息を――気持ちを整えて、少女は、席につく。どうやら思いがけずに立ち上がっていたようである。
「……あなたに言っても、仕方のないことだったわ」
謝ったりは、しない。だが己が非は認めねばならない。この席は、きっと、そのためのものだから。
「いいや。……それは、僕にこそ言うべきことだ。まあ――」
言葉を選ぶように、女神さまは瞬間、思案して、
「ある意味、それこそが職分だからね。迷える子羊の、声を聞き、導くことが」
そう、言った。
「そんな筋合いはないわ」
少女は言う。が、
「筋合いはあるんだよ」
即、女神さまは答えた。苛立ち、とは違う。だが、確かに感情を、わずかにであれど、表に――面に出して。
「ノラ・ヴィートエントゥーセン。話を続けようか。君は忘れている。己が生い立ちを。それ自体は、薄情なことであろうと起こり得る話だ。人間は、忘れる生き物だからね。だが、ある意味、君は――僕たちは超越している。こと記憶というものに関して――この世界に溢れる情報に対して、僕たちは、超越的にアクセスできる。そんな僕たちが――君が、両親のことのように、大切なことを思い出せない。これは、どういうことだと思うね?」
一気にまくし立てて、女神さまは、少女に問うた。少し、また感情を表出するように、やや前傾に、少女へ顔を近付けて。
「そんなことは知らないわ」
だから少女は、躱そうとする。逃げようとする。自らに向き合うことは、なるほど、必要だろう。大切だろう。そこから逃げ続けるわけにはいかない。しかし、それは、いまここでなくてもよいはずだ。それに、いまは、話し合いの最中なのである。
このままでは、殺される。家族にも話していない、自らの内面を掘り起こされて――ともすれば、自らを変えられて、殺されてしまう。攻め立てられて、追い詰められて、一個人のアイデンティティが崩壊するまで、完膚なきまでに浸食される。そう、思った。
「だいたい、あなたこそなんなのよ? ニグレド・エーテルエンド・レイ・クロウリー? そのうえ、さらりと言ったけれど、偽名ですって? 他人には名乗りを強要しておいて、自分は本名を隠すなんて、どういうつもり?」
「僕には名がないからだよ。……いいや、その名が、間違いであると気付いたからだ。いま騙っている名を解説してみるなら……まあ、半分は語感で選ばれているね。ただ、意味があるとすれば、錬金術における大いなる業。その第一の工程、黒化の名を持つことくらいか。第二工程、白化へ繋げる、浄化の工程。僕は僕自身を――間違った名を捨て、第二段階へ繋げるための第一段階として存在させると、そう、決めたんだ」
「……言っている意味が、解らないわ」
「解らなくて結構。そして、解らなくて当然だ。僕はそのつもりで話している」
「ふざけているの? わたしとまともに、会話する気がないってこと?」
「大真面目だし、君と会話する気は、おおいにある。むしろそのためだけに僕は、ここにいる」
「だ――」
「僕はね。ノラ・ヴィートエントゥーセン」
少女の言いかけた言葉を、半ば強引に、強い語調で制して、女神さまは直視する。少女の緑眼を射すくめる。その、自らの碧眼で、まっすぐと。
「ただ、君を、ここで、殺すと、そう、言っているんだ」
一言一言を噛み締めるように、女神さまは解りやすく、そう、言った。
*
敵意。害意。殺意。……を、少女は、彼女に、見た。
言葉通りだ。彼女――女神さまは、自分を、殺す気で話している。そう、少女は理解する。ただ、本当の実力行使――力任せに身体的な死を齎そうという気は、おそらく、ない。それが解るから、むしろ、おぞましくも感じた。
「さきほども言ったが、ノラ、君のその名は、君の生まれ故郷、ノルウェーにおいて、しごく一般的な女性名だ。で、あるのに、ヴィートエントゥーセンという姓は、それを持つ人間は、ノルウェーどころか、この地球上にただひとりとして、存在しない」
女神さまはそう言って、その後、言葉にはしなかったが、『この程度であれば、君には言うまでもないことだが』と、視線を向けた。そういう言葉裏は読めるが、感情は、また深く隠れた。心の泉に、深く、沈めたように。
「まったくもって、作為的じゃないか。ヴィートエントゥーセン。『シェヘラザード』の名を持つ『異本』に適応した君が、透き通る白い肌に、美しい銀髪を携えた君が、その名を持つのは」
「わたしは知っているわ。ヴィートエントゥーセン。この姓は。先祖代々継がれてきた、確かに存在する、名前だって」
「いいや、君はそんなことなど知らないはずだ。両親のことを忘れているのに、彼と彼女の名をも忘れているのに、どうしてそう、言いきれる?」
「それがわたしの記憶だからよ。確かに、お父さんとお母さんの名前も忘れてるわ。でも、間違いなくわたしの両親だし、同じ姓を持っていて、その家系はさほど長くはなくっても、脈々と続いてきたってことは、覚えている」
「それは改竄された記憶だよ」
「そんなことを言い始めたら話にならないわ。この、改竄されたわたしの頭でも理解できるような、完全な証拠を、見せてみなさいよ」
感情は、ない。ただふたりの少女は会話をしていた。そうしてここで、ひとつ、間が開く。その隙に互いに、ティーカップを持ち上げ、その内溶液を、飲み干した。だからそれを見計らい、脇の下僕が、新しい紅茶を注ぎ入れる。
「……論点を絞ろうか、ノラ」
新しい紅茶を一口含んで、唇を濡らしてから、女神さまが先に、仕掛ける。
「君は、君の言葉に対する確信を持っている。両親のことは忘れた。そして、それより前の尊属に関しては会ったことがない。つまりは、思い出などというものはまずもって、存在しない。けれども、両親は自分自身の間違いのない親であると確信しているし、それより前の親族も存在することは知っている。そうだね?」
「そうね」
「……では、君のいまの父親についてはどうかな? よもや忘れた、とは言わないだろう?」
瞬間、少女は首を傾げた。だが、それに関しては当然、忘れるなんて、ありえない。
「ハク、の、ことよね? 覚えているわよ。忘れるわけないじゃない」
それは、決して本当の両親よりも大切になったから、ではない。それはただ単に、ついさきほどまで――それまでずっと一緒にいたからだ。いくらなんでも数時間で忘れるわけがない。そういう、意味である。
「ならば、……どうだ? いまの君の父親というべき、氷守薄。彼は父親として、どうだ?」
「どうだと言われても――」
曖昧な、抽象的な、質問だった。ゆえに、答えるべき言葉が、定まらない。なんなのだろう? いったい、なにを聞かれているのだろう?
「なんだ……たとえば彼は、君の父親として、ちゃんとやれているかい? 君は彼を、本当に父親だと、思えているかい?」
「わたしのことならなんとでも言えばいいわ。でも、ハクのことを悪く言うつもりなら、ぶっ飛ばすわよ」
言葉ではなく、拳で。という意味合い。それを掲げて、少女は言った。
「違う、そうじゃない。君の話だよ、ノラ・ヴィートエントゥーセン。君は――君には本当の父親がいた。彼はもう亡くなってしまったけれど、しかし、君は彼の記憶を残している。その顔や外見は――名前は忘れようとも、大切で、愛する父親として、覚えている。……で、だ。そのうえで、君は、氷守薄を、最初の父親と同じか、それ以上に、愛しているか、という話だ」
少女は不思議な角度の言葉に、少々面食らい、赤面する。
「愛して……いるわよ」
言葉に嘘はない。だからこそやや、言い淀んだ。
「本当に?」
「本当よ。……なんなのよこれ、今度は羞恥プレイなの?」
おどけてみるが、どうやら、女神さまは真剣だ。だから照れ隠しに、少女は紅茶を、一口、啜る。
「だとしたら、どうなると思う?」
女神さまはまた、抽象的な言葉で、問う。だが今度は、少女がその、答えにくい問いに、なんとか返答を選びきる前に、続けて、女神さまが言葉を紡いだ。
「もし、いま、君が。前の両親と同じように氷守薄を忘れたとしたら? 彼との思い出を残したまま、彼の顔と、名を忘れたとしたら? そして彼以前に父親がいた――あるいは母親もいたことまでも忘れてしまったとしたら? 君は氷守薄を、自分と血が繋がった、本当の父親だと思い込むと思わないかい?」
「そう…………かも、しれないけど」
それで、女神さまの浮き彫りにした『論点』が、少女にも、見えた。
「僕は君に、いかなる真実も強要しない。君が、自分で知るんだ。ノラ・ヴィートエントゥーセン」
指を突き付けて、女神さまは、言う。
「君は元来、養子なんだよ。ノラ」
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