黒から白へ、飛び込む。異空間から異空間へ。どちらもともに非現実だが、人間の知覚は騙される。闇のような世界から、光のような世界へ。だから丁年は、明順応に目を細めた。
鏡の中の世界。この場所を丁年は、そう認識していた。鏡に関与する『異本』であるらしい『神々の銀翼と青銅の光』ゆえに、その認識は的外れでもないのだろう。
だからこそ、彼はこの世界が、どことなく気に食わなかった。鏡に映る自分が気に食わない。このようになってしまった自分が気に食わない。とにかく彼は、彼自身が好きではなかったのだ。
まあ、そんなことを言っていられる状況でもないのだから、仕方はない。
「甘く見てたッスかね」
相手の土俵――闇に飲まれたような黒の世界で、無数の銃口に囲まれた。そこから、即座に離脱を選択。『異本』の力を発動し、自らの世界に逃げ込んだ。いざとなればこの、ある種、瞬間移動ともなる退避方法を選択できるゆえに、彼は余裕を持っていた。だが、いざこの最終手段を使わされると、これ以上に自分にできることはない、と、わずかの焦りが浮かぶ。あえて独り言をつぶやき、なにもない空間に腰掛け、そうして、愛銃のベレッタに、新しい弾倉をはめ込んだ。
そうして、その拳銃を、ジャケット内の脇元にあるホルスターへ。丁年は、それなりに体は鍛えたけれど、結局さして強くはなれなかった。だから、一キロもないこの愛銃一丁ですら、構え続けるには腕が持たなかい。重さだけでなく、発砲時の反動もあるからなおのことともいえるが。
利き腕である右手で扱う、愛銃ベレッタ。ゆえに、それは左の脇の下に収まっている。そこに手を当て、銃の形と、心臓の音を、同時に感じた。鼓動は、正常だ。まだ慌てるような時間じゃない。そのように、丁年は言い聞かせた。
次いで、逆の胸元に左手を当てる。心臓よりも大切な、感情を司る機関でも探すように。そうして、右の脇元に収められている物についても、確認しておいた。『異本』による瞬間移動。それと並ぶ、最後の切り札を――。
「見つけた――!」
そうして、次の一手を思案する丁年の後ろから、その声は唐突に、響いた。
視認するまでもなく、この空間なら理解できる。いま、後ろでは、あの超重量の斧こそ持たないものの、それを扱えるほどの剛腕が、掲げられている。
「まあ、そうッスよね」
だが、いつまでも後手後手に回ってなどいられない。丁年はこの事態を想定していた。ゆえに、軽い挙動で、難なく回避する。
物質的世界とは一線を画するはずの非現実的空間が、轟音を上げて破裂した。
「降っ参するなら、早めにねっ!」
空振りしたことなどお構いなしに、即座に彼女は、体勢を立て直す。そしてそのまま遮二無二、次なる攻勢に打って出た。愚直な、剛腕での殴りを。
「マジな馬鹿ッスか」
さきほどまでとは、状況が違う。むしろ対極だ。
これまでは、彼女に主導権を握られてきた。それはひとえに、彼女の作る空間に捕らわれていたからに他ならない。
だがいまは、その逆。丁年が作る空間に彼女を捕らえている。この状況なら、明らかに丁年に主導権があった。
彼の『異本』も、彼女の『異本』と同じ。空間生成と、空間制御に秀でた一冊なのだから――。
殺すイメージを、持つ。丁年はロリババアと違って、物質的に殺意を生み出したりはしない。業火を生む。銃口を作り出す。そんな、明らかな殺意を、相手に知らしめる必要はない。必要なのは、相手に抵抗を与えぬまま――気取られぬままに即死させる、暗殺だ。
白い空間に、透明な、圧力を。大きくて、強靭な、超重量のブロックだ。透明なそれをイメージして、彼女の頭上から、高速で振り下ろす――。
「馬鹿馬鹿、馬鹿って――」
見えて、いなかったはずだ。だがなにか、兆候を感じたのか。彼女は――彼女の姿は、瞬間、丁年の視界の、死角に飲まれた。
闇が――人間の大きさほどの黒が、言いかけた言葉をももろとも、彼女を飲み込んだのだ。
「――うっさいよっ!」
消えた言葉が、丁年の後ろで、続く。
――――――――
ロリババア――WBO『特級執行官』、コードネーム『ガウェイン』、本名、フェリス・オリヴィエは、半生を振り返る。振り返ってみて、ああ、これはまったく、うまくいっていない。そう、反省するのだ。
彼女は、フィンランドで林業を営む、個人事業主のもとに生まれた。国土の約75パーセントを森林が占めるというこの国では、自然と、林業が栄えた。彼女の実家も、その林業に携わる、極めて一般的な家庭だったのである。
さして裕福だったわけではない、しかして、生活に困ることはなかった。そこそこに幸せで、そこそこに不満を抱えた、やはり、一般的な一家でしかなかったのだ。
あえて言うなら、高性能な林業機械、最近ではAIまで活用したスマートな事業活動が展開される中、人の手と、目によって、昔ながらの営業をしていたことくらいか。それでも、彼女の実家はなんとか、社会活動を続けてきたのだ。
そんな中、幼いフェリス少女は、両親の所有する森林に囲まれて育った。まるで永遠に続くような大自然の中を、小さな斧を担いで走った。両親の真似をして、大木を切り倒す――。それは、幼い彼女に発現した、遠い祖先――スパルタの、剛腕によるものだった。
そんな異常事態があっても、おおらかな彼女の両親は、特段騒ぎ立てるでもなく生活した。ただ、自分たちの事業は、将来も安泰だ。そう、思うにとどめた。だがその、曖昧な願望は、叶わずに潰える。
あるとき、火の手が上がった。原因は解らない。だが、乾燥した冬のフィンランドだ。枯れ葉などの擦れにより火種ができ、自然発火ということも起こり得る。もちろん人為的なものであるかもしれない。火の不始末からなる失火。あるいは、悪意ある放火。まあ原因はともかく、火の手は上がり、それが彼女の実家が持つ森林を、焼いて回ったのだ。
こつこつと積み上げたものも、失われるのは一瞬だ。彼らは自分たちの事業とともに、信用まで失った。幸せだった家族での時間も、妙にぎすぎすして、いたたまれない気持ちから逃げるように、フェリス少女は、地元を遠く離れた、海外の大学に進学した。
大学への進学は、彼女にとって背伸びをした選択だった。けっして勉強が不得手だったわけではない。頭の出来はよくなかったが、真面目な性格で、授業はサボらず聞いていた。やはり天性の不出来は足を引っ張ったが、やればやっただけ結果が出る学校の勉強くらいなら、そこそこの成績を修めていたのだ。
だが、無理に地元を離れるため選んだ国外の大学では、言語の段階から躓くこととなる。いや、言語はまだいい。フィンランド自体が、フィンランド語とスウェーデン語、ふたつの言語を公用語と定めるバイリンガル国家で、フィンランド語を母語として用いる者も、およそ十三歳のころからスウェーデン語も学び始める。英語に関しては小学一年生から学ぶし、中学、高校では、さらに選択言語としてその他の外国語も学ぶ。このように外国語を学ぶ機会が多いフィンランド人の英語力は相当なものだという。
だから、勉強に関してはそこそこできた彼女なら、国外でも、言葉の問題で会話がままならないということはなかった。むしろ問題は文化的な違いで、そのせいもあり、周囲から徐々に浮いていったのだ。
そして、一番の問題は、彼女の埒外な怪力だった。人体としては規格外の、天性の膂力。そしてそれを、枷などなく無邪気に振り回して育った、奔放な幼少期だ。それゆえに、さらに周囲から浮き、あるいは怖れられた。
こうして彼女は孤独に囲われて、仕方がないから読書をして過ごした。その習慣がやがて、『異本』やWBOとの繋がりになっていくわけだが、それはまた、別のお話。ともあれ彼女は、幸せな家庭から一変、人とのかかわりから隔絶された孤独に苛むこととなる。その辛さや悲しみは、いつからか妬み――『嫉妬』に変わったのだ。
――――――――
ボギッ、と、嫌な音が、白い世界に響いた。
「くっ……!」
威力は、殺したつもりだった。とっさの判断だが、身を引き、勢いを軽減させた。それでも、丁年の右腕は折れた。
そのまま――身を引いたまま後退し、すぐ後ろに展開させた鏡の中に飛び込む。だが、逃げるのではない。その鏡の先は、自身の背後をとったロリババアの、さらにその、後ろ。
「たしかに、ただの馬鹿じゃねえ――」
パワーはともかく、戦闘センスに関してはからっきしだと聞いていた。だが、あの直感的反応。丁年の、見えない攻撃を躱した行動。それを見て、彼は認識を改めた。
折れた右腕で銃を抜こうとして、痛みに顔をしかめる。左腕を懐に入れようと動かすが、瞬間、考え直し、『異本』の力で左脇の、バレッタを左手に転移させる。
まだ、切り札には早い、と。
銃口を向け、引き金を、引く。――だがその一瞬前に、黒が彼女を隠した。
「ううん。ただの、馬鹿だよっ!」
彼女は、自身の愚かさを認識している。しかし、他人から言われる『馬鹿』とは、ニュアンスが違うと思っている。
ワタクシが愚かなのは、頭の悪さじゃない。
いつからか、自分を殺して生きるようになった、その、弱さだ。
そう、理不尽な怒りを覚え、それを、眼前の相手への『嫉妬』へと変換する。『家族』がいること、『家族』を思えること。――『家族』を思い、復讐することを容認されていること。
ちゃんと『家族』を思えることへの、『嫉妬』だ。
背後をとった彼女の、その背後をとる彼。
そのさらに背後へ、ロリババアは無意識に、駆けた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!