1989年、八月。イタリア、エミリア=ロマーニャ州、ボローニャ県。
ボローニャ大学。
「ぐー。すぴー。ふにゃー」
「……おい、起きろ、シンファ。『先生』が睨んでるぞ」
高々と寝息を立てる若女に、若男が声をかけた。その無意味さを理解していながら。
「てめえ」
件の『先生』が、彼女の頭上にまで寄ってきて、顔面を歪ませる。生徒たちと同じ教科書を丸めて、狂気へと変え、振り上げる。
「人の話は、ちゃんと聞かんかい! ボケッ!」
そして、それを思い切り叩きつけた。
「は、はるさめっ!?」
艶やかな黒髪を振り乱して、若女は叫ぶ。
たった五人の生徒しかいない、こぢんまりとした特別教室。ひとりの『先生』とその生徒たち。特別な彼らの、『異本』の、始まりの物語。
――つまるところが、これは、彼女の物語。その、第一章だ。
*
「あんのくそじじい、本気の本気で、殴りやがって」
ぐるるるるるる。喉の奥を鳴らして、若女は悪態をついた。
「おまえが悪い。『先生』がそういう人だってのは、解ってただろう?」
若男は嘆息した。しかし、その声には、いくばくかの気遣いも見て取れる。さらに言うなら、彼は彼女に合わせて歩幅を調整していた。彼女を置いていかないように――というよりは、きっと、置いて行かれないように。
けっして歩みの速いわけではない彼女に、ずっと遠くへ行かれないように――。
「あーもー。リュウくんまでそんなこと言う! 私はもっともっと、甘やかされてもいいと思うの!」
ぷんぷん。若女は声に出して、怒りをあらわにした。
「そうだな。俺もそんなつもりでいたのだが。しかし、それを自分で言うやつの言に従うのは、なんだか癪だな」
彼女の『ぷんぷん』から目を逸らすように、若男は言った。それを見ては、彼女に逆らえなくなる。そんな予感がしたからだろう。
若男の言葉に、若女は嫌悪をあらわにする。ぐるるるるるる。また、喉を鳴らした。
「バカバカ、リュウくんのあまのじゃく! そんなことばっかり言ってると、きらいきらいになっちゃうんだからね!」
「ちょっと待て、それは困る」
「ふーんだ」
「おまえに嫌われては、俺の生きる希望がなくなるだろう。待て。落ち着け。話をしよう。人は話せば解り合える」
若男はまくしたてた。次から次へと、言葉を放つ。なまじ頭がいいから、その弁明は、無限に続いた。
「ぷっ」
と、やがて根負けして、若女が噴き出す。
「あははははは、はは! もうっ! 冗談、冗談なんだから。そのへんは解ってくれないと」
さもおかしそうに、腹を抱えて笑う。それを見て、若男もきょとんとして、やがて、苦笑した。
「いや、そうか。それなら、いいんだ」
困惑気味の若男の腕を取り、若女は体を寄せる。
「ばかみたい」
そんなふたりの姿を見て、かつての司書長は、そう思った。
*
かつての司書長――幼き才女は、まさに勤勉な女子であった。予習復習はあたりまえ、起床から登校までの時間も、終業後、帰宅してから就寝までの時間も、すべてすべて、勉学に明け暮れた。ましてや、講義中の居眠りなど、思い付きさえしないような、そんな、女子だった。
当然と、恋愛になどうつつをぬかす者たちにも、講義を真面目に聞かない者たちにも、どこか、一線を引いていた。そんな無駄なことを、したいやつはすればいい。それでも、自分とは相いれないのだと、そう、思っていた。
「――ったああああぁぁぁぁ! だから! いちいちいちいち、叩かなくてもいいでしょうが! 私が馬鹿になったらどうしてくれるのさ!」
「うっせえわボケカスがあぁ! おまえの頭にゃ、もとよりなんも詰まってねえ! じゃなきゃこんないい音、するわけねえだろぉがっ!」
ぽかん。と、再度、若女の頭からいい音が鳴った。それに、少人数のその教室からも、わずかの笑い声が上がる。
「むーん。この恨み、はらさでおかねえからな。くそじじい」
両手で頭を抱えて、若女は言う。
「え、なに?」
小指で耳をほじくって、『先生』は言う。引き抜いた小指を突き立てては、その先を、一息に吹いた。
かちん。と、堪忍袋の緒が切れる音を、その場にいる者たちは、聞いた気がした。
「てめえの老い先短い命を、ここでここで、終わらせるって言ってんのよ!」
うがああああああ! と、獣のように若女は、『先生』に飛びかかっ――。
「そこまでにしといてください!」
そこで、才女が声を張り上げる。
若女の攻撃は、機先を制され、どうやら、止まった。
「毎度毎度、くだらない茶番で講義時間を浪費するのは無益です! 『先生』も! シンファさんにかまってないでどうぞ、講義を進めていただければと思います! 彼女のせいで、ずっと教科書が進んでいませんよ!」
ぽかん。と、不思議な雰囲気が漂った。ように、才女からは感じられた。まるで、あまりに場違いな発言をしてしまったときのように――。
「わっはっはっはっはっはっはっは!」
『先生』が、笑う。まさしく、場違いな発言を、笑い飛ばすように。
それに続いて、生徒たちも声を上げる。呵々大笑だ。
「あっはっはっは! お嬢ちゃん、おまえまだ、自分が特別な人間だとでも思ってんのかい?」
生徒のひとり、紅色の長髪を地につくほどに伸ばした、妖怪のように白い肌をした美男は、言った。
「ラージャンの言う通りだ。俺たちはただの落ちこぼれ。でなければ、こんな隔離された一室で、せせこましく肩を寄せてなどいない」
若男も同意する。諦観も含まれてはいるが、そこには、相手へ向けた嘲笑も、多分に盛られていた。そんな解り切ったことをいまさら言わせるな、と。
「おまえに同意されても嬉しくないんだがねえ」
「俺も、おまえの意見に同調するなど、気分のいいものではない」
それから美男と若男は言い争いを始めたが、そんな諍いなどすぐに、吹き飛ばされる。
「ちょっとみんな、笑いすぎ!」
若女だ。彼女はなにに怒っているのか、いつもいつも、気を立てているように、才女からは見えた。
「ゾイちゃんは、真面目に真面目に、勉強してるだけじゃない! 落ちこぼれ? 馬鹿ばっかり? それがなに? 勉強は、どこからでもここからでも、できるんだよ!?」
全員へ向き直り、若女は言った。彼女の声に、部屋中の笑いはやむ。誰もが、彼女を好きになり、誰もが、彼女の話を聞いた。
それこそが、彼女の持つ――彼女だけが持つ才能。周囲にいる者を、問答無用に仲間にする。この世界でもっとも強く、もっとも厄介な、才能だった。
「ちょっと待って、ゾイちゃん? それ、私のこと?」
「え、うん。ゾーイ・クレマンティーヌ。ゾイちゃん」
そのように略すのが当然といった様子で、若女は言った。行儀悪く、相手を指差しまでしながら。
「人を指ささないでください」
「あ、ごめん」
才女は、とりあえず、振り払った。
落ちこぼれの教室。馬鹿みたいな隣人。そして――自分も、そのうちのひとりだという、現実。それらを頭から追い出して、だから、頭は、空っぽになる。
だからこそスポンジのように、彼女の頭は、やけに素直に、愚かを受容した。
「あ、そういえば」
愚鈍へと一歩近付いた才女の耳に、鋭くそれは、タイミングを見計らったように、届いた。
「おまえら明日から、ちょっと遠征するから。シリアの方まで」
……ええええええええぇぇぇぇ!?
『先生』の唐突な発言に、その場のあらゆる雑念が、吹き飛ぶ。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!