箱庭物語

776冊の『異本』を集める旅路
晴羽照尊
晴羽照尊

夢の足跡

公開日時: 2023年6月5日(月) 18:00
文字数:2,845


 1992年、三月。台湾。

 結局、丸一年以上は、また忙しなく過ごした。子どもを育てることが、こんなにも大変なことだとは、やはり若男の、想定を超えていたのだ。


 まず、寝てくれない。お昼寝もたくさんしていることから、夜にちゃんと寝てくれなかった。寝かしつけるにも夜泣きして大変だし、やっと眠ったと思えば1~2時間ほどで起きて、また泣く。


「ほんと、元気元気、いっぱい! はあい、大丈夫、大丈夫よ。ママ、ここにいるからね」


 だが、そんな睡眠不足の中でも若女は、子どもよりも元気そうに、なにより嬉しそうに、子をあやすのだった。


 お風呂も、大変だ。シャワーが怖いのか、お風呂に入れようとするだけで泣き始めるし、強く抵抗するから、体を洗うのも一苦労だ。


「もう、そんな暴れても、綺麗綺麗にするんだからね! ママを舐めるなよ、ごらあ!」


 そんな手のかかる子に対しても、若女は根気よく接した。自分の時間を、すべて育児に、家事に捧げる。若男も大いに手伝ったが、それでもよほど、彼女の方が熱心だった。


 そうだ。まだ、考えが甘かった。そう、若男は痛感した。金や、時間や、効率。まだ事業を始めていないゆえに、若男も多くの時間を、育児と家事に費やせた。母一人で育児するわけでもない。自分たちはよほど、他の家庭より余裕がある。

 それでも、懸命にやっても、まだ足りない、労力がかかった。普通に考えれば解ったはずなのに。子どもが――人間がひとり、増えるのだ。自分自身の面倒をまったくみられない人間が、生まれ落ちるのだ。その負担は、当然と両親へ、乗っかる。普通のことなのに、その重みを、若男は軽んじていた。


 なによりも、愛する人を独占されることに、若男は思い当たっていなかった。その感情は、間違っている。そう言い聞かせるけれど、それでもどうしても、嫉妬してしまうのである。

 エディプスコンプレックスの、逆だ。若男は生まれたばかりの自分の息子に、母親を――若女を奪われるような恐怖を、感じたのだった。


「シンファ――」


 思わず、若男は育児に追われる若女の、その背中に、抱き着いた。


「あ……。あらあら、こっちにもおっきな子どもがいたんだった。えへへ。ママ忘れてた」


 子をあやす手はそのままに、彼女は彼のことも、小さくあやした。


「……疲れてないか、シンファ」


「疲れてるのはリュウくんでしょ。大丈夫だから、寝て?」


 少しだけ皴ができた目元に指を滑らせ、若男は嘆息する。


「隈ができてるぞ。俺が面倒を見るから、おまえが寝ろ」


「うそ!? 気を付けてたのに! のに! む~ん!」


 そんな可愛らしい彼女を、息子ごと抱え上げ、若男は寝室へ向かった。


「ちょ……リュウくん! ジャーくんの前で恥ずかしいでしょ! ママとしての威厳が――」


「知らん。とにかく寝ろ。ジャーくんは俺が預かる」


「なんだと! 身代金はおいくら!? おっぱい揉ませればいいの? いまなら母乳も出るよ!?」


「残念ながら、揉むほどないな」


「うきー! これでもジャーくん産んで、おっきくなったんだからね! ほれほれ、揉んでみ?」


 腕の上で暴れる若女を、ベッドへ降ろし、嘆息する。元気だ。元気すぎる。どこかで爆発しそうなほど、若女は忙しなく、騒がしい。

 そんな状況にしてしまっている自分自身を恥じた。だが、とはいえ他に、なにをどうしていいかも、若男には解らない。

 だから仕方なく、その口だけを、塞いでおく。両手は、息子を奪うのに――彼女から引き剥がすのに忙しい。だから、口で、口を、塞いだ。


「……また今度な。いまは、寝ろ」


 育児も、家事も、多く手伝ってきた。だがそれでも、抱え上げた命の重みに、まだ、委縮する。母親を求めて、普段以上に暴れる、己が息子に、わずかに腹を立てた。


 その感情は、生物としておかしい。自分の子だ。子孫繁栄の、その一環だ。喜ばしいことだ。と、若男は自分に、言い聞かせる。

 そうしなければ自分を保ってもいられない。やはりここでも、自分は落ちこぼれだ。それでも――。


「近々、ハネムーンにでも行こう。卒業祝いにも、結婚祝いにも、どこにも行けてないからな」


 寝室の照明を落として、若男は言った。「わ! 楽しみ楽しみ! どこ行く? どこ行く!?」。興奮して若女の眼が冴えてしまわないうちに、「寝ろ」と、若男は扉を閉めた。


 ――あいつと一緒なら、全部、大丈夫だ。そう確信して、若男は、息子を懸命に、あやした。


        *


 ――で、向かった先が、なぜだか結局、台湾だった。


「本当に、こんなところでよかったのか?」


「こんなところ!? 私の故郷を馬鹿にするの!?」


 冗談っぽく目を吊り上げる若女に、若男は苦笑した。


「地元だろう。せっかくのハネムーンだ。もっと――」


「いいのいいの。私、安心するところ、好きだし」


 それに関しては若男も同意見だった。それに、学生時代に彼女とは、いくつか国を旅している。逆にこういう地元というのも悪くないかもな。と、いとも簡単に、若男は思った。


「それに、ジャーくんにも私の故郷、見てほしかったし」


 そして容易く、若男の機嫌は少し、落ち込んだ。彼女の腕に抱かれるに、どうしても嫉妬する。


「あっ! 天燈テンダン! 飛ばそうよ、リュウくん!」


「俺がジャーくん預かるから、おまえがふたり分――いや、三人分、飛ばせ」


 大義名分を得て、若男は彼女から、息子を引き剥がす。子どもみたいに駆けて行く彼女を見送り、ぐずりだした息子をなだめる。




 こうして、十分シーフェンでは、天燈を飛ばした。


「『ジャーくんが、素直でまっすぐ、いい子に育ちますように』」


「…………」


「『あと、リュウくんとずっと、ラブラブでいられますように』」


「……それは、書かなくてもいい」


 その言葉に、若女は、笑った。




 台北、文山ぶんざん区、猫空マオコン


「うわあ……高いよ、リュウくん」


「そうだな。……ちょっとジャーくん貸せ」


「はいはい。……ジャーくん。パパが抱っこしてくれるって」


「ほら、ジャーくん。地面が遠いぞ。落ちたら大変だな」


「ちょ……こら! リュウくん! なにジャーくんいじめてんの! 怒るよ! ぷんぷん!」


 幼稚な嫌がらせに、若男は恥じ入った。




 信義しんぎ区。夜市。


「あ、あれも! それも食べたい! あっちの! あれあれ、昔から好きなんだぁ」


「どれだけ食う気だ」


「ちょっとだけ! 余ったら余ったら、リュウくんが食べるから心配してない!」


「心配してくれ」


 その夜はふたりして、食い倒れた。




 そして、北投ほくとう区。日勝生にっしょうせい加賀屋かがや


「わあい! 温泉温泉! 貸し切り貸し切り!」


「騒ぐな。子どもか」


「騒ぐよ! 子どもで結構だもん! ほらほら、ジャーくんも行くよ!」


「おい。ジャーくんはまだ……って、遅かったな」


「あらあら、もう、元気元気、いっぱいなんだから」


「……おまえのせいだ」


 元気に転んだ息子を、抱き上げた。




 どれもこれも、なにもかも。若男にとって、人生で、最高の思い出だ。


 彼は、いまでも想起する。思い出して、無意味な後悔に苛まれる。


 あれだけの幸福があったから、バチが当たったんだ。そう、思ってしまうのだ。


 そして、それを認めるように、彼の人生で最大の不幸が、もう、すぐそこにまで、迫っていた――。




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