取った子女が、痛々しく血を流す肩口で、少年へ体当たりする。片腕を失ったから、バランスが悪かったのだろう。その勢いのまま、子女はそこへ、倒れ込んでしまった。
バシャアアァァ――。と、勢いよく波打つような音がして。
今度は子女の、下半身が食い千切られた。
*
薄暗い洞窟内では、液体はどれも一括して、液体のようだった。水であれ、血であれ。
「あ……あぁ……」
それでも、片腕を失ったときより大量の血液は、いくらかの水に混じろうと、粘度を保っている。その粘り気が、これは血なのだと、容易に少年に、理解させた。
「リオおおぉぉ――――!!」
「ソ、ナエ――!!」
か細い声で、それでも絶叫する少年を押しとどめる強さで、子女は声を上げた。
「わり……。動けんわ。……医者、呼んできてよ」
そう言って、気丈に笑う。息は荒く、顔色は真っ青。汗も、涙も、血液さえも、もはや混ざり合い、ぐちゃぐちゃな、顔で。
「医者……。医者ぁ……?」
その単語の意味を想起するように、少年は繰り返す。だが頭は、不思議と冷静に、冴えていた。
医者なんて、間に合うはずがない。それにそもそも、その間をこの場所で、彼女ひとりで耐え抜くのが不可能だ。
なにが起きているかは解らないが、なにかに敵意を持たれている。襲われている。たぶんだけれど、まだ、その射程範囲から逃れていない。もう動けない子女を置いていくことは、彼女を見捨てる行為だ。
だが、それこそが彼女の望みでもある。どうせ自分はもう助からない。だから、少年のみを逃がそうとしている。その彼女の気持ちを、少年は理解していた。だったら、逃げるべきじゃないのか? ここでふたりして死ぬより、自分ひとりでも生きた方が……。
それに、少年はまだ、少年だった。十四歳だった。いくら人の生死に深く関わって生まれた存在であろうとも、彼はまだ、幼かった。
まだ、死にたくない。その思いは、なにを犠牲にしてでも優先したいと、そう思ってしまうくらいに、幼かったのだ。
「医者……呼んでくるっ! すぐ……すぐ戻るからっ!」
子女が用意した言い訳を、少年は採用した。ここを離れる大義名分を。誰に聞かれてもそう答えるべき、彼が逃げ出した理由を。
その背中を、満ち足りた気持ちで、子女は眺めていた。自己犠牲ではない。しかして、自己満足とも、少し違った。
これは、彼女への義理だ。
自分自身のうちに植え付けられた、聖女への義理。愛する母によって生み出された、もうひとりの自分。その思想に沿うことなく生きてきた自分の、最初で最後の、聖女としての行い。
「これで少しは、報われてくれる? お母さん」
バシャン。バシャン。多量の水を伴った足音が、彼女に這い寄る。
それを無視して、子女は、残った片腕を天へ伸ばした。暗い暗い、棺桶の中のような、おぞましい地中で。
だがやがて、その力も尽きて、腕は落ちる。
それは、その地面に転がっていた、不思議な鉱石に、偶然のうちに、触れた――。
――――――――
ふと、子女は、すべてを理解した。それは、死に面したゆえの、超越的意識の賜物だったのかもしれない。そういう要因はある。だが、もうひとつ、要因があった。
『Arcanum Ego』。のちにそう名付けられる、啓筆、序列三位の、『異本』。遥か彼方から、かつて飛来した、宇宙の歴史を内包した、鉱物。地球上には元来存在しない、特殊な原子配列をした、物質。
世界の『時間』を生み出し、制御する。その一端を担うほどの力を秘めた、一冊。
それに触れたことで、子女は世界の『時間』について、わずかの理解を得た。
死に面した極限意識と、その『異本』に触れたという事実で、まどろみの中、彼女は一種の、この世の真理に、足を踏み入れたのである。
過去も、未来もない。いまこの場所に、この手に、『時間』のすべてはある。
であれば、過去に拘泥し、未来を手放した若男の判断は、やはり、間違っていた。
そんなことをいまさら思いながら、子女は水に飲まれた。現実的な破壊力を持った水に、牙に、食い殺される。溺れるように意識は遠のき、そのぼやけた視界に、誰かが映った――。
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