赤ヶ谷銀九郎。彼はかつて、少女の構える刀、『赫淼語』を手にし、振るった、侍である。江戸時代末期。本物の戦場で、本物の侍として生きた、過去の人物だ。
そんな、当然と現代では、生存しているはずのない人物が、そもそもここに存在して、生きているという現実は、この際、いったん、棚上げしておこう。それを語るのは、このエリアより、十階層上での出来事である。
いま肝要なのは、彼らの戦いだ。『異本』を懸けた――『異本』と命を懸けた、真剣勝負。互いに十分な凶器を構え、相手の生命を奪わんと、その全身全霊をもって、正々堂々と切り結ぶ、この場面だ。
少女が構えたと見るや、侍は、自身も構えに入った。先に少女の構えを待ったのは、剣士としては一日の長がある自分が譲歩すべき、と、そう、判断したからである。
決して、少女を侮ってなどいない。むしろ、幾重もの戦場で培ってきた経験が、いまだかつてなく警鐘を鳴らしてくる。おまえの全身全霊をもってしても、眼前の剣士には及ばない、と。
だが、それがなんでござる、と、侍は内心で、笑った。その程度のこと、日常茶飯事だ。いや、日常茶飯事であった。あの時代では――。
戦場では、どのような雑兵ですら、ひとりひとりが勇者だった。誰もが人を殺しうる技能と武具を持ち、その一命を賭して立ち向かってくる。一瞬の気の緩みから、はるかな格下の者にさえ深手を負わされ、ときにはそのもの、死に至る。彼は、そんな光景を、幾度となく見てきた。あるいは、自身も、いくらか不覚を取ったこともある。
そのたびに、彼は、己を律し、気を引き締め、さらなる鍛錬を積み、もはやどのような雑兵にも、一部の隙も見せぬ、と、心持ちを新たに――することはなかった。その点は、彼自身、本当に不思議だった。傷を負い、己が弱さを知り、喪失感じみたものを抱く。だが、その感情を、深く、深く探求してみるに、それは、なにかを失って淀む心ではなく、元よりなにもないことを知って途方に暮れるような、いわゆる虚無感だったのである。
だから、それを振り払うように、彼は刀を振るった。自ら進んで最前線へ出て、敵を斬り、己を斬り、邪念を断ち斬る。静かに深く瞑想しては、どうしても己の中の悪魔と顔を合わせることとなったから。
――拙者は、死にたいのだろうか――
『死』に面する戦場に出で、恐怖すら感じぬとは、これはもう、気違いの類だ。いや、気が違っているのならまだ、救われようもあったろう。だが彼の心には、暗く澄んだ闇が、ただ茫然と漂っているだけだったのだ。一縷の雲もない青天を望むように、その心は、幾度、覗き込んでも、ただただ凪として狂いない。
――『憂鬱』にござる――
また、侍は、思った。本日もまた、代り映えのない、『憂鬱』。自身の内にある、狂いようもない『虚無感』。
嗚呼……人間には、なにもないのだ。
生きるも死ぬも、なにも、ない。
……そんな声に抗うように、侍は、構えた。
*
生も死も、そりゃあ『憂鬱』よ。少女はそう、思った。
生きるも死ぬも、活かすも殺すも、それらを『選ぶ』ことは、他方を『選ばない』――つまりは『諦める』ということでもあるのだから。
ぐっ、と、両腕に力を込めて……一度、抜いた。強張った筋肉を弛緩させ、動きやすくする。ごちゃごちゃな思考を、処理しようとして、そのほとんどの情報が、『感情』だと理解して、『諦めた』。
人間の感情は複雑だ。誰もそれを扱いきれないし、制御できない。昨日は楽しくお肉を食べられたのに、今日はなんだかいまいちだ。そんなことは多分にある。そこには、あらゆる理屈がつけられそうなのに、そのどれもがしっくりこない。あるいは、そのどれでも正解なのかもしれず、であれば、結局のところ情報過多だ。考えれば考えるだけ理屈は湧いてくるし、その無限と呼べるほどの情報は、もはや人間の頭脳の及ぶところではない。そんなものをどうこうしようなど、過ぎた願いなのだ。
だが、人間が、感情を克服する方法は、ある。それが、『憂鬱』だ。
つまりは、『選ばない』という手法。ごちゃごちゃに散らばったピースを、繋ぎ合わせることを放棄する、という、虚無への道。
だがもちろん、そんなことを続けていれば、いつか、破綻する。世界から次々と持ち込まれる感情を、組み上げもしないで放置していれば、心は淀んでいくばかりだ。そしてピースが心の容量を埋め尽くしたとき、人は、身動きが取れなくなる。
心の中に『なにもない』を感じるのは、そうやって身動きを封じられ、目も耳も塞がれているからだ。目を閉じて空を見上げようが、美しい青は望めない。だがそれでも、そのときそのときを生きるには不自由しないだろう。下手に気苦労することもなく、まさしく無心に、過ごすくらいはできる。
ようは、どちらを『選ぶ』かだ。
『感情』に振り回され、それをどうにかしようとし、あがいてもがいて、『憂鬱』のうちに死を迎えるのか。
『感情』と向き合うことをせず、それらから目を逸らして、ただただ『憂鬱』に虚無に、無為に生きるのか。
無為に生きて、無為に死ぬのか。
まあどうせ、どちらにしたところで、『憂鬱』なのだけれど。
――わたしはもう諦めてる。だけど――
少女は、自身の『憂鬱』と向き合って、それでも、力強く、意識を奮い立たせた。
――わたしはわたしが、なにをすべきかを、知っている――
自分がなにを求めているのかなんて、もう、解らない。しかし、なにをすべきかは、解っている。
それは、あまりに理性的な、『憂鬱』だった。
*
少女に遅れて構えられた侍の姿は、一見して、低く身を沈めた抜刀術を思わせた。右足を前に、左足を後ろに大きく引き、捻る体に刀を隠している。左手で鞘を、右手で柄を握っているのは確かだが、しかし、それは一般に知られるどの抜刀術とも違う構えを呈していた。
いや、そもそもの定義として、それは抜刀術ではない。なぜなら、すでに刀は抜かれているから。侍は、すでに刀身を抜き切った刀を、まるで抜刀術のように構えているのだ。
鞘を、その握る手を、腰を労わる老人のように背に回している。そしてその鯉口に、刀の峰をあてがい、鞘とは垂直になるように構えるのだ。刀と鞘で、T字を――いや、刀身を深く深く差し込んでいるので、ほぼL字を描くような構え。
それは、抜刀術の先の読めなさ、そして、先立って刀を抜いておくことにより鞘から引き抜く上での摩擦をなくし、わずかにでも刀を振るう速度を上げようという意図が、同時に含まれていると読み取れた。
その、常識的には不可思議な構えのまま、侍は少女を見据える。抜刀術は、後の先、あるいは、先々の先をとることを主な攻勢とする。相手の攻撃に対して、その発動後に、それを勝る動きで相手を斬るか、攻撃発動前に、その攻撃を察知して、先に斬りかかるか。
どちらにしたところで、その一振りの速度に、絶対の自信を、自負を、持つということ。一般的な抜刀術と違って、刀をすでに抜いているとはいえ、その構えは防御に向かない。攻め込もうと体を落とし、体重を、踏み込みの右足に乗せているから。つまるところは、彼は、一刀のもとに勝負を決するつもりだ。
その、洞察は、一瞬。少女はすべてを把握して、即座に、動いた。
「た、ああああああああぁぁぁぁ――――!!」
踏み込みは、恐怖での初動だった。しかし、声を張り上げ、すべてを振り払う。
先をとられれば、死ぬ。確固たる確信があった。だが、恐怖で立ち向かって、勝てる相手ではない。
だから、邪念を、『憂鬱』を吹き飛ばす、咆哮を――。
「おおおおおおおおぉぉぉぉ――――!!」
侍も、雄叫びを上げた。
背水の陣。少女の洞察通り、彼は、守りを捨てていた。
侍は、けっして、抜刀術を特別に得意としているわけではない。もちろん、あらゆる剣術を修めてはいるが、そのどれをもバランスよく用い、適宜に対応する。
それでも今回、かなり特異とはいえ、抜刀術らしきものを選んだのは、自ら、逃げ道を断つ意味合いも含まれていた。眼前の相手を、それだけの強者と認めたゆえの、全身全霊の、策。
一刀にすべてを込める。そうでなければ、『流柳舞』の最高切れ味は発揮し得ない。そしてその、自らが引き出せる最高の切れ味を引き出せなければ、少女は斬れない、と、そう、肌で感じたのだ。
人体としてはおかしな話だが、少女の体は、鉄より硬い、と、そう、侍は感じ取ったのだ。よもや少女が、『異本』より得た身体操作の力で、そのもの体を硬化できると理解したわけではなかろうが、戦場を生きた者の勘として、彼は、真実を見抜いていた。
互いの踏み込みで、二枚の畳が、ほぼ同時に、浮いた。
すれ違い、斬り結び――勝負は、一瞬。
少女は、――崩れ落ちた。
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