2020年、八月。日本、新潟。
海岸沿いの崖の上。四方を高い塀に囲まれた屋敷だ。屋敷自体はその塀に阻まれ、外からはよく窺い知れないが、そこかしこに蔦が巻きつき、廃墟同然の装いである。また敷地内にも草木が茂り、ジャングルのような雰囲気がある。
見るからに廃墟であろうその屋敷には、昔から偏屈な学者先生が住んでいると、近くの町民たちからは嫌厭されていた。
そして実際に、彼らは住んでいる。
「『オヤジ』、もういいかげん、食いもんがないんだけど」
子どもながらにしかつめらしい顔つきを会得した幼年だった。茶色い髪に茶色い目。肌は黒いが、日焼けの黒さであることは袖口から見てとれる。常にしかめた顔つきではあるが、どうやらよく整っている。この幼年は眼鏡をかければ印象のいい顔に変わるかもしれない。
「そんなことをぼくに言われてもどうしようもない。食事なんて数ヶ月食べなくても支障ないものだよ」
『オヤジ』と呼ばれた若者は、椅子に腰掛けたまま、幼年を振り向きもせずに答えた。父親のような呼ばれ方をしているが、この年の子どもを持つ親としてはいささか若い印象だ。齢三十を数えるかどうかくらい。端正な顔つきの、金髪金眼。もう長く外出していないかのような白い肌。所作の一つ一つが気障ったらしいが、それゆえにその動作は若者にマッチしている。
「そりゃ『オヤジ』だけだよ。俺たちは人間だから、食べなきゃ死ぬの」
「それは不便なことだ。適当に調達してくるのがいいだろうね」
ただし、いつも通り、不当な方法は用いないように。若者は付け加えた。
その言葉に幼年は嘆息する。また眉間に皺が増えたようだった。
「大変大変! 『お父様』! 侵入者が来たのだわ!」
ふと、けたたましくドアを開け、叫ぶ女児が現れる。
「報告報告! 『お父上』! すっごく可愛い女の子!」
それも、二人だ。
二人の女児はよく似た外見をしている。腰まで伸ばした艶のある長い黒髪に、赤茶色の目。肌は一般的な黄色人種といった色合い。日本人的と言ってもいい。顔つきもお揃いで、やや釣り上がった目尻が特長的である。高い鼻。赤い唇。どこを見てもそっくりな二人の相違点は、耳たぶの真下あたりにある黒子の位置が、左右対象なことくらいだろうか?
「やれやれ」
二人の女児からの報告を受け、若者は、椅子を回転させて振り向いた。そこにいる三人の子どもたちを順に見る。
「面倒なのがやってきたね」
そう言って、わずかに口元を歪めた。
*
少女は何度も振り返りながら進んだ。もはやジャングルと言ってもいい、草木の生い茂った敷地を。
「本当にここで合ってるんでしょうね……。なんだか、あの狭い門を抜けてから、異世界に迷い込んだような気がしてならないわ」
誰に言うでもなく、少女は呟いた。
艶やかな銀髪を腰まで伸ばし、美しい緑眼を従えた可憐な少女だった。その美しさを引き出すにはやはり白がいい。それを理解しているのか、真っ白なワンピースを身に纏い、腕にはやはり白の、豪奢なオペラグローブをはめている。頭にはつばの広い麦わら帽子。背中には、小柄な少女に似つかわしくない大きめのリュックサックを背負っていた。
ノースリーブから覗く肩がわずかに傷付いている。薄い胸を上下させ、荒く息を吐く。どうやら少女は、そのジャングルに足を踏み入れるには、少々、準備を怠ってしまっていたらしい。
もう一度、後ろを振り向く。誰もいない。そのことに安堵するのか、悲観するのか、どちらともつかない感情を覚える。もうくぐってきた小さな門は、とっくに見えなくなっていた。
「こんな辺鄙な土地の、辺鄙な邸宅でどう暮らしているのかしら。食材の買い出しすら面倒でしょうに」
その声量は、とても小さい。誰に言うでもない言葉だから。そのことに気付いて少女は、一つ嘆息した。
立ち止まり、見上げる。蔦の巻き付いた、廃墟のような屋敷を。
「ここでハクが育ったのね。そりゃあんな風に、性格もねじ曲がるわ」
誰に言うでもないが、さきほどよりかは大きく声を上げて、少女は言った。そして振り返る。誰もいないことを確認して、少し、笑った。
*
十五分ほどもじっくり時間をかけ、少女はようやく、屋敷の玄関口まで到達した。
呼び鈴はない。少女は少し躊躇ったが、やがて、ドアノブに手をかけた。
「……お邪魔します?」
わずかに戸を開け、中を覗き見る。屋敷全体がコンクリート造りのようだ。だが、戸や窓のサッシは木製。そして、どこからどう伸びているのか、屋敷内部にも蔦が巻き付いている。これではもはやダンジョンだ。
薄暗い廊下に立つ。玄関の扉を閉める。いや、いまさらだが玄関ではないのだろう。コンクリート造りなら外靴のまま入っていいのだろうが、それにしても客人を迎え入れるような雰囲気がない。まあそれは、基本的に客人など来ないのだろうから、と納得はできるが、単純に狭すぎる。玄関の扉を開いたつもりが、ただ自室から廊下に出ただけのような、面白味のない空間なのだ。
「まあいいわ。どうせ招かれざる客なのだし、他の入口を探す必要もないでしょう」
少女は薄暗い廊下を進む。一度入ってしまうと肝も据わったのか、勝手知ったる他人の家を進むような足取りだ。
左右にいくつかの扉を見る。だが、使われている様子がない。最初のいくつかは恐る恐る開けてみたが、どこにも誰も、住んでいる気配がない。
「……まさかもう、いまは住んでいないとかないわよね。ここまで来て」
少女はそちらの可能性を危惧し始めていた。そう考えると、少女の態度は、さらに横暴になって行く。転がっていた石を蹴ってみたり、その辺の蔦を毟ってみたり。あげく目についた扉を乱暴に開け放してみたり。
まあ、そんなことをしていれば、いつかはこうなる。
「あっ!」
裏返った声で、少女はつい、叫んだ。
「……どちらさま?」
少年は言った。
読みかけの本を閉じる。机に置いて、立ち上がる。
「またジンが、新しい子を連れてきたのかな」
少女の前に立つ。頭一つ分ほど上から、少女に声が下りる。その角度は、その声音は、どこか神聖なもののように、少女の耳に届いた。
*
少女が経緯を説明すると、少年はジンという人のもとへ案内してくれると言った。少女は以前のように、その背中を着いて行くだけだ。
先行する少年は淀みなく歩んでいく。決して速くはないが置いて行かれそうだ。やはり勝手知ったる他人の家のようにしていても、本当に勝手を知っている住人には及ばないということなのだろう。
少年は、不注意にも本を読みながら歩いているというのに、天井から垂れる蔦一つにすらぶつかりはしない。
「あの、ここにはいま、何人くらい住んでいるの?」
少女が言った。足元を掬う、上部から攻撃してくる、それぞれの蔦を躱し、息を切らしながら。
「ジンを含めれば五人だね。あなたは……含まれないか」
少年は一瞬ペースを落とし、少女を振り返った。目が悪いのか、少し目つきを鋭くする。それからというもの、少年の歩く速度は一段階落ちた。
改めて、少年の姿を見る。
白くもなく黒くもない髪色。灰をかぶったようなくすんだ色だ。肌の色もそれに準じた様子。つまり、全体的に灰色の少年だった。瞳の色は青。そこだけ世界に浮いているような、濃い青色だ。体つきは、全体的に細く長い。特に指だ。少女のものより二倍くらい長く見える。こう見ると、どことなく宇宙人じみている。
「着いたよ。どうぞ」
少年が言う。その特徴的に響く声で、一つの扉を示した。
「あ、うん。……ありが――」
少女が礼を言おうとすると、すでに少年は引き返していた。廊下の先の薄暗がりに、じわじわと消えていく。
「……幽霊みたい」
少女はそれからしばらくの間、また不意にその闇から現れやしないかと、じっと見つめていた。
*
気を取り直して、ドアノブを握る。そして、いまさらながら湧き上がってくる緊張を飲み込み、開いた。
「「にぱー!!」」
「わわわ!?」
シンクロして行われたにぱーをわわわで受ける。その代償はしりもちだった。
「い、たた……」
少女は座り込んだままお尻をさする。見上げると、いたずらな顔で、よく似た二人の女児が笑っていた。
「成功成功! やったね、カナタ」
「僥倖僥倖! やったよ、ハルカ」
左右対称な動きで、二人の女児が手を合わせる。幽霊の次はドッペルゲンガーだ。
「びっくりしたわ! どうしてくれるの? お尻がじんじんするのだけど!」
少女が叫ぶと、きょとんと二人の女児が目をしばたかせた。それから、ゆっくりと顔を歪ませ、また、笑う。
「女の子がー」「あんまり叫んじゃー」
二人の女児はやはりシンクロして、左右の腕をそれぞれ一本ずつ、差し伸べた。
「「いけないのよー」」
得意げに言う。なんだか腹が立ってきた少女だった。ゆえに、その二つの手を払い、自分で立つ。
二人の女児を無視して、部屋の中を見渡してみる。
とりあえず正面に二人の女児。少女と同年代にも見えるが、その言動はもう少し年下ではないかと思わせる幼稚さがある。向かって右手には、これまた少女と同じくらいの年代の幼年。やけに眉間に皺が寄っているが、絶対に少女より年下だ。少なくとも、ジンという人ではないだろう。
そして、正面。その部屋唯一の窓に向かって、一人の金髪の若者が座っている。こちらに背を向け、机に向かって、物書きでもしている様子だ。
「やあ、来たみたいだね」
椅子を回転させて、若者が少女を向く。
「ここにはなにもないから、早く帰った方がいい」
客人を迎えるのと逆の言葉で、少女を歓迎した。
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