そのころ、台湾、台北。WBO本部ビル。
「……あれ、失敗したの?」
首をかしげて、ロリババアは己が手に握られる、正方形の、濃緑色をした『異本』、『グリモワール・キャレ』を見つめた。確かに、生成した空間を用いた長距離移動に関しては、まだ覚えたてで、失敗する可能性も多くあった。しかし、手ごたえは感じていたのだけれど、と、不思議がる。
「……『モルドレッド』は、少々軽薄なところもあるからね。……ゾーイを怒らせてなければいいけれど」
彼にしては珍しい、笑顔を完全に消した、苦い顔で、若人は言った。
「ってえことは、『空間系』の『異本』なんですかぁ? あの『司書長』の『異本』ってのは」
逆立てた金髪を揺らし、重そうな筋肉まみれの腕を持ち上げたゴリマッチョが、これまた軽薄そうに問うた。
「私は、君の性格にまで口出しする気は毛頭ないけれど、しかし、ひとつだけ忠告させてもらえるなら、聞かれていないからと滅多なことは言うものじゃないよ。特に彼女の、『友達』の悪口はね」
若人は今度こそ苦く笑って、自らのデスクに常に置かれている、煎餅をひとつ、手に取った。
「単調な私の『異本』と違って、彼女の『異本』は、WBO最強だ」
上司の、穏やかながらも強く言い切った言葉に、さすがのゴリマッチョも、少し青い顔で、口を噤んだ。
――――――――
パリピは、想定から外れた光景に、顔をしかめた。
「は? なんこれ?」
台北の、WBO本部ビルディングなのだろうか? やけに散らかりまくった部屋だが、事務の部屋のようである。質のいいデスクがひとつしかないわりには、広く、おそらく上位の職員が使用する部屋だろうとは思うけれど。
WBO本部は、超高層ビルディングだ、部屋数も多く、なんなら入場禁止部屋も数多くある、少なくとも最近は、ほとんどの時間をその建物内で過ごしているとはいえ、知らない部屋は多い。ゆえに、本部ビルのどこかである可能性は十分あるのだが、しかし、知らない部屋に飛ばされる覚えがない。
……いや、仮に覚えがあるとしたら、あのロリババアとの確執だろうか? とはいえそれも、悪意を持たれるほどの不仲ではないと、パリピは自覚していた。だとしたら、むしろ茶目っ気で、変なところに飛ばされた可能性の方がしっくりくる。
だがそんな期待も、背後からの声に、即座に裏切られた。
「もうお帰り? 『モルドレッド』さん」
振り返り、視界に、わずかなオレンジを見る。そこから目を落とすと、無意識に想起していた、いま一番に会いたくない人物が、そこにはいた。
「ぞ、ゾーイ・クレマンティーヌ……さん?」
反射的に一歩、パリピは後ずさる。即座に、状況を確認。現在地はどうやら、『世界樹』の『司書長室』だ。ならば、階層は一階。本気で走れば、ビルの外へはすぐ出られる。
彼女の『異本』に関して、パリピはほとんど、なにも知らない。だが噂によれば、その力は『空間系』。そして、その効果範囲は、『世界樹』範囲内。
つまり、ビルの外まで出れば、きっと逃げ切れる!
「べつに、部署違うし、敬語とかいいですよ? お仕事のお話しじゃないですし。そもそも、あなたのほうが年上ですしね」
プライベートで、お話しをしましょう。そう、無表情で、司書長は言った。それに、パリピはぞっとする。
足に力を込めつつ、パリピは隙を窺った。……だが、隙しかなさ過ぎて、逆にタイミングが掴めない。そう思い、おもむろに見た彼女のTシャツには、『きゅーけーちゅー』と日本語で印字されていた。
「わた――」
「ひいっ――!」
一歩、司書長が小さく、寄ってきたから、動物的本能で、パリピは動いた。肉体を、全力で駆動。それは人体の限界――いや、それを超える力で、疾走する。勢いだけで強風を発生させるほどの、高速で。
パリピは、走った。現在地の把握もそこそこに、とにかく走った。ガラス戸を開ける余裕がないほどに、流れる人波こそうまく避けたが、信号は無視し、あやうく車を轢きかけた。……だが、車の存在に気付いて、逃げ切れたと安堵する。外に、出ていたと――。
「逃げなくてもいいじゃないですか。それに、あなたが走ると危ないです」
気付くと、外にいた。そのはずだった。
だが、次に気付くと、パリピは、さきほどと同じ、『司書長室』にいた。
なにが起きたのか。なにが起きているのかはもう、わけが解らなかったが、かろうじて、パリピは、情報の齟齬だけには思い至った。つまり、司書長の『異本』の効果範囲は、決して、『世界樹』内のみにとどまらない、と。
「私は、あなたが言うように、お子様です。いい歳しても、背、伸びませんし。体だけじゃなくて、心も幼いままなんです。なんとかしたいとは、思っているんですけどね」
全力を出しすぎて、腰を抜かしている。そんな、立ち上がれないパリピと目線を合わせるように、司書長は腰を落とした。
「あの……なんてーか、冗談やし。クレマンティーヌさんを悪く言ったわけじゃないってか。えっと、『管理部』のお仕事を貶したわけでも――」
「私、そんな話、してないですよね?」
首をかしげて、司書長は言った。だがその目は――顔は、微塵も笑っていない。
「気にしなくていいんですよ? 実質、『管理部』は私ひとりでやってますから。その職責を負うのは私だけなんです。だから、べつになにを言われても構わないんですよ。『管理部』の――私のお仕事がお粗末なことくらい、自覚ありますから」
違う。そうじゃない。現場の状況は自らの目で見ていないけれど、自分の上司や、さらに上の、最高責任者などが言うところによれば、『管理部』の仕事が芳しくないのは、司書長以外の責任だ。
無能な『司書長室管理員』や、他の『司書』たち。あるいは、やたらと大量に書籍を蒐集する、『執行部』や、もしくは組織そのものの責任なのである。それは、最高責任者リュウ・ヨウユェもが認めるところだった。「本当に司書長には負担をかけている。さすがの私も、彼女だけには頭が上がらない」。かの壮年をもってすら、そう言わしめるほどの、重要な部署であり、人物なのだ。
そして、それゆえにこそパリピも――他の、現場を知らない『執行官』たちもみな、『管理部』を毛嫌いしている。ありもしない汚点を持ち出しては、陰でこそこそ、悪口を言うのだ。そうでもしていないと、自分たちの働きに誇りすら持てない。それほどまでに、司書長はひとりで、容易く、あり得ないほどの利益を、WBOにもたらしているのである。
「ご、ごめんなさい」
パリピは、パリピ語を使うでもなく、真面目に、謝罪した。
「なにがですか? あなた、なにに謝っているか解っているんですか? だいたい私、なにかに怒っているって言いましたっけ?」
言われなくても、見れば解る。それは、誰の目から見ても明らかだろう。だがもちろん、パリピはそんなことを、指摘などできようはずもない。
「私は、お話しをしましょうって言ったんですよ? もちろんプライベートですから、いやなら断ってくれていいです。でも、なにも言わず走って逃げるのは、失礼じゃないですか?」
「すみ、ません」
パリピは、今度は意識して、謝罪した。なにに対して謝意を抱くか、ちゃんと意識して。
「謝らなくてもいいんですよ。解ってくれれば」
初めて、司書長はパリピに向けて、わずかに破顔した。だがそれは、無表情よりも――怒りを表出しているよりも、よほど怖ろしかった。
「あと、これも、謝らなくていいんで、解っておいてくださいね」
るーしゃんは気にしてなかったから、ほんと、いいんですけど。そう、少し小さな声で、自分にだけ言い聞かせるように、司書長は付け加える。
「私、お子様だから、大切な『お友達』を悪く言われると、いやなんですよね。私のこととか、『管理部』が~とか――それは私個人という意味ですし、どう言ってくれてもいいんですけど。……あなたたちにどう思われようが、構いませんし」
でも。
「るーしゃんとか、他の、『管理部』に所属している、『司書』さんたちは、みんな私のお友達なんですよ。まあ、人間関係のことだし、あなたたちとは合わなくて、きらいになることもあるかもしれないけど――陰口とか言いたいこともあるだろうけど。でも、本人の目の前で言っちゃうと、陰口じゃなくて悪口ですから。今後は、気を付けてもらえますか?」
空五倍子色の装丁。特段に司書長は意識していなかっただろうが、ふと、その色に、パリピの視線が止まった。
その『異本』。はたしてどういう性能を秘めているかは解らないが、しかし、それを彼女が扱うことで、みなが羨み、妬みさえ抱くほどの働きを実行している。そういう、畏怖の対象ともいえる、一冊。
WBOという組織内において、最強とも言われるほどの、たかがひとりの人物が扱う、『異本』だ。
「解、りました」
「そうですか。解っていただけてよかったです」
あなたをきらいにならずにすみました。そう言って、にっこり笑うと、司書長は立ち上がった。「じゃ、本部の――『執行官長室』に、送りますね」。そう、気楽に言う。確かに、瞬間移動させる程度、造作もないのだろう。であれば、少なくとも、『空間系』であることは間違いなかったようだ。
だがしかし、どうして『執行官長室』に帰る予定だったと解ったのだろう? いや、ともすれば、最初からだ。どうして、離れた部屋にて発言した悪口を、彼女は把握していたのだ?
「気を付けてくださいね。怪我しないように。……といっても、あなたはたしか、死なないんでしたっけ?」
いいえ、むしろ――。
言葉は、途切れた。
――――――――
けたたましい轟音を鳴り響かせ、『執行官長室』に、パリピが唐突に、転がってきた。
高階層にある『執行官長室』の、デスク後ろにある、ガラス張りの壁に激突し、その高度に、瞬間、ぞっとする。だが、仮にそこから落ちる事態に直面したとて、死なないし、痛みも、パリピはあまり、感じない。
「ふぉいひー、『もうもうっと』」
煎餅を齧る音が、響く。
パリピをこんな体にした、張本人の声が、あまりにも気楽に、彼女を迎えた。
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