はあ、はあ……。と、彼女は、呼吸する。
人間として、生きている。その証を、揺らす。
「舐めとんのか、ワレェ……」
轟音は、『世界樹』――そのビルディングを叩き割るほどの勢いで、飛来していた。雷が、大樹を割るように。
「遅かったわね、パラちゃん」
涼しい顔で、少女は言った。見下すように、一度、その美しい銀髪を払って、不遜な態度を見せる。
対して女傑は、乱れた様相をしていた。疲れているのか、やや前屈みだ。そのせいで、ライダースのジャケットに無理矢理詰め込んだような、豊満な胸部が零れ落ちそうである。長く伸ばした蓬髪も、しなだれかかっている。特に、あえて右目を隠すように伸ばされた前髪が乱れ、その奥の、くぼみが見え隠れする。失われた右眼球の、そのいびつが。
チャームポイントのアホ毛も、姿勢と同じく前屈みだ。彼女の精神状態を顕すようなその毛束は、やはり、『疲弊している』ことを示すようだった。肉体的にも、精神的にも。
どうやら、台湾から飛んできた。雷としての彼女の特性で。男ですらそう納得した。とはいえ、地球の裏側に移動するほどの長距離だ。それゆえに、相当に疲れている、ということなのだろう。
「おどれ――」
少女へ呼びかけて、一息。乱れた姿勢を正して、女傑は、凛と立った。
「勝手すぎんねん、どあほう」
両手をライダースのポケットに突っ込み、モデルのようにつかつかと、スタイルよく歩み寄る。だがその表情には、一片の魅力もない。ただただ、憎悪や、嫌悪が、ありありと浮いていた。
「やっぱり――」
少女は俯く。ぎゅっと、着替えたばかりのワンピースの、その裾を自ら、握った。
その、落胆も、一瞬。
「解ってくれないのね」
睨み上げる。『家族』に――『妹』に、向けるにはあまりに乱暴な、敵意を乗せて。
*
おやめなさい。という声が、聞こえた気がした。
気がした。のが、一度あって――。
「おやめなさい」
と、現実的に、響いた。
見ると、さも当然のようにメイドが――クラシカルなロング丈の、ステレオタイプなメイドが、そこにはいた。
ひとり。ふたり。……あるいは、何人か。同じ姿が。
「メイちゃん……」
初動から、苛立ちを隠さない声で、少女は、彼女を呼ぶ。
理解していた。『神之緒』。神の力。それを発現した彼女は、自らの分身を――分身という本体を、いくらでも生み出せる。
どんな場所にでも。
だから、女傑のように、物理的に移動してきたわけじゃない。それらすべての分身を――本体を、いまだ台湾にいながら、このフランスへ、寄こしたのだ。
「おせっかいが過ぎるのよ。この、成り損ない」
「…………」
少女らしからぬ暴言に、それでもメイドは、沈黙で耐えた。唇を噛んで、踏み止まる。
「……ノラ様。……いいえ、ノラ」
「…………」
不敬な呼び捨てに、今度は少女が、耐えた。怒りを拭うような優しい声音に。その、『家族』みたいな慣れ合いに、気を許しそうになる。
「言ったよなあ、私は」
きっと、本来の彼女。そのような言葉遣いで、メイドは、娘を叱咤するように、静かな怒気を込める。
「ハク様の――ハクの――」
シリアスな場面だと、解っている。だが、メイドはその言い直しに一瞬、自らたじろいでしまった。それでも、ちゃんと、続ける。
「……ハクの、一番大切なものを奪うつもりなら、私は絶対に、あなたを許さないと」
宣言して、メイドは一度、男を見た。その状況に理解が追い付かず、ただうろたえている、ダメな男へ。
「おい、待て。……メイ。……パララ。……ノラ――」
本当に、意味が解らない。どうにもここ最近、彼女らの仲が良くなさそうだったとは感じていたが、それも、家族喧嘩のようなものだと思っていた。むしろ、距離が近くなったからだと。いい兆候なのだと、言い聞かせていた。
だが、現実に見る彼女らは、まさに一触即発だ。まるでこれから殺し合いでも始めそうなほどの、冗談じゃない緊張感。
いったい、なにがどうなっている。男の頭は極度の混乱状態だった。それでも、止めなきゃいけないだろうことは、解る。
「おまえら――」
「ハク」
とにかくなんだか調停しようと声を上げた男を、少女が制した。袖を掴んで、下から見上げて、あどけない表情を、見せる。
「だいじょうぶだいじょうぶ。なにも問題ないの」
やけに気軽い調子で、そう、言う。にこりと、優しい笑みすら零して。
だから瞬間、男は力を抜いた。安堵、したのだ。
「いま、黙らせるから」
しかし、続く言葉に、飛び降りよりも怖ろしい悪寒が、背筋に流れる。
*
「どうやら」「もう」「問答の余地は」「ないようですね」
数多のメイドが、同時に、動く。
「私たちは」「全員が本体」「そのうえ」「数に限りも」「ありませんよ」
そのすべての声が、少女ひとりを止めるために、集約した。
「はいはい。噛ませ犬みたいなセリフ、ありがとね」
少女はひとつ、肩をすくめた。噛ませ犬など、歯牙にもかけない、ようにして――。
それから、空気すべてを凍て付かせるような、冷たい表情を、浮かべる。
「『ぶっ殺すわよ』」
「「「「「「「「…………――!?」」」」」」」」
声が、具現化した。その鋭い刃物が、すべてのメイドを切り裂いた。
――かのような、錯覚。だが、錯覚ではなく、たしかにほとんどのメイドが、消え失せている。
「な……な……んで――」
たったひとり。双眸から、鼻から、口から、だらしなく体液を流した、彼女を除いて。他の分身――本体たちは、消え失せた。
それは、殺意だった。少女は本気で、メイドを殺す気だった。それが、メイド本人に、伝わった。それにより、メイドの心が折れ、『神之緒』の解除に至らしめたのだ。
「覚悟が足りないのよ。メイちゃん」
残った――いや、あえて残した、最後のひとりへ、少女は歩み寄る。
「ハクを守る気なら、救う気なら、他のすべてを裏切る覚悟くらいしてなさい。わたしを殺してでも、ちゃんとハクを思いなさい。だから――」
語りかけながら、少女はそっと、メイドの身体に触れる。彼女がいまだ所持したままだった、二冊の『異本』、『ジャムラ呪術書』と『鳴降』を、奪うために。
「あ……あぁ……」
少女が、メイドを殺すはずがない。そんなこと、メイド本人が一番、解っていた。
だが、たしかに覚悟は、本物だ。少女はメイドを殺さない。殺すべき状況に、繋げない。
つまるところ、そういう状況になりさえすれば、少女はメイドを、殺す覚悟を決めている。そういうことだ。
そんなものを『覚悟』と呼ぶのは横暴だ。しかし、善性であれ悪性であれ、その覚悟の強度は、たしかにメイドを超えていた。
「だからあなたは、成り損ないなのよ」
そう言って、少女は最後のひとりを、踏みつけた。そのメイドは、涙だけを残して、消える。
「やったら――」
振り下ろした足で、少女は踏ん張る。そうして、雷のごとく疾走してきた女傑の拳を、受け止めた。
「おどれが死ねや、ノラぁ!」
「いやに決まってるじゃない。馬鹿なの?」
怒号のような叫びに、それでも少女は、冷たく返答した。
「いやいや、いやいや……。あれもいやで、これもいやか? ガキみたいなわがまま言っとんなや! なんもかんも、ぜんぶ自分ひとりで! 勝手に! 決めよって!」
まっすぐな、女傑の怒りに、少女の冷ややかな表情も一縷、乱れた。
「あぁ、もうっ」
苛立ち、怒り、腹を立て。少女は鬱陶しそうに、女傑を蹴った。
だが、その足は、絡め取られる。電気に――雷に変容した、女傑の肉体に。
「行かせん……絶対、通さん……。うちは――」
「イライラするわ」
「…………!?」
女傑は、少女を止めたと思っていた。雷に絡め取り、そのまま感電させ、動きを封じたと。
だが、次の瞬間、なにかが起こった。すでに少女と同じほどにまで、洞察と、肉体的強度を得た。そう思っていた。だから、気付けなかった。
それほどまで成長していたと思い込んでいた女傑の、その視力で、認識で、まったく捉えられなかった。それだけの速度で、蹴られていたのだ。
顔面を。頬を。蹴り飛ばされ、脳が揺れる。なんとか意識を保とうとするが、そんな電気信号は、もう、間に合わない。
「の、ノラぁ……」
「なんでよ。なんでなの」
呻く女傑を見下ろして、少女は独白のような言葉を、呟く。
「なんでみんな、解ってくれないの……」
そう言って、女傑に背を向ける。霞む視界に、飲まれる。もう女傑は、……動けない。
「お、ねえ、ちゃん……」
それでも懸命に伸ばす腕と、その声に、少しだけ振り返った少女――。
それが女傑の、最後の記憶であった。
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