この世界には、『答え』などない。
数多の『選択』が『現在』をかたどっている。それだけが『真実』だ。
あのときこうしていれば――。そんな『たられば』の空想は意味を持たない。こうして『今』が確定しているから。――ではなく。『あのときこうしていたら』の『世界』も、すでに『ここ』に、あるからだ。
すべては『我ら』の手のひらにある。『可能性』よりも確実に、極小のこの一点に、あらゆる『現実』は内包されている。
だが、『物語』は、ひとつの道筋しか描けない。それは、『あなた』が選択した――『わたし』が選択した――その、重なり。
もっとも鮮明で、もっとも肉感的な、交わり。『主観』と『主観』の、『妥協点』。
我々は、『正義』を束ねて生きている。
我らの『正義』を押し付けて。彼らの『正義』を受け入れて。
掲げ。叫び。信じ。頼り。縋り。認め。許し。取り。選び。捨て。探し。思い。忘れ。零し。揺れ。握り。紡ぎ。削ぎ。磨き。知り。解し。
どうしようもないことをどうにかして、やっとの思いで、立っている。
必ず、『他人』が存在する世界だから。『自分』を殺して、生きている。
だけどどうしても、譲れぬ『正義』が、人にはある。
誰かの『正義』を歪めても、語るべき『言葉』が、あるものだ。
これが、世界に蔓延する、『不条理』。
人類に科せられた、『罪業』だ。
――――――――
痺れるような感覚がして、若女は跳ね起きた。
周囲を検分するに、寝室だった。眠っていた。隣には、愛する男性が、まだ寝息を立てている。
穏やかな表情で。安心しきった表情で。
すべてを安堵したままの、緩みきった表情で、そこにいる。
「このまま……このまま……」
その平穏を守るように、若女はベッドを出る。それから、そばにあるベビーベッドに向かった。だいぶ落ち着きを得てきた息子に、やはり癒される。
できることなら、この時間を永遠に……。若女にだって、そのような願望はある。愛する家族たちと、ずっと、一緒に――。だが、終焉は、待ってくれない。
「リュウくんをお願いね、ジャーくん」
そう告げて、彼女は息子に、キスをした。
*
外に出る。街は静まり返っていた。
深夜三時だ。人っ子ひとりいない。
誰もが明日を――新たな今日を、迎えられると、信じて疑わず、眠っているのだろう。
そしてそれ自体は、さして間違いじゃない。
「みんなみんな、安らかな気持ちでおねんねちゅう。世界はすてきに、帳を降ろした」
両手を広げて、天を抱えるように、仰ぐ。
そのとき、まるで、それを合図としたように、空間が、傾いた。
『わっ――』と、小さな阿鼻叫喚が、瞬間だけ、聞こえる。眠らずにいた者たちか、あるいは、夢の中から引き戻された幾人かが、世界の変容に、怯えたのだ。
だが、それも束の間。たしかに、おかしな感覚があった。地割れに飲まれたような、身体が――世界が、傾いた感覚はあった。しかし、過ぎ去ってみるに、世界はなにも、変わっていないような気さえする。
ゆえに、街は、また静寂に落ちた。改めて眠りに誘われた。誰もがなにも知らぬまま、世界の終焉は、まだ、続く。
『終焉の斎が来た』
「うるさいうるさい。うるさいの、イシちゃん」
広げた腕を引き戻し、その勢いで、頬を叩く。だが、彼女の行動を予期していた『意思』は、醜態をさらすまえに、彼女のうちへ引っ込んでいた。
『もはや世界の『振れ』は止まらぬ。人類はこれより、『箱庭』から解き放たれる』
その瞬間、また、転びそうになるほどの、世界の傾きが、平衡感覚を狂わせた。
「うん……知ってる。でも、イシちゃん――」
「なにを知っているんだ、シンファ」
「――――っ!!」
振り返ると、そこには、息を切らした若男がいた。その腕には、愛する息子を抱いている。
「おまえ、またひとりですべて、抱えていたな。……そんなに俺は頼りないか?」
「……早すぎるよ、リュウくん」
「俺は――」
若男が言いかけたそのとき、また、世界が振れる。それは、地震のようで、まったく違った。
そしてこの三回目の『振れ』で、若男にもその異様が、わずかに理解できてきた。
「月が――割れている――?」
天に煌めく満月が――言葉通りだ、割れていた。ふたつの半月に砕け、わずかにずれて、見える。満月の写真を半分に切り、ずらしたかのようだ。世界の次元が、ぶれている。
「リュウくん。時間がない。もう少しで、『箱庭』は、ひっくり返される」
「『箱庭』とはなんだ? 解るように言え。おまえは、なにをしようとしている」
『人類の解放』
「うるさい。イシちゃんは引っ込んでて」
若女は、思い切り両頬を叩こうと――して、静かにやめた。そのまま、自身の頬を優しく包み、気持ちを鎮める。
「人類の……解放だと――」
「……人類は、この世界を追い出される。この肉体から解放される。神が創ったこの肉体から、私たちの魂は、あるべき場所へ、還される」
「な……ん、だと……?」
「人類は、過ちを犯しすぎた。もはや世界を任せるには、及ばない。……それが、世界の判断。イシちゃんを遣わした、『神』の、意思」
このとき、四度目の、傾き。また月は――天は割れ、空間が、砕けていく。
「でも、だいじょうぶ。だいじょうぶなの、リュウくん」
大地は、安泰に思える。たしかに、まだ、立てている。だが、地面は確かなまま、天が、空間が、震えて――振れている。
後にして解ることであるが、これが、『幾何金剛』に封じられる以前の、『天振』の影響。遮られることのないそのエネルギーは、空間を次元ごと、引き裂く。
「大丈夫……大丈夫、だと――?」
バランスを崩しながら、その埒外の天変地異に慄きながら、若男は、唇を噛む。
この、理不尽な災厄に、圧倒的な再編に、無力な己を――人類という存在を、悔やんで。
「こんなものが、大丈夫になって、たまるかっ――!!」
「――――っ!!」
いまだ揺れ、震え――振れ続けている世界を見、若男は叫んだ。愛する彼女へ向かい、覚束ない足で、詰め寄る。
「こんなことのために、おまえは、なにを犠牲にする気だ!? 大丈夫だと!? これを『大丈夫』にするために、おまえはこれまで、これから、なにをするというのだ!!」
「私は――」
「俺を見ろ!!」
憤怒に近い。その怒号に、若女は委縮した。それでも、言われるままに、彼を見る。怒りを返すように、睨む。
「俺がいる……。俺と、この子が――ジャーくんがいる。これだけでは足りないのか? おまえがおまえを犠牲にすることをためらわせるのに、俺たちでは、足りないのか?」
「…………」
夫を見、子を見、そうして下がった視線は、さらに、下がる。自分自身を見るように、うつむく。
「私は――」
幾度目かの振れに、若女は気持ちを持ち直す。
「犠牲になんかならない。あなたと――あなたたちと、ともにいる。だいじょうぶ。……だいじょうぶ、だから――」
それは、言い聞かすような言葉。愛する家族へ。夫へ。子へ。そして――
自分自身へ言い聞かす、言葉のようだった。
振れる世界の中、震える自分に、諭す声。
母が子に言い聞かせる、優しさの音。
「リュウくん。ジャーくん。よく聞いて」
彼の――彼らの肩を掴み、その目を見つめ、若女は語る。
「『異本』は、人類の代わりにこの世界に立つ、新しい生命体。だけど決して、敵なんかじゃない」
自分の胸に、その奥にいまだいる、存在。それに意識を向けて、手を当てて、思う。
「私たちは、解り合える。共存できる」
空間が、振れる。この世のすべてが引き裂かれて、そのうちにいる、魂が、取り出される感覚。
それを感じて、若男は、彼らの子は――
「……きっと、また、会えるから――」
そう言って、満面に笑う彼女を、最後に見た。その姿を焼き付けたまま、すっ――と、意識を、失う。
――――――――
ガラス細工のように砕けていく世界を見上げ、彼女はひとつ、呼吸する。
持ち出してきた『物語』を、その胸に抱き、自らの、内側へ。
「イシちゃん。聞こえる?」
『是』
「あなたの意思は、完遂された。そうよね?」
『正しく。我が存在意義は、滞りなく』
「だったら、もうあなたは自由なはず。好きに生きて、いいはず」
『…………』
「人類の魂は、肉体を失う。私たちは、あるべきところへ、順当に、還る。悪いことじゃないわ。それは、いつか人類が迎えるべき、終焉。神を模して生まれた私たちは、いつか、『神になる』ことを宿命づけられている。それが、いま。だけど――」
『…………』
「だけど私は、まだ、このままがいい。触れて、熱をもって。痛くて、愛おしい。この息苦しさを抱えて――人間として、生きていたい」
『もはや、解放は止まらぬ。人知の及ぶ事象では無い』
自身の口から放たれる、別なる者の言葉に、若女はひととき、間を開けた。
終わりゆく世界に、見惚れて。それでも、人の世に、焦がれて。
「これから、因果を立て直す。『私たちの魂は、人体という箱庭を、神の意思により追い出される』。――この物語を、『因果』を、ぜんぶ虚言に変えちゃうの。……でも、私にはできない。これを扱うには、あなたの力が、必要」
強く言って、彼女は自ら描いた物語を、握り締める。
それは、『ずっとそばにいる』、『あなたたちを見守っている』、だから、『あなたはひとりじゃない』、という思いを込めた、物語だ。
彼女が伝えたかったことを、世界に抱いた思いを、家族を愛する気持ちを、懸命に込めた、一冊。
いずれ、『啓筆』序列一位として、すべての『異本』を統べることとなる、言葉の束。
この世のすべてを受容した彼女から、愛する世界へと捧げる、色とりどりの、花束だ。
『……理解しているか、人間。我を受容するということは、汝は――汝だけは――』
「解ってる」
彼女は、最初から、解っていた。
「私の魂は、あなたと結ばれる。あなたとともに、天に還る」
『…………』
長い時間を、彼女たちは過ごした。ずっと変わらず、その『意思』は、若女の中に住んでいた。
だから、その間、彼女がなにを考え、なにを思い、なにを決意してきたかを知っている。矮小な人間が、それでも懸命に、なにを信じてきたかを知っている。
心などない、ただの、『意思』。神に遣わされた、ただの、『意思』。
『……よかろう。汝の物語に、付き合おう』
ただそれだけの『意思』が、いま、こうして、一個の人格となった。
『白心花』
そしてその自我で、友の名を、呼んだのだ――。
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